第 2 章 原子とイオンの相互作用 33
2.3 原子 - イオンの散乱過程
2.3.3 量子散乱理論
図6 Li-Ca+ 系の模式図.
HˆΨ = (
− ℏ2
2matom∇2atom− ℏ2
2mion∇2ion
− ℏ2
2me∇2e1 − ℏ2 2me∇2e2
− e2 4πϵ0rLi−e1
− 2e2 4πϵ0rCa+−e1
− e2
4πϵ0rLi−e2 − 2e2 4πϵ0rCa+−e2 + e2
4πϵ0re1−e2 + 2e2 4πϵ0R
)
Ψ =EΨ
(33)
上式中のmeは電子の質量である.
ここでハミルトニアンHˆ の一,二項目はLi+ とCa2+ イオンの運動エネルギー項 であり,三.四項目は価電子e1,e2 の運動エネルギー項である.五,六項は価電子 e1 とLi+ あるいはCa2+ 間の実効的なポテンシャルであり,七,八項は価電子 e2 とのそれである.また九項目は価電子間の相互作用項であり,十項目は核間,すな わちLi+ とCa2+ 間の相互作用である.ただし,ここではスピン自由度に関しては 考慮しない.
ここで式 (33)にボルン-オッペンハイマー近似を適用する.これは核の質量が電 子の質量に比べてはるかに重いことから,電子の運動は核の運動より十分に速く,
核の運動を無視できるとする近似である.式 (33)をこの近似のもと電子の運動と核
の運動に分離すると,電子の運動に関する方程式は
HˆΨe = (
− ℏ2
2me∇2e1 − ℏ2 2me∇2e2
− e2
4πϵ0rLi−e1 − 2e2 4πϵ0rCa+−e1
− e2
4πϵ0rLi−e2 − 2e2 4πϵ0rCa+−e2 + e2
4πϵ0re1−e2 )
Ψe =WΨe
(34)
と書ける.
式 (34)について原子核間距離を変化させて計算すると電子の状態Ψe と電子のエネ ルギーW(rLi−Ca+)が得られる.このエネルギー曲線を核運動のポテンシャルとし て核に関するシュレディンガー方程式を記述すると
HˆnΨn = {
− ℏ2
2matom∇2atom− ℏ2
2mion∇2ion
+ 2e2
4πϵ0R +W(R) }
Ψn =E′Ψn
(35)
となる.
上式 (35)のハミルトニアン中の三項目は核間の相互作用であり,四項目は電子のエ ネルギー曲線である.以上の二つの項が原子-イオン間散乱の実効的なポテンシャル であり,V(R) = 4πϵ2e2
0R +W(R) とおく.
式 (35)を重心座標系で書き換えて重心運動と相対運動に分離する.ポテンシャ ルV(R)は核の相対位置にのみ依存するため,重心運動は自由空間中の運動となる.
すなわち,平面波が解である.
一方で相対運動のシュレディンガー方程式は
HˆrelΨrel = {
−ℏ2
2µ∇2rel+V(R) }
Ψrel =ErelΨrel (36) とかける.ここで換算質量µの粒子の波動関数をΨR とし,エネルギーをErel と した.
式(36)中のポテンシャルV(R)は球対称ポテンシャルであるため,波動関数ΨR
は動径方向と角度方向に変数分離することができる.さらに波動関数を軌道角運動
量量子数lで分解する.
Ψrel(R) =
∑∞ l=0
∑l m=−l
ClmΦl(R)Ylm(θ, ϕ) (37) ただし,Clmは任意係数,Ylmは球面調和関数であり,l, mは量子数である.また,
Φl(R)は動径方向の関数である.
上式 (37)のように角運動量の固有関数で波動関数を展開する手法を部分波展開と呼 ぶ.この手法は特に冷却原子系などの低エネルギーでの散乱を取り扱うとき非常に 有効である.本研究で扱う原子-イオン散乱も絶対零度近傍の低エネルギー散乱であ るため,この手法が有効であると考えられる.
動径方向の方程式は {
−ℏ2 2µ
( ∂2
∂R2 + 2 R
∂
∂R )
+ ℏ2l(l+ 1)
2µR2 +V(R) }
Φl(R) =ErelΦl(R) (38) となる.
上式を簡単にするため
Φl(R) = χl(R)
R (39)
と置き換えると式 (38)は {
−ℏ2 2µ
∂2
∂R2 + ℏ2l(l+ 1)
2µR2 +V(R) }
χl(R) =Erelχl(R) (40) になる.すなわち動径方向のは方程式はボルン-オッペンハイマー近似に基づくポテ ンシャルエネルギー曲線V(R)と遠心力ポテンシャルの和からなるポテンシャル項 を持つ.ただしlは散乱の軌道角運動量の量子数である.
