3.3 対称人称詞の用法―重ね用法2―
3.3.2 選択傾向から見る重ね用法
示性が強くなる8.
以上の先行研究を踏まえた上で,日本語の呼びかけ語の二種類―対称名詞と対称人称詞―
の意味を指示的価値と評価的価値という観点で見ると,対称名詞は指示的価値が勝ってお り,対称人称詞は評価的価値が勝る語と考えられる.
以上の議論から,対称名詞と対称人称詞を次のように規定する.
(61) 対称名詞(e.g.田中さん,ひろ子,お父さん,先生,運転手さん)は指示的価値優 位である.それに対し対称人称詞(e.g.あんた,おまえ,あなた,きみ)は評価的 価値優位である.
以下では,二種類のタイプのアンケート及びレジスターの違いにおける使用の観察を通じ て,重ね用法が選択される背景を分析する.アンケート調査を通じて呼びかけ語に関する発 話者の意識を分析し(3.3.2節及び3.3.3節),レジスター別の重ね用法を通じて実際の運用の 背景を考察する(3.3.4節).
表 3-7 回答者の年代内訳
年代 10代 20代 30代 40代 50代 60代以上 合計 人数 3 23 18 9 7 6 66
実施したアンケートの全三セクションのうち,本節では三形式―対称詞単独,対称人称詞 単独,重ね用法―の適切性の順位付けを問うたセクション2の結果を分析する.適切性判断 には全六場面を設定し,各場面において三形式を「最も適切」「次に適切」「最も不適切」に 順位付けするよう指示した(巻末付録2参照).その結果について,まず三形式と適切性に 関連があるかどうか,カイ二乗検定によって確認したのち,各形式の選択の優先性の平均値 を求める.そして,そのような選択がなされる要因を分析する.
表 3-8は三形式の適切性によって集計したクロス表である.この表に対してカイ二乗検定 を行ったところ,全ての場面において有意差が認められ9,三形式と適切性には関連がある と言える.
表 3-8 三形式の選択
次に,適切性の順序尺度を数値(それぞれ3ポイント,2ポイント,1ポイント)へ変更 した上で三形式の適切性評価の平均値を求めた.その結果は以下の表 3-9の通りである.こ の数値10は,各形式がどの程度好まれたか(最大3ポイント)を意味する.
表 3-9 三形式の適切性評価の平均値
9 全てにおいて有意差(p < .01)が見られた.
10 小数点以下二桁で四捨五入した.
表 3-9をもとに,場面ごとに各形式の優先性(好まれ度)で並び替えたものが表 3-10で ある.
表 3-10 三形式の選択傾向
最も好まれた 次に好まれた 最も好まれない 場面1 紺野,お前,ボクに命令しただろ 重ね用法 対称人称詞 対称名詞 場面2 千秋 おまえ この先どーすんだよ?! 重ね用法 対称人称詞 対称名詞 場面3 親父さん一杯呑ませてよ 対称名詞 重ね用法 対称人称詞 場面4 石田さんあんた,物流会社の運転手なんて言ったら 重ね用法 対称名詞 対称人称詞 場面5 綾子あんた,子供を産みたい? 重ね用法 対称名詞 対称人称詞 場面6 大輔おまえ何しててん遅いやんけ 重ね用法 対称人称詞 対称名詞
3.3.2.2 結果の分析
呼びかけ語の選択肢がある場合の選択傾向を調査するために行ったアンケートの結果(表 3-8から表 3-10)をもとに,その場面や話し手の感情も踏まえてその選択の要因を分析す る.
まず,全六場面において,母語話者に最も好まれた形式は全て,原データと同様の形式で あった(表 3-10).つまり,回答者は原データを知らずに前後の文脈から正解を選択したの である.ただし場面3は基本的に「あんた」を用いることができない関係であり,対称人称 詞単独とそれを含む重ね用法は選択肢として不適切である.したがって本研究では場面3は 考察の対象としない.
母語話者は最も好まれる形式として原データと同様の形式を正確に判断した.ある形式― この場合重ね用法―が最も座りが良いと母語話者に判断されるのはなぜだろうか.この点に ついて,3.3.1節で述べたように,対称名詞と対称人称詞の指示性と評価性という観点から説 明を試みる.
場面1・2・4・5・6は,対称人称詞「おまえ」「あんた」も用いることができる人間 関係である.三形式の選択において,対称名詞単独(たとえば「千秋」)は対称人称詞(「お まえ」)より評価性が低く,その汎用性から発話にはこれといった評価性は明示されない
(パラ言語的な表現はもちろん可能である).それに対し対称人称詞単独(例えば「おま え」)は評価的価値が前面に伝達されてしまう.また,仮に「おまえ」と述べてしまった場
合,語彙的に一度表されてしまった評価をその後和らげる(取り下げる)ことはできない.
