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第22回セッション、ローマ ‐1923年

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 172-175)

1.11. 狂った歳月 ‐ 1919‐1924

1.11.2. 第22回セッション、ローマ ‐1923年

第22回セッションはクーベルタンが議長をつとめ、1923年4月7日から12日までカピトリウムの広 間で行われた。

ECはド・ブロネーが議長をつとめ、 7日の朝前もって会合し、特に重要な議題の扱いについて 準備した。

開会式は国王ビクトール・エマニュエル三世臨席の下に行われ、イタリアの主だった政治家、学 者が多数出席した。

クーベルタンは「この決意の丘に立って」、歴史のなかで意志の力で敵に対抗することのできた ローマの人々に敬意を表した。「ストイシズムの令名高い影」が極めて身近にある。オリンピズムの 進歩に疑いを持つ者は、エピクテトスの「祈祷書」かマルクス・アウレリウスの「自省録」、「真のスポ ーツマンのノート」の頁へ戻れ。

読む者はは心を安んじ、オリンピックの制度が強力なのは「民主主義と普遍性」の二重の保証 の下にあるからだと気がつくだろう。

「全ての人に全てのスポーツを」。この言葉は現代のスポーツマンシップの民主的な熱望を定義 したものである。

IOC会長は熱弁を振るった。「今日、スポーツによる世界征服を完成しようとするならば、最後の 戦いの最初の作戦行動を策定しなければならない」。この「併合」はアフリカの併合であろう。そし てその範囲は「ヨーロッパ植民者の善意が及んだ所ばかりでなく、中央アフリカ、昨日まで地理さ え定かでなく、その混乱した血塗られた過去を我々はやっとかいま見ることをはじめたばかりの地 域の併合、スポーツ王国への併合であろう」。

オットー・メイヤーは、パリ大会の準備が討論の最も困難なテーマであることを報告した。まさに、

時は過ぎていく。遅れが生じている。クーベルタンは苦労して苛立ちを隠した。しかし他の問題も 同じように重要である。

普通のものは別にして、IOCのイデオロギー的官僚的在庫品と呼ばれるものがあった。

アマチュアリズム、女性問題、会費、チャレンジカップ、盲目的愛国主義、ドイツの代表権等々。

しかしクーベルタンがトーンを定める。ローマセッションの中心テーマはスポーツのアフリカへの浸 透である。

フランスNOC 会長、クラリー伯爵がコロンベスタジアムの工事について中間報告を行った。そ してヨット競技の会場と水泳プールを発表した。

オリンピック選手村(主要な革新)の運営は私企業に任される。選手は12人から15人用のユニッ トの2人部屋に入る。

ド・ポリニャック侯爵は芸術競技の審判を集めるのが難しい報告した。「ミューズの五種競技」と いう美しい名前だったが、芸術家たちには歓迎されなかった。

五つの古典的なコンテストに「工業アートとスポーツ」というテーマの展覧を含む芸術、文学行事 が追加されることになるだろう。フランスの提出したオリンピックメダルのデザインは賛否両論で迎 えられた。IOCはこれを1924大会にだけ使うとして受け入れた。

フランツ・ライヘルはコロンベのオリンピックスタジアムの設計図を示しながら経過報告を行った。

エドストレームは冬の大会はパリ大会の一部ではなく、単にIOCの後援の下に行われるべきだと主 張した。スケルトンとボブスレーが競技種目になった。

オランダの委員、シャルー大尉が1938年のアムステルダム大会の準備が既に始まっているとセ ッションで報告した。1928年の冬の大会の場所はまだ決まっていなかった。

アマチュアリズムの問題が再び取り上げられた。今回はジークフリード・エドストレームが提起し た。彼とクールシー・ラファンによれば、「収入のロス」に対する補償についての憤りを放置しておく のは適当でない。「民主主義は発達している。」

