4.4 自然談話の分析
4.4.2 ロシア語の呼びかけ語
4.4.2.1 ロシア語談話の観察
以下では,様々な場面で用いられるロシア語の呼びかけ語を観察する(付録6参照).ま ず,エチケットとしての呼びかけ語付加が比較的期待される場面として,既知の人間関係に おける感謝や別れの挨拶(談話13)に対して未知の人間関係における感謝(談話14), また祝いの場面(談話15)を見る.次に,意見表明(談話16),依頼(談話17),提案
(談話18),非難(談話19)という,聞き手のフェイスを配慮する必要が高い行為に付 加される例を観察する.
【談話13】 (Служебный)9 Людмила Прокофьевна:Юрий Григорьевич1, благодарю вас за прекрасный вечер.
Юрий Григорьевич:Что вы, что вы, Людмила Прокофьевна2!
Людмила Прокофьевна:Очень рада была познакомиться. Благодарю вас.
Людмила Прокофьевна:До свидания, Карлен Семенович3. Карлен Семенович:Всего хорошего.
Людмила Прокофьевна:Всего вам доброго. До свидания, товарищи4. Все:До свидания!
Lyudmira Prokofievna:ユーリー・グリゴリエヴィッチ1,素敵なパーティーをありがとう.
Yuri Grigoevich:いえいえ,リュドミーラ・プロコフィエヴナ2.
Lyudmira Prokofievna:お会いできて嬉しかったですよ.ありがとう.
Lyudmira Prokofievna:さようなら,カルレン・セミョーノヴィッチ3.
Karlen Semyonovich:さようなら.
Lyudmira Prokofievna:さようなら.さようなら,みなさん4.
9 出典は,巻末の付録1の表7-2に記した略名を用いる.
Evryone:さようなら.
統計局局長Людмила Прокофьевна(リュドミーラ・プロコフィエヴナ)はパーティーから 帰ることにした.局長はパーティーを後にする際,パーティーの司会者への感謝,別れの挨 拶に呼びかけ語を添える(1,3,4).この呼びかけ語は,あってもなくても良いが,あるに 越したことはないと言える類の呼びかけ語付加である.呼びかけ語の付加も語彙選択も,社 会の慣習と考えられている枠の範囲内であり,典型的な呼びかけ語の用法として教科書にも 書かれている.
【談話14】 (Питер)
Мужчина:Здорово. Закурить есть? О, спасибо, мужик1. Ага. На. Жена, сука, домой не пускает.
Cлушай, ты чо?
Максим:Держи.
Мужчина:Cпасибо, братан2. Выпить хочешь?
Максим:Не.
Мужчина:Правильно, все зло от этой водки.
Man:やあ.たばこある?おぉありがとうman1.おぉ.はい.妻,メス犬,家に入れてくれ
ない.ちょっと,これなに.
Maksim:いいよ持ってて.
Man:ありがとうbrother2.飲む?
Maksim:いや.
Man:その通り.すべての悪はこのウォッカから始まるんだ.
気分が乗らずパーティーから抜けたМаксим(マクシム)は,公園のベンチに腰掛ける.
すると先に座っていた知らない男性が話しかけてきた.マクシムは見ず知らずの男性に頼ま れてまずタバコをあげ,その後,薄着で震えている相手に自分のジャケットを貸してあげ た.この親切な行為に男性は二度感謝するが,当然名前を知らないので,普通名詞の呼びか け語を付加して親近感を表した.二回の感謝表現で異なる呼びかけ語を用いることも普通で ある(1,2).これらの語彙はГольдин(2009)の言う"Регулятив"である.指示用法として 用いることができず,ただ呼びかけ語としてのみ用いられる.また,指示対象の具体的・社 会的特徴に関する情報を有しておらず,当該談話にある種のトーン―緊張感のない,友好的
な,また馴れ馴れしいといった会話のトーン―を加える.
【談話15】 (Ирония)
Надя:Здравствуй.
Ипполит:Здравствуй. С наступающим, Наденька1. Надя:Ну, давай. Как ты доехал?
Ипполит:О и не спрашивай! Очень тропился, сейчас скользко, гололед.
Надя:Будь осторожен, ты у меня такой лихач.
Ипполит:Спасибо, спасибо Надюша2. Если бы ты знала, милая3, как я по тебе соскучился.
Надя:Да я тоже очень тебя ждала, с большим нетерпением!
Ипполит:Спасибо, любимая4. Nadia:こんばんは.
Ippolit:こんばんは.新年おめでとう,ナージェンカ1.
Nadia:ほら,貸して.道はどうだった?
Ippolit:聞かないで.急いできたんだけど,滑るし,凍ってるし.
Nadia:気を付けてよね,あなた本当にせっかちだから.
Ippolit:ありがとう,ありがとうナジューシャ2.もし君が分かってくれたら,dear3,どれ
だけ会いたかったか.
Nadia:ええ私も本当に待っていたのよ,待ちくたびれて.
Ippolit:ありがとう,my love4.
