第 2 章 質的研究法
第 1 節 質的研究法とは 1 質的研究の特徴
質的研究法とは,主に記述的なデータを使って,言語的かつ概念的な分析を行う研究法 である(能智, 2000)。個人が持つ主観的で「独自の意味の体系」や「個人の主観的な世界 を支える構造的な条件」,「意味の世界の生成変化の過程」(能智, 2011)について,言語な どの「世界をとらえる概念的な道具」を使い,新たな視点を「探索しながら<現実>をと らえ直そうとする営み」(能智, 2011)であるされている。岩壁(2010)は,インタビュー などによって研究協力者の感じ方や考え方,物事に対する見方について情報を集め,「複雑 なプロセスや幾層にも重なった体験の意味」などに入っていくことができるとし,これら プロセスや体験の意味は質問紙や観察では到達できないと述べている。このような質的研 究は,数量化を目指す量的研究と比較されると,Table 1(岩壁, 2010)のように方法論や 手続きなどに差異がみられ,二分法的な関係が明らかとなる。この関係について能智(2011)
は,二分法でとらえることが「どちらかといえば量的研究の思考法」であるとし,二分法 も解体あるいは乗り越えるような視点を模索する必要性を示唆している。
質的研究の基本的特徴について,Flick(2007)は4点を取り上げた。第1 は,方法と 理論の適切性である。研究対象の複雑性に対して研究方法は開かれており,現象を基準に して研究方法が選ばれる点である。第2は,研究協力者の視点とその多様性である。研究 協力者のものの見方や行為は様々であり,その背後に「多様な主観的立場と社会的背景」
(Flick, 2007)が存在しており,こうした視点の多様性を考慮に入れる重要性を上げてい る。第3は,研究者と研究とのリフレクシビティである。研究協力者の主観性と共に,研 究者側の主観性も研究プロセスの一部とみなされることであり,「フィールドにおいて研究 者に起こる自分の行為や観察に関する反省,印象,いらだち,感情」(Flick, 2007)など も解釈の一部となる点である。この点について遠藤(2002)は,研究者側の主観性の介入 は不可避的かつ必然的なものと見なし,それについて反省的に自覚することが重要である こととし,「特定の『観点』や『色眼鏡』を持っていること,それ自体ではなく,むしろ,
105
Table 1 質的研究と量的研究(岩壁, p19, 図 1-1)
そのことに無自覚であること」(遠藤, 2007)の問題を取り上げた。第4は,アプローチと 方法の多様性である。第 2 の指摘に関連して,様々な理論的アプローチあるいは「学派」
(Flick, 2007),そこから派生する様々な方法が存在している。この点について遠藤(2007)
は,質的研究は「主観性の介入やデータの読み方や言語の果たす役割等について,多様な 立場を許容しているところにこそ独特の妙味や醍醐味がある」と述べている。
一方,原田(2004)は,質的研究の基本的特徴として,空間的文脈を重視する点,時間 的文脈を重視する点,当事者の視点とその多様性を考慮に入れる点(Flick, 2007),帰納 的分析にもとづいて仮説生成する点の4点を取り上げた。具体的には,データ収集の場を 実験室などと異なった自然な状況とすること,「社会的相互作用やプロセスといった時間軸 に沿った視点が重要な意味をもつ」(木下, 2003)こと,研究協力者の「経験したありよう をすくい取ることができる」(原田, 2004)こと,「研究対象を“研究者の側に引き寄せる”
のではなく,研究者が“研究対象の側に降りて”データの収集および分析を行う」(遠藤,
2002)ことであると原田(2004)は述べている。特に第 4 点の帰納的分析にもとづくと
は,ボトムアップ的姿勢であり,「質的研究の基本スタンス」(原田, 2004)と指摘されて いる。
106 2 質的研究法のプロセス
このボトムアップについて遠藤(2007)は,研究協力者の「モノログ」をただ忠実に掬 い再現することではなく,むしろ「ダイアログ」であり,「循環的プロセス」(遠藤, 2007)
であると述べている。「ダイアログ」あるいは「循環的プロセス」とは,研究者が「研究協 力者と相互作用すると同時に,自らの主観や解釈を交えつつ見聞きし,さらにそれが見当 違いなものでないかを,再び研究対象のふるまいや声を通じて確かめ正す」(遠藤, 2007)
ことであり,研究では何回も繰り返し実践する重要性を唱えている。言いかえれば「研究 協力者の経験のなかにある潜在的な意味と,研究者が読み解いた意味との対比・照合作業 を厳しく何度も重ねながら,あらたな仮説や理論の生成を図ろうとすること」(遠藤, 2007)
であると述べている。
一方Miller & Crabtree(2000)は,質的研究は収集プロセス,分析プロセス,解釈プ ロセス,再帰的プロセスという4つのプロセスによって構成されるとした。Figure 1は,
Miller & Crabtree(2000)が作成した図を伊藤(2006)が翻訳したものである。収集プ ロセス(Gathering Process)とは,研究テーマに適した研究対象のサンプリング,質的デ ータの収集と記述化による調査プロセス(Exploring Process)である。分析プロセス