ハンガリーの委員、ムサはトレーニングの時間も補償の対象にすべきではないのかと質問した。

議論は熱のこもったものになった。この結果エドストレーム、ケンティッシュ、モンツー、ライヘルか らなる小委員会が設置された。クーベルタンは1909年にベルティエが行った調査の質を思い出し て、決定を1925年のプラハコングレスに延期した。

フェミニストの「悪用と過剰」に直面しながら、IOCは動かされなかった。

チャレンジカップは三つのグループに分けられた。歴史に関するもの、主題によるもの、商業的 なものである。歴史の分野はオリンピック博物館にゆだねられ、他のものはスポーツの新しい区分 けによって分割することが決まった。興味のないものは提供者に戻すが、そうでなければIOCに保 管される。

盲目的愛国主義の問題にメンバーはいきり立った。前回1920年アントワープ大会で選手、特に イギリスの選手が「審判の裁定に反抗した」。これは許すべからざることである。委員はいろいろな NOCに警告を送ることになった。また名誉の陪審が設置された。

決定は以下の通りである。

1゜  オリンピック大会期間中IOC ECが名誉の陪審を構成する。

2゜  この名誉の陪審の仕事は、国際審判団の仕事でない非技術的性格の全ての紛争に介入 すること。それが組織委員会の要請であれ、団体の正当な代表によって提出された場合は 当事者の要請であれ、そして絶対に必要な場合は自主的に、介入することである。

このテキストは採択された。これは IOC憲章の一部ではないが、「運用上の規則」の役割を果 たした。

ドイツの代表権問題は IOCにとって幾分、具合の悪いものであった。

一方では、休戦が成立し、平和条約が結ばれた以上、普遍的であるのはオリンピズムの義務で ある。しかし一方では、1924年の大会が開催されるフランスはまだ荒廃しており、多くの委員はドイ ツのスポーツ・ムーブメントの中にある好戦的な性格を危惧していた。

クーベルタンは困った立場にいた。彼は再び、IOCは1914年にドイツの委員を追放したわけで はなく、三人のドイツ委員が死んだので、補充の必要があることを指摘した。

キャンセルされた1916年大会の事務局長、カール・ディームとマルヴィッツが1922年末会長との 会談のためにローザンヌに招かれていたが、これは実現しなかった。

議論は白熱した。状況は絶望的だった。クーベルタンは議論を持ち越した。

同じように、プリンス・ウルソフもパリ大会にロシア人は受け入れられないと告げられた。亡命ロシ ア人は「自治国家ではない」からである。 

オーストリアはもはやIOCのメンバーではなかった。しかしパリ大会には参加する。

これは寛大な措置であり、それに対する対応は目立たぬようになされた。

明らかに、これらの問題は単なる形式の問題ではなかった。白熱した議論の内に浮かび上がっ たのは、深層にある重要な問題の兆しであった。

それにもかかわらず、1923年のローマセッションではスポーツのアフリカへの浸透とアフリカ大会 開催が、結局はただ一つ重要な問題であるように見えた。

そして先に見たようにクーベルタンもそれを確認した。

「黒人」は前線で戦った。これは明白な事実、ナンバーワンであった。

オリンピズムは普遍的なものである。これがナンバーツーであった。

アフリカは「浸透」されねばならない。言葉は曖昧でないこともないが、ナンバースリーである。こ の平和的な教育的な精神が植民主義者の精神と如何にして衝突したか、我々は既に見た。

華麗な祝典がクイリナリスイタリア王宮で用意されていた。

クーベルタンと IOC委員はバチカンに丁重に迎えられ、法王ピオ十一世は「オリンピズムに対 する心のこもった同感の新たな保証」を与えた。

チェコスロバキア政府とNOCの招きに応じ、IOCは1925年プラハで技術、教育コングレスを開く ことに同意した。パリはIOC第23回セッションを開催することになった。

ドキュメント内 IOC百年統合版用第1章 (ページ 172-175)