4.2 日本語とロシア語の呼びかけ語のポライトネスの先行研究
4.2.4 ロシア語の呼びかけ語のポライトネスに関する先行研究概観
前節でみた通り,ロシア語の呼びかけ語に関する研究は膨大だが,ポライトネスの観点か らの呼びかけ語研究は管見の限りЛарина(2009)しか存在しない.そもそもロシア語圏に おいて,B&Lのポライトネス理論にもとづく研究は欧米ほど盛んではない.そこで本節で
は,まずЛарина(2009:364-384)の呼びかけ語に関する記述を概観し,その後,ポライト ネスと関連のある研究をまとめることとする.
Ларина(2009:364-384)は英語とロシア語についてポライトネスの対照研究を行った が,そのうちの一部は呼びかけ語の分析に当てられている.ラーリナはまずある特定のグル ープに対する呼びかけ語に関して,英語では多くの状況で直接的な呼びかけ語が用いられな い(またはLadies and Gentlemen)のに対し,ロシア語では直接的な呼びかけ語が好まれ,そ の状況や行為によって結び付けられている人々を具体的に指し示す表現を用いるとした.
(18)から,あるグループを具体的,直接的に描写していることが分かる.
(18) Граждане пассажиры, уважаемые родители, дорогие друзья, дорогие телезрители, уважаемые радиослушатели (покупатели, читатели, избиратели, соотечественники, москвичи, россияне) и т.д. (367)
(乗客の皆様,敬愛なる保護者,親愛なる友人,親愛なるテレビ視聴者,敬愛なる ラジオ聴者/購入者/読者/有権者/同国民/モスクワ人/ロシア人)
例えば劇場では,露英で次のような違いがあるという.
(19) May I have your attention, please. Due to circumstances beyond our control the performance cannot be continued. (368)
(20) Уважаемые зрители, по независящим от нас причинам продолжение спектакля
невозможно. (368,下線引用者)
(親愛なる観客,不測の理由により上映を継続することができません)
また,知っている人に対する呼びかけ語も異なるという.英語ではMr / Miss / Mrs + ファ ミリーネーム(e.g.Mr Kent / Miss Thompson / Mrs Chandler)が主な形式であるのに対し,ロ シア語では二種類あり,господин + ファミリーネーム(e.g. господин Иванов; Mr Ivanov)と 父称 + 名前(e.g. Сергей Борисович; Sergei Borisobich)が存在する.
親族語について,英語は実際に親族関係にある人のみに対して使用できるのに対し,ロシ ア語では実際に親族関係にある人はもとより,親族外に対しても広く―親の友達,近しい知 り合い,近所の住人,友達の親等―使用が可能である.
(21) мама / папа, бабушка / дедушка, дядя / тетя + имя (375)
(mama / papa, grandfather / grandmather, uncle / aunt + 名前)
愛称語(уменьшительно-ласкательные формы; Diminutive forms)に関して,英語は制約が
ある(-ie,-e,-y,-ey等)のに対し,ロシア語はその接辞が膨大に存在する.
(22) Elizfbeth - Lisa, Elsie, Libby, Beth, Bet, Betty, Betsy, Bess, Bessie. (377)
(23) Мария - Маша, Машенька, Машуня, Машута, Машутка, Машуточка, Маня, Манечка, Маняша, Машка, Манька и. т.д. (377)
またロシア語には"Фамильярно-грубые формы"(Familiar-rough forms)という形態が多数 存在する.
(24) Машка, Сашка, Ленка (377)
ロシア語と英語の呼びかけ語の選択における最大の違いは,呼びかけ語の選択の柔軟性,
主体性である.
(25) Важной особенностью является то, что если в русском обращении возможно использование всей парадигмы имен применительно к одному и тому же адресату (Александр, Саша, Сашенька, Сашуня, Саня, Санек, Шура, Шурочка, Шурик и т.д.), что определяется выбором того или иного адресанта, его настроением, отношением к адресату, сложившейся традицией и многими другими факторами, то в английском обращении, как правило, употребляется лишь одно имя из существующей парадигмы.
(377-378,下線引用者)
(ロシア語では特定の聞き手に対する呼びかけ語のパラダイムがある時,話し手の 気分や聞き手との人間関係,社会的慣用やその他の様々な要因から,話し手自身の 選択として呼びかけ語を使用できる.それに対し英語では,通常,現存するパラダ イムの中から一つの名前しか用いられない5.)
5 例えばBobはRobertの愛称であるが,Bob Dylanのデフォルトの名前はBobであり,決してRobertでは
ない.
ロシア語では,ある人間に対する呼びかけ語の選択肢が存在するとき,話し手の感情や聞 き手との人間関係,場面などの様々な要因で,主体的に選択することができる.ロシア語の 多彩な呼びかけ語の現れは,日本語における呼びかけ語の用法とは大きく異なるように思わ れる.