なお動径方向の波動関数が満たすべき境界条件の一つとして,原点付近で波動関数 式 (39)の形が
Φl(R) = χl(R)
R ∼Rl (41)
を満たす必要があり,ここから原点R= 0においてΦl(R) = 0である
一方の角度方向の解に関して述べる.球対称ポテンシャルであるため,粒子の入 射方向の軸まわりに回転対称性を持つ.すると角度ϕに関する依存性がない(ただ し,今回はスピン自由度について考慮していない).すなわち,
Ylm=0(θ, ϕ) =
√2l+ 1
4π Pl(cosθ) (42)
となる.Pl(cosθ)はルジャンドル関数である.
以上より,波動関数Ψrel(R)は,Clを任意係数として Ψrel(R, θ, ϕ) =
∑∞ l=0
Cl
χl(R)
R Pl(cosθ) (43) となる.
以上の議論は文献[1, 91]を参考にした.
散乱断面積
上記の時間に依存しない原子-イオン系のシュレディンガー方程式より,原子-イ オン間の相互作用は仮想的な一粒子が中心力ポテンシャルによって散乱される問題 へと帰着できることが分かった.さらに部分波展開を用いて波動関数を展開し,動 径方向のシュレディンガー方程式を得た.ここでは文献[91, 92, 93, 94]をもとに中 心力ポテンシャルによる散乱を議論し,散乱断面積を導出する.
これまでに議論した定常状態の散乱問題に適した境界条件を考える.遠方から飛 んできた粒子が中心力ポテンシャルに入射し,散乱されるとき原子-イオン間の相互 作用ポテンシャルは遠方で距離の四乗に反比例するため,R → ∞において作用を 無視できる.すなわち,無限遠方での波動関数は入射粒子による入射平面波とポテ ンシャルによる散乱に起因する外向き球面波によって書ける.
Ψ′(R)|r→∞ = eikcollz+ f(θ)
R eikcollR (44) 第一項が入射粒子の平面波であり入射方向をz とした,第二項が外向き球面波であ る.ここで,f(θ)は散乱波の振幅を示しており,散乱振幅と呼ぶ.ただし,上で議 論したようにz 軸周りの回転対称性を考慮し,角度ϕを無視している.
微分断面積は散乱振幅の絶対値の二乗でかけることから,弾性散乱の散乱断面積 σel はこれを全範囲で積分することで得られる.
σel = 2π
∫ 2π 0
|f(θ)|2sinθdθ (45) ここまでに漸近領域における境界条件を満たす波動関数から弾性散乱断面積の式 を示した.この漸近領域における波動関数に対して前項で記した部分波展開を施す.
まず,平面波はレイリーの公式より
eikcollz = eikcollRcosθ =
∑∞ l=0
(2l+ 1)iljl(kcollR)Pl(cosθ) (46)
と展開される.ただし,jl(kcollR)は球ベッセル関数,Pl(cosθ)はルジャンドル関 数である.
さらに球ベッセル関数の性質より漸近領域R→ ∞では eikcollz
R→∞ =
∑∞ l=0
2l+ 1 2ikcollR
{eikcollR−(−1)le−ikcollR}
Pl(cosθ) (47) となる[95].
一方で球面波に関して散乱振幅をルジャンドル関数で展開し
f(θ) =
∑∞ l=0
(2l+ 1)flPl(cosθ) (48) が得られる.ここでflは各部分波の振幅を示す.
以上より部分波展開した波動関数Ψ′ の漸近領域における形は Ψ′|R→∞ =
{
eikcollz + f(θ)
R eikcollR} R→∞
(49)
=
∑∞ l=0
2l+ 1 2ikcoll
{
(1 + 2ikcollfl)eikcollR
R −(−1)le−ikcollR R
}
Pl(cosθ)(50) と得られる.
ここでこの式 (50)括弧内の第一項は外向き球面波,第二項は内向きの球面波である ことがわかる.さらに入射平面波は式 (47)からもわかるように波面が球対称な外向 き球面波と内向き球面波の和からなる.一方でポテンシャルによる散乱波は外向き 球面波であり,括弧内第一項の係数2ikcollflの項である.
今回取り扱っているのは弾性散乱であるため,粒子の増減は起きない.すなわち,
外向き球面波と内向き球面波の振幅の絶対値が等しくなることが,確率の保存から 要請される.つまり|1 + 2ikcollfl| = 1を満たす必要がある.遠方で観測される散 乱による波動関数の変化は位相変化であるためこの位相シフトをδlとして
1 + 2ikcollfl= e2iδl (51) と表すことができる.
部分波の散乱振幅flについて上式 (51)を解くと fl = e2iδl −1
2ikcoll = e2iδlsinδl
kcoll = 1
kcollcotδl−ikcoll (52)
と求められるので式 (48)から f(θ) =
∑∞ l=0
(2l+ 1)e2iδlsinδl
kcoll Pl(cosθ) (53) と書き換えることができる.
以上から散乱振幅f(θ)を散乱による波動関数の位相シフトδl に関する問題に帰着 することができた.
