5章 呼びかけ語の可能性
1.2節で設定した本研究の目的は次のものであった.
目的:言語教育へ活かすため,まず日本語の呼びかけ語の用法と特徴を記述・分析し,さら に日本語とロシア語の呼びかけ語がポライトネス・ストラテジーとしてのどのよう に用いられているかを明らかにすることで,コミュニケーションにおける呼びかけ 語の多様性を考察する.
本章では,まず前章までで得られた諸命題をまとめ,その背景を議論する.その後,呼び かけ語を教育に応用するための前段階として,本研究で得られた知見をもとに教育において どのような点を注意すべきかを議論する.
足りない場合,評価をより多く含む語彙を付加することで,つまり重ね用法によっ て評価的価値をも明示することができる.話し手は瞬間でこのような要素を査定し ている.
(6) 対称人称詞単独用法(落語等)は,発話の場全体に聞き手を強く巻き込むことで,
聞き手との一体感を得るという,聞き手に対する話し手のポジティブな態度を表出 する.
(7) 対称人称詞にまつわる様々な用法は,それが発話の文脈に応じて語のニュアンスが 柔軟に変化しうる語であることによる.
(8) 様々な呼びかけ語の用法は,「対聞き手指向性」という観点で統一的に説明でき る.呼びかけ語を用いない「対聞き手指向性」ゼロの発話から,「対聞き手指向 性」が明示化される場合でも,様々な呼びかけ語の用いられ方によってその強弱に 程度差がある.
呼びかけ語は,完全に聞き手を「呼ぶ」ものから,まったく聞き手を「呼んでいる」とは 思えないものまで幅広い.しかし,呼びかけ語は,「聞き手を呼ぶ」という行為の本質上,
必ず話し手と聞き手がいる.そして,「私,あなた,今,ここ」という直示的な行為であ る.呼びかけ語の発話行為を研究したФормановская(2002)は呼びかけ語の発話行為の
「構造」を次のように示した.
(9) "я - тебя (вас) - здеcь - сейчас - имея мотив и цель5 - зову (называя)1 - чтобы включиться в контакт4 - в избранной тональности3 (соотвественно обстановке, социальным ролям, отношениям и т.д.2)" (87,下線及び番号引用者)
(私は あなたを ここで 今 動機と目的を持ちつつ5 呼ぶ(名付けながら)1 接触を開始するために4 (場面や社会的役割,人間関係等に応じて2)選択された トーンによって3.)
「呼ぶ」(1)とはまさに「聞き手を呼ぶ」ことを意味する.従来"Call"機能と言われてい るものである.他方「名付ける」とは,呼びかけ語がその本質上「呼ぶ」と同時に行ってい る行為であるが,「聞き手を名付ける」ことである.いわゆる"Address"機能である.「田中太 郎」なる人物を呼ぶ際に話し手は必ず「田中」「田中さん」「田中先生」「太郎」「太郎くん」
「たろちゃん」「あんた」等のいずれかの形式を選択し,「名付け」ている.知らない人を
「呼ぶ」際にも,「ちょっとすみませんが」か「そこの白いセーターの方」かを選択し,後 者の場合は「名付け」ている.本研究では呼びかけ語の定義の際,この意味で,知らない人 に対する語(句)も呼びかけ語に含めることとした(2.5.2節).ただし,「名付け」や「名付 けの適切性」の問題は命名論や意味論の領域にも属するテーマであるため,本研究では立ち 入らなかった.
「場面や社会的役割,人間関係等が適切な選択」(2)は語彙選択に該当し,この点につい ては多くの研究が存在する.日本語の場合,高橋(2005)が述べた通り,呼びかけ語も含め た対称詞を話し手が積極的に選択することはできない.しかし本研究は,その語彙選択にお いて,話し手がその命題や場面,聞き手に対する感情等を査定することも含めて,重ね用法 も選択肢に入ることを指摘した.
「選択されたトーン」(3)は,馴れ馴れしい,粗雑な,親しみのある,丁寧な,丁寧すぎ る等,語が喚起するコノテーションと解釈できる.日本語では「おまえ」「あんた」など対 称人称詞の持つコノテーションが柔軟に変化する点が挙げられ,トーンの変化は重ね用法の 選択に至る過程にも関係する.対称名詞の指示性と対称人称詞の評価性を査定して適切なト ーンを選択する.
「接触」(4)について,「どのような接触か」が問題になる.聞き手が離れているために
「呼ばなければならない」接触なのか,聞き手は目の前にいるけれども聞き手をその発話場 により巻き込むために「呼びかける」接触もある.このような「接触」の程度を,本研究は
「対聞き手指向性」の強弱で分析した.また「動機や目的」(5)とは,質問や依頼,不同意 表明,愛情表現等を行うために「これから述べることに特に注意してほしい」(林・水口・
小川2005)から呼びかけ語を発することを意味する.
本研究は呼びかけ語を「行為」として捉えることによって,品詞論,語彙論,格レベル,
統語論,意味論等,特定の領域のみでなされていた日本語の呼びかけ語研究に対して,新た な知見をもたらすことができたと考える.呼びかけ語はダイナミックなコミュニケーション を反映しており,ある特定のレベルでの議論に収まるテーマではない.Sonnenhauser & Noel
(2013)は次のように述べる.
(10) Vocatives, thus, seem to occupy a position between ‘language system’ and ‘language use’.
Therefore, the complexity of the issues involved in vocative studies is directly linked to the central concepts of ‘language system’ vs. ‘performance’. The issue relates not only to the classification of vocatives as such, but also to the way they are approached from a language
theoretical perspective. It is for this reason that a usage-based analysis of vocatives questions deeply entrenched linguistic concepts, such as the division of system and performance and their strict separation. Being recognizable only online, i.e. in the actual context of language production, vocatives challenge the separate treatment of language as a system and language as performance. Vocatives belong to a type of category which cannot be defined cross-linguistically in terms of paradigms (unlike, e.g., verbs or accusative objects), but which are syntagmatic in nature.(16,下線引用者)
(Vocativeはこうして「言語システム」と「言語使用」の間の位置を占めているよ うに感じられる.したがってVocative研究にまつわる問題の複雑さは「言語システ ム」対「パフォーマンス」という重要な概念に直接結びついている.この問題は
Vocative自体の分類だけでなく言語理論の観点からアプローチされる方法にも関係
している.この理由からVocativeの実際の用法に基づく分析はシステムとパフォー マンスの乖離や厳格な分離といった強く定着した言語概念に疑問を投げかける.オ ンライン,つまり実際の言語生成の現場でしか認識できないため,Vocativeはシス テムとしての言語とパフォーマンスとしての言語を別々に分けて扱っている状況に 異議を唱えている.Vocativeは,パラダイムの観点(例えば動詞か直接目的語か,
等)からは言語学的に定義することはできないものの本質的には統語的なカテゴリ ーに属している.)
呼びかけ語は言語体系と言語使用のその中間に位置しており,その存在は「体系」と「運 用」,またそこに厳格な境界を引く傾向がある伝統的な理論研究そのものの在り方に疑問を 呈している.呼びかけ語研究は,それ自体が,伝統的な言語学の研究方法に収まるものでは なく,その手法を「超えて」,もがきながら進んでいく分野である.その点で,理論研究に 対しても本研究の意義は大きい.