第三章 記号と記号の外部
1 記号論の諸相
記号論の目的は、記号と記号からなる系について、その一般的な特質や構造を記述し、あ る記号系が与えられたときにそれを解析するための理論的枠組みを整理することにある38。 記号とは意味を担う媒体であり、記号系とは記号からなる連関とその解釈を指す。言語とは 記号系の一種であり、言語記号の連関とその解釈のことをいう。美術作品は意味を担う媒体 として記号とみなされる。これは、モノがモノそれ自体としては作品ではないことからも明 らかである。わたしは美術作品を特異な記号(系)であるとみなす立場から、記号論に関心 を持っているが、美術を記号論的に考察することという方法論それ自体についての批判的 検討の必要性から、記号論と実在論とのあいだの問題として美術及び美術教育を考え、また、
記号論と実在論の体系自体の再構成の必要性を感じている。
記号論はソシュールとパースをそれぞれ理論的基盤として展開されてきた。ソシュール の系譜にある記号論は、主に言語学に依拠し、フランスの構造主義―ポスト構造主義に連な るものである。一方パースの系譜は、科学哲学およびプラグマティズムの系譜に位置づけら れている。このように記号論は20世紀の思想の潮流に枠組みを提供しているものだが、さ まざまな記号論の著作において繰り返し言及されているように、記号論は未だ基礎理論す ら確立したとは言い難い分野である。記号とは何かという基本的問いに対する答えとして の記号モデルにおいても、二元論と三元論という二つの考えが並立し、それぞれの立場から 各々の思想家がさまざまな理論を提唱しているという現状があり、それは「バビロンの混乱」
ともいわれている(田中2017)。
そのような理由から、記号論についてそもそも最初に基礎理論をまとめることができな い。芸術に関する記号論的考察はこれまでもさまざまになされてきたが、各思想家の理論的 枠組みをそのまま適用して美術を考察できるほど基礎的枠組みは確立されていない。自身 が記号論を用いて思考しようとする場合、記号論上の問題それぞれについて枠組みを部分 的に解体、再構築することが必要になる。
特にソシュールの記号論の系譜は、言語学に基礎をおいていることもあってか、記号外の
38 記号論についての整理は(田中2017)に多くを負っている。
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存在を考察から除外する傾向があり、このことから美術について語る際の難しさを生んで いた。一方、パースの記号論では、汎記号主義の立場をとりつつ、より包括的に記号を定義 していることから、有名な記号の三分類(類似・指標・象徴)が生じ、美術についての応用 もなされるのだが、その理論の煩雑さもあって、扱いにくい印象はぬぐえない。
そこで、以下ではソシュールおよびパースの理論とそれらの展開を含めた思想家の理論 を、美術に即して検討していくことから、本論文の主題である記号と実在の関係性について、
主として記号論の側からの記号の外部への志向性という観点から考察していくことにする。
構造主義と美術
先述したようにソシュールにおいて記号は聴覚映像(シニフィアン)と概念(シニフィエ)
の結合体として定義される。シニフィアンとシニフィエの結合は恣意性の原理に基づき、言 語体系(ラング)によって拘束されるという両義性をもつ。そこで記号は構造的な価値体系 における差異によって存在している。ソシュールにおける記号論は、「社会生活の内部で諸 記号がどのような働きをしているのかを研究する学問」(ソシュール2016:35)として構想 されているのであり、これは構造主義の理念でもある。
構造主義における構造とは、ラングの共時的・静態的な「差異の体系」のことであり、こ れは時間的・物質的外界から切り離された閉ざされた構造である。したがって、記号の構造 の異質的外部は考慮から除外される。歴史的・通時的観点、実世界・自然や語る主体はここ では存在する余地がない。バルトが「作者の死」を述べたのも、このような立ち位置からの ことである。構造主義において「作品」という概念は解体され、それは「テクスト39」とし て把握されるのである。
このような考え方は、暗黙に次のような前提を立てている。すなわち、作者は作品に先立 っては存在しない。バルトが「作者の死」というときの作者とは、作品が生み出される源泉 としての作者であり、「人格」としての作者である。ここで解体された「作品」とは、起点 としての作者から創りだされたものとしての作品にほかならない。バルトはこれを逆転さ せ、作品こそが作者を作りだすのだというように起点を逆転させた。この、逆転され、起点 となった作品のことを「テクスト」というのであり、テクストによってつくりだされる作者
