ポライトネス理論は1970年代の研究に始まり,その後様々な批判や発展を経て現在に至 るまで展開している.本節では,まずポライトネス理論研究のブラウンとレヴィンソンを中
心に概観した上で,その後の理論研究の展開を追う.そして,本研究の研究対象である呼び かけ語はポライトネスにどのように位置づけられているのかを述べる.
4.1.1 ポライトネス理論初期
現在の言語学において,人間関係と言語表現,そして言語行為を同時に分析する理論とし て最も有効なものは,ブラウンとレヴィンソン(以後B&L)によって提示されたポライト ネス理論であろう.
ポライトネス理論とは,円滑な人間関係を築き,維持するために行われる言語行動を研究 する分野であり,B&L(1987)は包括的な理論的枠組みを示している.B&Lの理論の枠組 みの道具立ては「フェイス(face)」である.フェイスとは,会話参与者の欲求,すなわち,
自らの行為を妨げられたくないという欲求(ネガティブ・フェイス)と,何らかの点で認め られたいという欲求(ポジティブ・フェイス)を指す.そして,聞き手のフェイスを脅かさ ないように配慮しながらコミュニケーションを進めていこうとする言語行為を,ポライトネ スと呼んでいる.相手のフェイスを脅かすような行為(Face Threatening Acts,以後FTA)を 行う必要が生じた場合(例えば依頼や非難,褒めといった発話行為),話し手は極力相手の フェイスを脅かさないように配慮するはずだと考えられる.配慮の具体的な方策としては,
第一に,フェイスを脅かすよりはそもそもFTAを行わない,つまり発話しないという選択 肢がある.またFTAを行う場合,明確に言わずに比喩やあいまい表現でほのめかす手段を 選択したり,何らかの補償行為を伴いながらFTAを行ったりすることもできる.補償行為 をする際に,相手のポジティブ・フェイスに働きかけるもの,例えば,聞き手の持ち物を褒 めたり,冗談を言ったりして,聞き手の「認められたい」という欲求を満たすものをポジテ ィブ・ポライトネス・ストラテジーといい,一方,相手のネガティブ・フェイスに働きかけ るもの,例えば,決めつけるのではなく,相手が断る余地を残しておき,聞き手との間に距 離をとるようなものをネガティブ・ポライトネス・ストラテジーという.また,一切相手の フェイスを配慮しないこと(直言)もある.危機的状況に陥った場合,例えば「火事だ!逃 げろ!」などがこれに当たる.また,B&Lは,話し手が聞き手に対して用いるポライトネ スレベルを決める上で,三つの社会的要因を挙げる.(1)聞き手が話し手に対して持つ相対 的な力(relative power,P),(2)話し手と聞き手の社会的距離(social distance,D),そして
(3)フェイスの負荷度(ranking of the imposition,R)である.この三つの社会的要因から 話し手は総合的にフェイスのリスクを判断し,適切なポライトネスレベルを定める.
ポジティブ・フェイス,すなわち「他者に受け入れられたい,良く思われたい」という欲
求を満たすためにとる補償行為をポジティブ・ポライトネス・ストラテジーと呼ぶが,別の 言い方をすると,話し手が意図的に相手との距離を縮める「共感のポライトネス,連帯のポ ライトネス」(滝浦2008)の方略である.滝浦(2008,2011他)におけるポライトネス理論 及びそこでの「呼びかけ語」の捉え方については,4.1.3節で詳しく検討する.
4.1.2 ポライトネス理論の変遷と現在
B&Lによるポライトネス理論に対して,様々な批判や意見がある.その一つとしてIde
(1989)は,西欧語とは著しく異なる日本語のポライトネスの現象を,「わきまえ」という キーワードを用いて再検討している.会話が成立する場には「話し手」の存在が不可欠であ る.B&Lのポライトネス理論に代表されるポライトネスの考え方では,話し手は行為者で あり,意思を持って目的合理的に行動する存在として定義される.しかし,実際の日本語談 話を観察すると,必ずしも目的合理的に会話を作っているとは言えない現象がある.例え ば,話し手によるデス・マス体の使用/非使用は,聞き手との関係,つまりウチ/ソトの関 係に応じて区別して使い分けている.目上で疎の関係の人に対するデス・マス体非使用の会 話は,基本的にはあり得ない.それは,話し手が意識して選択することはできない.なぜな ら,場のわきまえ,社会のルールがその言語使用を要求しているからである.このような,
社会が要求し,話し手の自由意思による能動的な選択ではない言語使用,言い換えると慣習 的な言語使用が,日本語では強く話者を縛っているといえる.
ポライトネス理論研究の変遷,展開をまとめた研究も存在する.Murata(2007)は,記述 の単位,話し手と聞き手の扱い,普遍性に関する捉え方の違い等について時代別に分類し,
ポライトネス理論の変遷を次のように総括した(表 4-1).
表 4-1 Summary of characteristics among three approaches to politeness
(Murata2008:12)
Traditional Modified B&L Post-modern Lakoff(1973), Leech
(1983), and Brown &
Levinson(1987)
Ide(1989), Usami
(2002), and Spencer-Oatey(2000)
Eelen(2001), Watts
(2003), and Mills
(2003)
Normative (Moderate) normative/
principle-based
Non-normative
Predictive Predictive Non-predictive
Speech-act level Discourse level Dynamic discourse level Speaker-oriented Mainly speaker-oriented,
taking into consideration about hears' assessment
Discursive negotiation
Data as a Text Data as a discourse Data as a process Homogenous Heterogeneous according
to cultures
Heterogeneous according to situations or speakers
また三牧(2013)は,様々な理論研究が立脚する立場の相違点から二種類の対立的なアプ ローチについて,先行研究(宇佐美2008,栗原2008,2009)を参考に次の表 4-2に示し た.