これは,新年を二人で迎えるため主人公Надя(ナージャ)が婚約者のИпполит(イポリ ット)を玄関で出迎える場面である.イポリットはナージャに対して異なる呼びかけ語を四 度も用い,様々な表現で聞き手に対する親近感を表示している(1,2,3,4).新年の挨拶 や感謝の表現と呼びかけ語が共起するのは社会慣習上期待される付加である(1,2,4).し かしここでは,毎回異なる表現を選択していることに注目すべきである.もちろん同じ語
(デフォルトのНадя)を用いることは可能ではある.異なる表現はそれぞれがコノテーシ ョンを有しており,それを伝達するために選択されている.呼びかけ語の選択肢が多いこ と,その上,毎回異なる表現を選択しても自然であることは,ロシア語のポジティブ・ポラ イトネス・ストラテジーとしての呼びかけ語の特徴であろう.
以上の談話13~15(及び前節の談話3)は,これが無くてもコミュニケーションに問
題はなく,礼を失した印象を与えるわけではない.これら定型表現はFTAが低い発話行為 であると言える.FTAが低いということは,わざわざ呼びかけ語を付加して親近感を表明す る必然性も低いともいえる.それにも関わらずあえて付加することが,この言語社会におけ るエチケット,社会的慣習として考えられている.談話14及び15で話し手が有する呼び かけ語の選択肢は多い.談話14では,(名前を知らないとはいえ)当該の話し手が聞き手 に対して持つ選択の幅は広く,また談話15においても恋人関係の二人はお互いに呼びかけ 語の選択肢を多く持つ.そして,その選択肢から話し手のボリションによって呼びかけ語を 選択することができる.一方,談話13及び談話3(前節)は比較的公的な場面(インタビ ュー番組と職場のパーティー)であり,当該の会話参与者らが持ちうる呼びかけ語の選択肢 は少ない.ほぼ名前+父称の形式しかないとも言える.そもそも選択肢が少ないため,FTA が低い場面での付加においても選択の余地がない.定型表現に呼びかけ語を付加しようとす れば,当然,ディサーンメントとしての付加となる.
【談話16】 (Дама)
Жена:О чем ты думаешь, Димитрий1? Муж:Я? О женщинах.
Жена:Тебе, Димитрий2, совсем не идет роль фата.
Wife:何考えているの,ジミトリー1?
Husband:私?女性についてさ.
Wife:あなたには,ジミトリー2,洒落男の役は全然似合ってないわよ.
夫Дмитрийは,かつての不倫相手を想い,心ここにあらずの状態で立っている.そこで
妻は夫に対して批判的な意見(小馬鹿にした意見)を述べるが,それは優しい口調である.
妻は,批判的な意見を言うからこそ呼びかけ語によって親近感を示し,批判が強すぎずかつ 弱すぎず相手に伝達されるように工夫していると考えられる.自分の意見を上手く相手に伝 達するための工夫として,呼びかけ語を用いていると言えるだろう.
【談話17】 (Питер)
Максим:Здравствуйте, Татьяна Петровна1.
Татьяна Петровна:Ты чо? Ты чо так поздно? Я до семи, до семи.
Максми:Да я быстро, мне только нужно подписать бумагу. Получить трудовую книжку, вот об
уходе заявление.
Татьяна Петровна:Какое заявление?
Максим:Вот заявление об уходе, надо что б вы подписали и я уж побегу.
Татьяна Петровна:Нет, я не приму это заявление.
Максим:Почему?
Татьяна Петровна:Я не приму, потому что, у меня работать некому. Кто у меня будет работать?
Пушкин?
Максим:Татьяна Петровна2, ну мне просто...мне все равно нужно получить трудовую книжку...А я все равно же ...я уезжаю...
Татьяна Петровна:Ну, чего, нет у меня ничего! Все, все, все пусто! Везде пусто! В связи с переходом на другую работу.
Максим:На другую работу.
Татьяна Петровна:А что это такое? На какую работу?
Максим:А я ж за границу уезжаю.
Татьяна Петровна:Нет, я не буду, я не подпишу.
Максим:Татьяна Петровна3, подпишите...вы подпишите и я уйду, и больше уже...
Татьяна Петровна:Не подпишу заявление все у меня рабочий день закончен!
Максим:Трудовую книжку как мне получить, Татьяна Петровна4. Она мне очень нужна...
Татьяна Петровна:Так, стой там, щас пойдем на склад за лопатами!
Максим:потому что, понимаете, я же архитектор...я же не могу всю жизнь мести эти...
асфальты.
Татьяна Петровна:Архитектор...Ну и что, а я в институте морского транспорта училась, селяви.
Максим:Татьяна Петровна5, вот у меня есть... последний аргумент.
Татьяна Петровна:Куда, куда ты? Я сказала, стой там! Щас пойдем за лопатами на склад.
Максим:Татьяна Петровна6, мне нужно решить прям щас, понимаете. В понедельник я уже должен уехать и надо решить прям щас. Помогите, пожалуйста.
