5.2 呼びかけ語の問題点と可能性
5.2.2 ロシア語の呼びかけ語の問題点
ロシア語の呼びかけ語研究はその質と量で日本語の呼びかけ語研究を上回るが,それでも ロシア語学習者にとって注意を要する表現である.ロシアには"Культура речи"(言葉遣い 論)という学問分野が存在し研究が盛んにおこなわれているため,呼びかけ語についても,
どの語彙を用いていつ発話するかに関して,「規範的な使用」を示す教材は多く存在する.
しかし,4.4.2.1節,4.5節で見た通り,ロシア語の呼びかけ語は,「規範的な使用」のみなら ず,話し手のボリションとしての呼びかけ語の語彙選択及び付加が特徴であり,それこそが ロシア語のポライトネスの特徴で,ロシア語のコミュニケーションの重要な要素である.接 辞による派生力や語彙・表現の豊富さから明示的な指導はすでになされているが,残された 問題点も存在する.
まず語彙の問題を考えよう.例えば,既知の人間関係においては呼びかけ語として通常名 前を用いるが,そのような人間関係におけるボリションとしての呼びかけ語のバリエーショ ンに関する記述はほぼない.次の例は,ロシア語のエチケット教科書に記された,調査した 限り唯一の記述である.
(18) А как ты себя чувствуешь? – Да неплохо, старина. (Капитанова2008:70)
(調子はどう?―まあまあだね,じいさん)
"старина"(じいさん)はГольдин(2009)の言う"Регулятив"(社会関係機能の呼びかけ語)
である.他に"браток"(brother)や"дружище"(buddy)などがあるが,学習者にはこの一例 を除いてほぼ提示されない.しかし,Формановская(2002)はこれらの呼びかけ語について
つぎのように述べる.
(19) C их помощью говорящий активно воздействует на общение, придавая ему нужный стиль, отмечая то или иное распределение ролей. (89)
(これらを用いることによって,話し手は積極的にやりとりに作用し,やりとりに ある種のスタイルを加え,何らかの役割関係を設定している.)
つまり,ロシア語の話し手は,人間関係を積極的に調整し親近感を出す"Регулятив"という呼 びかけ語によってコミュニケーションを豊かにしている.このような語彙は,上級学習者で あれば(使うかどうかは別として)知っていてもよいだろう.
また,固有名からの派生形に関する紹介はあれど,それぞれの形式が持つコノテーション に関する記述は不足している.教科書の構成自体が,教師による補助的な解説を前提にして いると考えられる.しかし,派生接尾辞はロシア語の特徴的な形態的要素であるため,各形 式が持つニュアンスに関して教科書内での明示的な解説が望ましいだろう.以下の例は,著 名な言語エチケットの教科書の記述である.
(20) Валентина Евгеньевна Воронова – Валечка, Валя, Валюша и т.д.
(Акишина и Формановская1983:13)
(Valentina Evgenievna Voronova - Valechika, Valya, Valyusha and etc…)
(ヴァレンチーナ・エフゲーニエヴナ・バローナヴァ―ヴァーレチカ,ヴァーリ ャ,ヴァリューシャ 他)
最も重要な点は,接尾辞による派生と関連して,バリエーションの選択から生じる感情表出 についての記述がない点である.語彙選択レベルでは,話し手の感情に基づいた呼びかけ語 の使用はロシア語の特徴である.次の例は,驚きに伴って,呼びかけ語が"Оля"(オーリ ャ)というデフォルトから"Олечка"(オーレチカ)へと変化した.このような例はこの一例 しか見つからず,またこのバリエーションの変化に関する記述は見られない.
(21) Оля, а помнишь Сашу Вихреву? [...]
А где сейчас Тоня Кузнецова?
Как же, Олечка! Она теперь в Горьком, доцент университета.
(Акишина и Формановская1983:12)
(オーリャ,サーシャ・ビフレヴァって覚えてる?(中略)
あ,トーニャ・クズネツォワは今どこ?
なんで!オーレチカ!彼女は今ゴーリキーで准教授だよ.)
学習者は,"Оля"(オーリャ)や"Олечка"(オーレチカ)というバリエーションの意味を 個々に理解し,そのどちらかをデフォルトとして選択することはできる.しかし,同一話 者・同一発話内においてボリションの反映としてのデフォルトからの逸脱―"Оля"(オーリ
ャ)から"Олечка"(オーレチカ)への変化―が可能である,という呼びかけ語のダイナミッ
クな使用については学びようがない.もちろん知識と使用は必ずしも一致しないが,知識と して知るチャンス(教科書内での記述)が(ほぼ)ないという事実が問題であると考える.
次に,呼びかけ語がどのような発話に伴うかについて考える."Культура речи"の研究成果 を受け,出会いや別れの挨拶,電話,謝罪,依頼等の発話行為別に典型的な文を示し,そこ に呼びかけ語も十分に記されている.例えば,前出の言語エチケットの教科書には15の行 為(呼びかけ,挨拶,出会い,誘い,依頼,謝罪,不満等)に分かれて詳しく会話例が提示 されており,どの行為についても様々な呼びかけ語が含まれている.出会いや別れの挨拶,
祝福等,ボリションとしての付加の要素が低いものは当然,褒め,不満,叱責などの行為に も例がついているのは興味深い.例えば次の例は,"Согласие и отказ в ответ на просьбу и приглашение"(依頼や誘いに対する受け入れと断り)の課に挙げられた会話例である.
(22) Не могли бы вы, Иван Петрович, прочитать мою рукопись и высказать свое мнение о ней?
Мне бы очень не хотелось вам отказывать, дорогой Виктор Васильевич, но в ближайшее время я крайне занят. (Акишина и Формановская1983:89)
(すみませんが,イヴァン・ペトローヴィッチ,私の論文を読んで意見をお聞かせ いただけませんでしょうか.
私としては本当にお断りしたくはないところなのですが,大切なヴィクトル・ヴァ シーリエヴィッチ,しばらく非常に忙しいんです.)
ここでは,依頼と断りの二つの表現に呼びかけ語が含まれている.このような例に沢山触れ ることで,学習者は呼びかけ語をいつ使うのか,という使い方を明示的に学習することがで
きる.このような記述の仕方は,"Культура речи"という研究分野の知見が教育に適切に反映 されているとみることができるだろう.