ここに,それぞれの単独使用(「千秋」のみ,「おまえ」のみ)から生じる評価的価値明示に おける過不足の問題が生じる.
そこで,対称名詞だけで呼びかけた際にはその発話(や場,聞き手)に対する評価性が不 足しているが感情表出を行いたいと話し手が判断する場合,対称名詞に対称人称詞を付加す る,つまり重ね用法を選択することで発話全体に評価性を付加することができるという折衷 案が現れる.対称人称詞を先に発してしまった場合その評価性は語彙的にはその後取り消せ ないが,対称名詞を先に発していれば評価性を付加することはできる.発話の線条性による 制限がこのような折衷案を生み出す.これを図式化したものが図 3-1である.
図 3-1 呼びかけ語選択の順序と評価性の関係
呼びかけ語選択の際には,評価性明示の強さに関する選択がある.もし評価性が高くて良 ければ対称人称詞単独(「おまえ」)になるが,良くない場合は対称名詞(「千秋」)が選択さ れる.対称名詞は対称人称詞と比べて相対的に評価性が低いが,その評価性明示で十分であ れば対称名詞(「千秋」)単独の呼びかけ語になる.実際の発話ではこれが多い.しかしこの 段階で評価性明示が足りない場合,対称人称詞(「おまえ」)が付加され,結果として重ね用 法の形式になる.この図を見ると,重ね用法は第一段階でも第二段階でも消極的に選択され ると考えられる.
場面1・2・4・5・6はいずれも重ね用法が最も好まれるのであるが,違いはそれ以下 の二つの適切性判断である.次に好まれるのは,場面4及び5では対称名詞であるのに対
し,場面1・2・6では対称人称詞である(表 3-10).最も好まれる形式は正しく選択され ているため,それ以下の違いについて,具体的な場面を観察することで重ね用法が選択され た背景を検討する.
場面1では,すでに怒り狂って消火剤をまき散らしている話し手(高瀬)の様子が明らか であり,また,絵が読み手の理解を大いに助けている場面2でも話し手がかなり怒っている
(感情的である)ことが分かる.場面6では,帰りが遅いことを先輩芸人から冗談めいて咎 められている回想のシーンである.三場面とも,評価性の低い人名(「紺野」「千秋」「大 輔」)を単独で用いるより,評価性の高い対称人称詞(「お前/おまえ」)を単独で用いるこ とで話し手の怒りや不満がより的確に表現されると考えられても不思議ではない.次に好ま れるのは対称人称詞単独の形式である(表 3-9及び表 3-10).
一方場面4及び5では,場面4の話し手(有吉)には仮の聞き手(石田)に対して励まし または勧めをした過去を回想しており,場面5の話し手(敏子)からは,内に秘めた感情を 必死に押さえつけた,落ち着いた態度が感じられる.これらの場面では,場面1・2よりは 話し手の感情表出が感じられず,対称名詞単独でもよい.対称名詞単独(「石田さん」「綾 子」)のほうが,対称人称詞単独(「あんた」)より好まれている(表 3-9及び表 3-10).
しかし実際は,呼びかけ語を用いるその瞬間,文脈全体から判断した結果,評価性を前面 に出すわけではないもののある程度語彙的に明示したいと回答者に捉えられたため,重ね用 法が最も好まれた.
重ね用法が最も好まれると判断された要因の二つ目が,想定とのずれの存在である.3.2 節では,重ね用法の語用論的条件を分析し,重ね用法が選択される場合,話し手が持つ何ら かの想定と目の前の現実にずれがあることを述べた.今回のアンケートでも,回答者は,場 面をじっくり読んだ上で,話し手の想定と現実のずれを感じ取り,重ね用法の選択に至った と考えられる.「こうであるべきだ」と話し手が抱く想定と,対する現実がその通りになっ ていないというこのずれは,多くの場合話し手にとって不都合や不愉快な事態であり,マイ ナスの発話,非難や叱責の場面が多い.例えば場面2では,話し手は「自分たちのオーケス トラを作るべきだ」という千秋に対する想定があるが,聞き手(千秋)は現実には歯牙にも かけないため,ここに想定と現実のずれがあり,重ね用法となった.他の四場面も同様であ る.
ここまでの分析をまとめると,アンケート回答者は,当該場面での感情,及び想定とのず れをもとに呼びかけ語を査定し,結果として重ね用法を選択することで繊細な感情表出を行 っている.