(Analysis Process)とは,記述化されたデータを研究者が概念やカテゴリーによって組 織化し,それらを関連づけることによって確証や検証が行わなれていくプロセスであり,
理解プロセス(Understanding Process)である。解釈プロセス(Interpretive Process)
とは,分析プロセスで浮き上がった概念やカテゴリーなど文書化された分析内容について,
研究関係者の意見や研究協力者とのシェアによって解釈の共有化を行うことであり,共通 基盤の発見(Finding Common Ground)である。これら3つの収集・分析・解釈プロセ スは,一方通行ではなく,反復するプロセス(iterative process)である。第4番目の再 帰的プロセス(Reflexivity Process)とは,この反復する中で反省と直観(Reflection / Intuition)を用いることであり,原田(2004)は再帰的プロセスを「反省プロセス」と訳 し,「研究者自身による [反 省リフレクティビティ] が一連の研究プロセスを管理・統合するうえで重要な要 素」であると指摘している。
3 質的研究のパラダイム
質的研究の歴史は,19世紀末から20世紀初頭に遡り,ドイツ語圏とアメリカでそれぞ
107
Figure 1 質的研究と臨床実践に共通するプロセス(伊藤, p276, 図 11. 2)
れ発展した(Flick, 2007)。その後1950年代から60年代に量的研究が優勢になるものの,
アメリカ社会学で批判が始まり(Glaser & Strauss, 1967),またドイツでは80年代にナ ラティブ・インタビューなどの技法が表れ,両者において質的研究はさらに発展してきた。
Flick(2007)は,現在では「研究とは客観的であるべきだ,との理想が崩れはじめてい る」と述べている。
こうした歴史的背景のため,「質的研究の理論と方法は一枚岩ではなく」(原田, 2004), さまざまなパラダイムにもとづいて発展している(岩壁, 2010)。パラダイムとは,「研究 を計画する段階から効力者との接触の仕方やデータの解釈の仕方までに大きな影響を与え る基盤と枠組み」であり,「研究者がもっている世界に対する見方」,あるいは研究活動の
「基盤となる前提であり信念」(岩壁, 2010)であるという。Creswell(2003)は,量的 研究を用いる実証主義以外に,ポスト実証主義,構築主義,専門家によるアドボカシー参 加型,プラグマティズムを取り上げた。Denzin & Lincoln(2011)は,ポスト実証主義,
108
構築主義,フェミニスト,民族主義,マルクス主義,“Cultural studies”(カルチュラル・
スタディ),“Queer theory”(クイア理論)の6種類のパラダイムを取り上げている。ま た岩壁(2010)は,実証主義以外に,ポスト実証主義,構築主義,社会構成主義,フェミ ニスト,ポスト構造主義の5種類を提示したうえで,その存在論,認識論,価値論,方法 論を検討した。さらにFlick(2007)は,パラダイムをアプローチ別に3種類に分類して,
その理論的背景や心理学における近年の発展などについて検討している。
これらのパラダイム同士で,1980年代に“paradigm wars”(Denzin & Lincoln, 2011)
と言われる事態が生じていたものの,現在は「ひとつの対象を研究するときに複数の研究 技法,理論的立場,データ源,研究者などを組み合わせて用い,より多面的,包括的かつ 妥当性の高い知見を得ようとする」(Flick, 2007)志向が見られ,質的研究と量的研究を 統合する「ミックス法」(Creswell, 2003)や「トライアンギュレーション」(Flick, 2007)
などの調査デザインが取り上げられている。また,量的研究のパラダイムである実証主義 と質的研究の様々なパラダイムのどちらでもない立場である,プラグマティズムを支持す る研究者が現在増えつつあるとされている(Liamputtong, 2010)。
4 日本における質的研究の状況
日本においても,ここ 20 年ほどの間に看護学,教育学など,心理学にも関係の深い実 践の学において質的研究が広がっており(能智, 2001),心理学分野においても関心が高ま りつつある。2002年より学術誌「質的心理学研究」が刊行され(無藤・やまだ・麻生・南・
サトウ, 2002),また日本質的心理学会が 2004 年に創立され,「新しい理論や方法論を開 拓しながら,新しい領域を切り開いていく斬新な研究」に取り組んでいる(日本質的心理 学会, 2014)。さらに,近年ではサトウタツヤを中心に,新しい質的研究法としてTEMが 開発されている(サトウ, 2009; 安田・サトウ, 2012)。
下山(2001)は,臨床心理学領域において質的研究の方法や研究内容について調査を行 った。具体的には,1983年から1997年までの間に「心理臨床学研究」に掲載された論文 312 本について調べており,その結果,全体のうち事例研究が 62.8%(196 本),質問紙
調査が16.0%(50本)であった。この場合の事例研究とは「臨床領域で行われ,1事例で,
縦断研究であり,量的指標がなく,介入がある」というタイプを指す。15年以上前の時点 ではあるものの,事例研究は6割以上を占めており,日本の臨床心理学の領域では,質的