Татьяна Петровна:Куда ты залез, щас цветы мне переломаешь! Ну, что мне делать с тобой. На.
Максим:Спасибо...большое.
Татьяна Петровна:На. Пожалуйста, большое.
Максим:Спасибо.
Maksim:こんにちは,タチヤーナ・ペトローブナ1.
Tatiana Petrovna:あんたなに.なにこんな遅く.私は七時までよ.七時!
Maksim:はいすぐですから.私は書類にサインする必要があって.勤務証明書も受け取ら ないと.これが退職願です.
Tatiana Petrovna:なに願?
Maksim:これ退職願.サインしてもらわないといけなくて,そしたらもうすぐ行きますん で.
Tatiana Petrovna:いや,そんなの受け取らないよ.
Maksim:どうして?
Tatiana Petrovna:働き手がいないじゃない.誰がうちで働いてくれるわけ.プーシキン?
Maksim:タチヤーナ・ペトローブナ2,いや私は,私はどうしても勤務証明が必要なんです
よ.わたしはどっちにしても…出発するんで..
Tatiana Petrovna:なによ,何もないったら!はいはい,はい空!全部からっぽ!新しい仕事 への移動に伴い
Maksim:新しい仕事で.
Tatiana Petrovna:なにそれ.なんの仕事.
Maksim:あ,私外国へ行くんです.
Tatiana Petrovna:いやいや,サインしないから.
Maksim:タチヤーナ・ペトローブナ3,サイン,サインしてください,そしたらすぐ出て,
Tatiana Petrovna:サインはしません,仕事の時間終わってるし.
Maksim:勤務証明をどうやって受け取ったらいいんですか.タチヤーナ・ペトローブナ4.
それがどうしても必要なんです.
Tatiana Petrovna:じゃぁ,ちょっと待って,今倉庫にシャベル探しに行くから!
Maksim:だって,聞いてくださいよ,私は建築家なんですよ.一生ここで道路掃除してい るわけにはいかないんです.
Tatiana Petrovna:建築家.だからなに,私は海洋交通大学出たけど,人生なんてそんなもん でしょ.
Maksim:タチヤーナ・ペトローブナ5,持ってきたんです,最終手段.
Tatiana Petrovna:どこに登ってるの?言ってるじゃない,そこで待ってなさい.今行くから シャベル取りに倉庫に.
Maksim:タチヤーナ・ペトローブナ6,私はいますぐここでもらいたいんです,わかってく
ださい.月曜日にはもう出発しないといけないから,今ここでお願いします.助け てください.
Tatiana Petrovna:どこ登ってるのよ.今に私の花を全部ぐちゃぐちゃにするじゃない!な に,どうしたことかね.はい.
Maksim:ありがとう,ございます.
Tatiana Petrovna:いえいえ,ございます.
Maksim:ありがとう.
マクシムは,退職に伴うサインをもらうため業務時間外に上司の部屋へやってきた.仕事 を辞められると困る上司はサインをしないと言う.マクシムはサインがどうしても必要なの で,低姿勢で説得を続ける.この場面でマクシムはサインをもらうため延べ五回「タチヤー ナ・ペトローブナ」と呼んだ.最終的には賄賂としてのウォッカを一本渡してサインにこぎ つけるのだが,「拒否する相手からサインをもらう」というFTAの高い発話行為に際して,
名前の付加は目的の達成に効果的であったと考えられる.4.3.2節で述べたように,呼びかけ 語の使用には会話参与者間での非対称性が見られる.この場面では,依頼者から被依頼者へ の使用が顕著に多い.被依頼者はサインを嫌がっているのであるからわざわざ親近感の表明 を行う必然性がないのに対して,依頼者は目的を達成するために呼びかけ語によって(疑似 的にでも)親近感を表明する.
この二人の人間関係において,マクシムには「タチヤーナ・ペトローブナ」以外の呼びか け語の選択肢はほぼない.ただし,ДСがВПに対して用いたように"Дорогая"(eng. Dear)
や"Уважаемая"(eng. respected,honourable)を付加することは可能である.このことは前節 の談話3~6と同様である.語彙選択レベルにおいてはディサーンメントの形式しか選択で きないのであるが,「拒否する相手からサインをもらう」という目的達成のために呼びかけ 語を付加する行為自体はボリションであり,ここがロシア語のポライトネス・ストラテジー の特徴であろう.五回も付加される呼びかけ語は,聞き手に対する行為の押し付けがましさ への懸念より,親近感や熱心さの表明として効果を発揮している.
次に,話し手の意図的な呼びかけ語のバリエーション選択が談話上効果を発揮している例 を観察する.その場面でその二人の人間関係において,基本的にはデフォルトの呼びかけ語 が存在する.つまり,ディサーンメントとしての呼びかけ語である.しかし,発話瞬間の話 し手の感情に基づいて呼びかけ語のバリエーションを選択する,言い換えるとボリションと して基準から逸脱することによって聞き手の注意を更に喚起し,発話全体が伝達されること