39テクストとはふつう単に文章のことをいうが、構造主義においては多義的な用法で用いられる鍵概念で ある。バルトによればテクストとは「いかなる言語活動をも外部に避難させてはおかず、言表行為のいか なる主体をも、裁判官、教師、精神分析医、聴罪司祭、暗号解読者の立場に立たせることのない、あの社 会的空間」であり、「〈テクスト〉の理論はエクリチュールの実践と一致する以外ありえない」ものだとい う(バルト1979:104—105)。これは数えられるものではなく「方法論的な場」であり、あらゆる「記号 表現の場」である。そこで、あらゆるテクストは他のテクストの「中間テクスト」であり、テクストは差 異においてしか存在しない一回性の行為なのだという。このように、テクストという語は端的にいうこと が難しい概念であるが、一義的に確定できない「読み」を許容するあらゆる記号実践であると考えること ができるだろう。後にこの概念はクリステヴァによって拡張され、「意味の生産性」として示された。「テ クストは能記のなかの、そして能記にかかわる実践である」(クリステヴァ1983:168)といわれるよう に、意味生成性の空間であるテクストにおいてはシニフィアンが「意味の産出者」の位置に置かれ、シニ フィアンの優位性が生産性としてのテクストを特徴づける。テクストはある超越的な内容に還元しえない シニフィアンの戯れの場としてあらわれてくるのである。
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は単に「書いているもの」としてその自己の優位性を失い、文脈的な存在となるのである。
このような見解は、つくられたテクストを構造としてとらえる視点に立ちながら、構造を 無時間的なものとしてではなく、時間軸を導入しようとして考える点で、構造主義の乗り越 えを志向するものでもある。それは、ソシュールが静態的な言語学に重心を置きながら、言 語の進化という側面を見逃してはいなかったという時点で、すでに予見されていた。言語活 動(ランガージュ)はラングと発話(パロール)の弁証法的な関係によって体系と変化とい う両義的な性格をもつ。パロールが理解され、期待される効果をすべてあげるためにはラン グが必要であり、逆にラングが確立するためにはパロールが必要である。ラングはパロール の道具であると同時にパロールが作り出すものでもある。この構造を、テクストと書くもの の関係に置きなおし、テクストにその先行性を認めたというのが、「作者の死」のもつ意味 である。
テクスト概念は、第二章で言及したリアリズムのシステムにおいても関与してくるもの である。便宜的に主体―モチーフ―画面、言い換えれば主体―モチーフ―作品という三項関 係によって説明をしていたものの、それらはいわばそれぞれが階層構造やニューラルネッ トワークのように相互に複雑に絡み合っているものである。それが、記号と実在が混然一体 となっているということの意味であり、おそらくそれをある方法で可視化しようと試みた 際に「アトラス」のような形をとるのであろう40。そのような性質が示しているのは、表現 という概念が、内的なものを表出するというような創造主義的なモデルで示されるような ものと端的にいうことができないようなものであるということである。作品制作がテクス トのように編み込まれた諸存在の布置によって成り立つのであれば、内的なもの自体が外 的なものに起因しているとみることもできるのであり、意味が先行していて形が与えられ るというよりも、形が先行していて、そこに意味が同時生成するというようなことが考えら れるからである。さらに、ここでいう先行する形というものは、表象的な存在や、モチーフ として考えられるような心的なものでもありうるかもしれない。そのように考えたとき、テ クストの先行性は文脈的存在の本質性のようなものとして立ち現れるのである。
このことは記号におけるシニフィアンの先行性ということにその基礎があると考えられ る。ソシュールの言語学上の転回は、記号が「名」、すなわちものないしものの本質に対す るラベルとして割り当てられていることを否定し、シニフィアンがシニフィエを分節する と示したことにある。テクストとはシニフィアンの連鎖であり、それを書くことによって
「わたし」もまた事後的につくられるというのである。
この考え方は、バンヴェニストの「ことばにおける主体性」のあり方についての考察から 多くを負っている。「ことばにおいて、そしてことばによって、人間は自らを主体として構 成する。なぜならことばだけが、現実の中に、それがすなわち存在の現実であるところのこ とばの現実のなかに、〈我〉の概念をうち立てるものであるから。」この主体性とは、「話し
40 作品鑑賞と作品制作の複雑な関係性をアトラス制作を通してビジュアル化しようとした試みとして、小
松2018b、今井ほか2018:Ⅳ章を参照。