青木(2002)は,日本語の待遇表現研究の手法(菊池1997)をもとに,ロシア語の個人名 がいかに待遇表現手段として利用されているかを分析した.接尾辞が持つ固定的な感情表現 ではなく,ある特定の人間関係において中立的な語が時間の経過や場面によってより有標な 形式へいかに変化するかを観察した.例えば,マーシャに対する呼びかけ語の変化として次 の例を挙げて分析した.
(26) Нина:Здравствуйте, Маша.(今日は,マーシャ6)
(27) Нина:Машенька, я помогу тебе купить книги.(マーシェンカ,私,本を買うお手伝 いをするわ.)
(28) Окаемов:Вы ступайте, Маша.(マーシャ,ちょっとあっちへ行っておくれ.)
(29) Окаемов:Не поддавайся, Машенька, на ранние похвалы. Останься простой и милой, какой я тебя люблю и знаю... А все остальное в жизни придет и пройдет, Маша. Все
пройдет.(マーシェンカ,小さいときにほめたてられたって,いい気になっちゃい
けないよ.いつまでも私の大好きな,これまで通りの,気取らない,やさしい子で いるんだよ.この世の中では,そのほかのことはみんな過ぎ去ってしまうものだ,
マーシャ,みんな過ぎ去ってしまうものだよ.)
(30) Леонид:...Приехал делать подарки. Что вам подарить, Машенька?(帰ってきたのは プレゼントするためですよ.何をプレゼントしようね,マーシェンカ?)
НинаのМашаへの呼びかけ語は,時間の経過とともにМашенькаへと変化しており(26)
(27),待遇ニュアンスが付加されたと考える.Окаемовも同様である(28)(29).それに
対しЛеонидは常にМашенькаと呼ぶ(30)ため,「この呼び掛け語には特別な待遇ニュアン
スが感じられない,あるいは初対面の時の親愛の情に変化がない」(4).つまり,形式だけ
見るとМашаよりМашенькаのほうが親しみを込めた形式であるが,だからといって(26)
6 (26)~(30)の訳は,野崎韶夫(訳)(1981)『ソビエト現代劇集』に収められているアレクサーンド ル・アフィノゲーノフ(著)「マーシェンカ」から引用した.
(28)におけるМашаに疎外感があるというのではなく,ただ特別な待遇ニュアンスが付加 されていないだけである,と考える.そして,待遇表現を分析する際には,有標/無標とい う「2項よりも,ある特徴に関してどちらがより有標(Более маркированный)であるかとい う相対的関係が重視されるべきである」(12)と述べる.
ある呼びかけ語が基本的には相手に対する好意,愛情,尊敬を意味しても,しばしば皮肉 や軽蔑,非難などの意味を表すことがある.貝沼(1981)は,文学作品をもとに「額面通り の意味とその反対の意味,すなわち,呼びかけ語の多義性」について考察した.その中で,
呼びかけ語の変化に関してСынок/Сыночек(息子)という例を挙げた.その例では,母親 は最初係官にСыночекと呼びかけていたが,同じ場面でСынокへ変化する.この変化につ いて貝沼(1981)は,「最初の呼びかけ語Сыночекがそれより愛称度の一段低いСынокに変 っている(しかも文頭ではなく,発言がひと句切りした後に,ついでのように,挿入されて いるのも意味があろう).これは意識して変えたというよりも,母親の微妙な気持ちが無意 識に呼びかけ語の移り変りに表われたものと言うべきであろう」(82)と分析した.しか し,無意識的か意識的かは,観察者はもちろん発話者本人すら判断できない.むしろ「変化 した」という事実をどう解釈するかを考えなければならないだろう.
松澤(2005)は,二人称代名詞(ты/Вы)と名前の形式(名前+父称/名前の完全形/名 前の短縮形/名前の指小・愛称形)の相関関係をラジオ及びテレビのインタビュー番組を基 に量的に分析した.結果,名前+父称の場合はВы,名前の完全形または短縮形の場合はВы
とты,そして名前の指小・愛称形の場合はтыが用いられることが明らかになった.このよ
うな代名詞と呼びかけ語の一対一の組み合わせは教育上分かりやすく有用かもしれないが,
後に見るようなダイナミックな呼びかけ語の使用を説明することはできない.
以上の関連先行研究からロシア語の呼びかけ語のポライトネスについて言えることは,あ る特定の人間関係における呼びかけ語の選択肢が多く,話し手は場面や感情に基づいて呼び かけ語を主体的に選択することができるという点である.つまり,呼びかけ語の選択にボリ ションが関係している.
しかし,このような見解はあくまで語彙選択のレベルの議論である.いつ,どのような発 話の時に呼びかけ語が付加されるのか,という行為のレベルからの研究はなされていない.
話し手がなぜその「形式」をその「発話」の際に発したのか,という語用を観察する必要が ある.