式 (53)を利用して散乱断面積の式 (45)をルジャンドル関数の直交性を用いて整 理すると
σel =
∑∞ l=0
σl = 4π kcoll2
∑∞ l=0
(2l+ 1) sin2δl (54) となる.
以上より散乱断面積を各部分波の位相シフトを用いて書くことができた.
上の議論では中心力ポテンシャルによる散乱問題について入射波の位相がポテン シャルの存在によって位相δl だけシフトするという問題に帰着した.またこの結 論を導くために確率の保存を利用した.ところで位相シフトδlは式 (40)に示した 動径方向のシュレディンガー方程式の解がポテンシャルV(R) + ℏ22µRl(l+1)2 の存在に よってシフトすることに対応している.以下では位相シフトと動径方向の波動関数 の関係について記述する.
さて距離Rがポテンシャル到達距離である特性距離r∗ よりも遠い領域での動径 方向の解を考えてみる.ただし,R > r∗においてポテンシャルの効果は無視できる とする.つまり,自由粒子に関する波動関数であるため球ベッセル関数の線形結合 で表すことができる.この動径方向の波動関数を式(43)に代入した上で漸近領域で のふるまい Ψrel|R→∞ を考える.この漸近領域の波動関数は以前,式 (50)で導い た漸近領域の波動関数と一致すると考えられる.以上より動径方向の解は球ベッセ ル関数を用いて以下のようにかける.
Φl(R) =Dl{cosδl jl(kcollR)−sinδl nl(kcollR)} (55) ここで,Dl は規格化定数,jl(kcollR)は球ベッセル関数(第一種球ベッセル関数), nl(kcollR)は球ノイマン関数(第二種球ベッセル関数)である.
s波散乱
冷却原子系のように散乱エネルギーが非常に低くなると,軌道角運動量量子数が 大きい部分波の寄与は無視することができるようになる.これは遠心力ポテンシャ ルによる障壁を透過できなくなるためである.ポテンシャルの有効距離に相当する 2.2.2で議論した特性距離r∗ が1/kcoll に比して同程度から小さくなると,l = 0の s波散乱が支配的な領域となる(これは2.2.2に記した散乱エネルギーがE∗ 以下に なるという議論と同等である).
ここでは以下の条件の下でs波散乱のみを考えることとする.
1
kcoll ≫r∗ (56)
この条件下での R > r∗ における動径方向の波動関数Φl(R) ∼ Φ0(R) は式 (55) より
Φ0(R) =D0{cosδ0 j0(kcollR)−sinδ0 n0(kcollR)} (57)
=D0
{ cosδ0
sin(kcollR)
kcollR + sinδ0
cos(kcollR) kcollR
}
(58)
=D0cosδ0
1 R
{sin(kcollR)
kcoll + tanδ0
kcoll cos(kcollR) }
(59) と求められる.
ここで長波長極限(低エネルギーの極限)kcoll→0を考えると式 (59)の波動関数は Φ0(R) =D′0
{
R+ lim
kcoll→0
tanδ0
kcoll }
(60) となる.ただし定数部分を新たにまとめてD0′ と置きなおした.
ところで上式 (60)中の第二項を
a≡ − lim
kcoll→0
tanδ0
kcoll
(61) と定義し,散乱長と呼ぶ.
すなわち長波長極限では波動関数は直線になり,振幅がゼロとなる距離が散乱長で あることがわかる.つまり,外側のポテンシャルで決まる波動関数を内側のポテン シャルが存在しないものとして内側まで延長していったときに振幅がゼロになる点 である.この散乱長はポテンシャルの形状あるいは入射エネルギーによって正負両 方の値をとりうる.原子-イオン系については文献[96]にて実際に計算されている.
長波長極限における散乱断面積について式 (54)と式 (52)より σel ∼σ0 = 4π lim
kcoll→0|f0|2 (62)
= 4π lim
kcoll→0
1
kcollcotδ0−ikcoll
2 (63)
= 4πa2 (64)
となる.なお,二行目から三行目には散乱長の定義,式 (61)を用いている.以上か ら低エネルギーの極限における散乱断面積を導くことができた.散乱長は長さの次 元をもつため式 (64)は長さの二乗の次元を持つが,その表式は古典的な散乱断面積 より四倍大きくなることを示している.
共鳴散乱
l >0のときは遠心力ポテンシャルによるポテンシャル障壁が形成されることは
2.2.2と図 3(b)に示した.このときポテンシャルの内側とポテンシャル障壁によっ
てErel > 0に束縛状態が形成され得る.しかし,遠心力ポテンシャルによるポテン シャル障壁は有限の高さを持つため有限の時間でトンネル効果によって崩壊する.
このような束縛状態のことを準束縛状態と呼ぶが,入射エネルギーが準束縛状態の エネルギーに等しくなると共鳴的に散乱断面積が増加することが知られている.こ うした共鳴散乱を形状共鳴と呼ぶこともある.
こうした共鳴構造は核による中性子の散乱においてよく研究されており,ブライ ト-ウィグナーの公式が知られている[97].