表 4-2 ポライトネス研究の主要なアプローチ(三牧2013:32)
合理主義的(rationalist)
アプローチ
言説的(discursive)
アプローチ
主要な研究者 Lakoff,Leech,B&L Eelen,Watts,Miles ポライトネスとは 理想的主体を想定
方略的対立(摩擦)回避 補償・緩和行動
<研究者により幅が大>
理性的主体を否定
広く社会的慣習行動の理論の一 部
社会的相互作用の具体例から創 発されるもの
ポライトネスの普 遍性について
普遍性を追求 普遍性を否定
B&Lに対する立場 (B&Lを補充・発展) B&Lを痛烈に批判 対抗する代替理論を標榜 方法論 トップダウン型
演繹的 還元主義的
ボトムアップ型(自然談話の相 互作用のダイナミズム重視)
帰納的(非演繹的)
ミクロ的 非還元主義的 マクロ的 関連する(影響を
受けた)理論等
Griceの会話の公理 Goffmanのフェイス概念
Bourdieuの社会理論(habitus 等)
このような理論研究は,「B&Lが十分に論じていない側面を補う,あるいは修正した上で再 構築を目指すという性格を持つ合理主義的アプローチに対し,B&Lの主張する普遍性を否 定し,対抗理論を標榜する言説的アプローチとは,基盤とする思想や方法論において大きな 相違がある.(中略)ところが,合理主義的アプローチがB&Lの不十分な点を補充し,さら に包括的なポライトネス理論を構築したか,言説的アプローチがその主張に裏付けられたポ ライトネス理論を確立したかと言うと,未だそのような段階に至っていないと言わざるを得 ない」(32-33).
ポライトネス理論の重要な概念として認識されてきた「ディサーンメント
(discernment)」について,松村(2017)はKadar and Mills(2013)を中心にとらえ直した.
そして,ディサーンメントを慣習的ポライトネスと定義し,ディサーンメント(わきまえ)
は全ての話者によって示されなければならない点,また「ボリション(意図的丁寧さ)」を 適切に使用できるか否かは「ディサーンメント(わきまえ)」を遵守しているかどうかに依 存する点を述べた.
本研究はHill et al.(1986)及び松村(2017)を援用し,ポライトネスとこの二側面につい
て,次のように定義する.
(1) Politeness:Behavior which promotes smooth communication between interlocutors.
Volition:Volition is the aspect of politeness which allows the speaker considerably more active choice, according to the speaker’s intention, from a relatively wider range of possibilities.
Discernment:Observance of whatever counts as normatively conventional, and potentially ritualistic, within a society.
4.1.3 ポジティブ・ポライトネス・ストラテジーと呼びかけ語の位置づけ
ポジティブ・フェイス,すなわち「他者に受け入れられたい,良く思われたい」という欲 求を満たすためにとる補償行為=ポジティブ・ポライトネス・ストラテジーは,別の言い方
をすると,話し手が意図的に相手との距離を縮める「共感のポライトネス,連帯のポライト
ネス」(滝浦2008)の方略である.人はいかにして相手との距離を縮めようとするのか.
B&Lは,ポジティブ・ポライトネス・ストラテジーとして15の下位ストラテジーを立て
た.以下,下位ストラテジーを具体的に挙げる.
(1) H(の興味,欲求,ニーズ,持ち物)に気付き,注意を向けよ.
(2) (Hへの興味,賛意,共感を)誇張せよ.
(3) Hへの関心を強調せよ.
(4) 仲間ウチであることを示す指標を用いよ.
(5) 一致を求めよ.
(6) 不一致を避けよ.
(7) 共通基盤を想定・喚起・主張せよ.
(8) 冗談を言え.
(9) SはHの欲求を承知し気遣っていると主張せよ,もしくは,それを前提とせよ.
(10) 申し出よ,約束せよ.
(11) 楽観的であれ.
(12) SとH両者を行動に含めよ.
(13) 理由を述べよ(もしくは尋ねよ).
(14) 相互性を想定せよ,もしくは主張せよ.
(15) Hに贈り物をせよ(品物,共感,理解,協力).
ここで注意すべきは,表出されるストラテジーは,実際に知識を共有して何かを共に行 う,と言った現実的行為ではない.話し手がそうであればいいと期待し,また同時に話し手 が聞き手もそう思ってくれるだろうと期待するという,あくまで話し手の主観的な「みな し」によって話し手は具体的な補償行為を選択するのであり,話し手が選んだ方策の適格性 は検討しない.
B&Lのポライトネス理論において,呼びかけ表現はポジティブ・ポライトネス・ストラ
テジー4「仲間ウチであることを示す標識を用いよ」の一つとして位置付けられている.仲 間ウチの呼びかけ表現を用いることで,話し手と聞き手の共通基盤を主張し,ひいては聞き 手のポジティブ・ポライトネスを満たすことに結びつく,と考えられている.そして,仲間 意識に訴えかける呼びかけ表現の英語の具体例として,呼びかけ語"mate","buddy",話し手