第七章 政治としての美術教育
4 美的教育のリアリズム
ここで、改めて美的教育の可能性について論じることでここまでの議論の総括とした い。リードは確かに抑圧からの解放を訴えたが、それが事物を通した表現によってであっ たということは重要である。このことはまず記号論的実践として「メディア」の教育とい う位置づけを与えるだろう。これはモダニズム主義的な媒体観と同一視するのではなく、
媒体の実体、「此性」に基づいた出来事の経験としてとらえる必要がある。あらゆるメデ ィアは投機的に現れこそすれ、いずれ意味が定着していく。そのとき先行するメディアの 教育は再現=表象的体制として学習者に与えられる。しかし、教育はそうした布置を再配 置するという固有の経験において改めて「美的状態」において考えられる必要がある。こ のとき、メディアは何かを伝えるものであるというよりは、それ自体が意味を生成する場 である。実在する作品としての事物は、それが存在する限りでそのような意味の場におい て再帰的に存在する。ここで、相関主義的な物自体の消去は行わず、メディア、主体それ ぞれの存在が認められるとするとどうだろうか。このような、メディアと主体のリアリズ ムを想定するということは、「芸術による教育」を「芸術を教育の基礎とするべきであ る」というテーゼの本質的な意味に還すことである。つくることによって「生を養う」こ と、つくることを通した変容、つくることを通した政治、これらが、質料形相論的でな く、目的論的でないような様態とはどのようなことなのか。実のところ、このように「人 間は美と一緒にただ遊んでいればよい、ただ美とだけ遊んでいればよい」(シラー2003:
99)という「遊び」のテロス化自体が手放しで容認できるものではないだろう。美術教育 とは何か、という問いに対して美的人間形成=遊びというようなことを述べてもそれは否 定神学的定義でしかありえないのだ。
ランシエールにおける政治がポリス無くしては成り立たなかったように、美的状態もま た何らかの体系に依存している。「ポリスとしての教育」が司牧権力によって個人を養成 していくように、ポリス自身が自己変容を担保する可能性として、体制を更新する美的教 育をそもそも取り込んでいるのではないか。そこで美的状態というのは、結局のところ有 用性に回収されてしまうのではないか。個々人あるいは諸事物のリアリズムは感性的なも のの布置を再配置していくとしても、それは実にささやかな変更に過ぎないのではない か。それらの個と集団の循環のシステムをことさら主題化してなんの意味があるのか。こ のような疑問は尽きない。
しかし、美的状態が教育学において可能性として繰り返し首をもたげるのは、そこに無 視できない意味があるからなのではないだろうか。ランシエールの「無知な教師」の概念 は、平等という前提はつねに繰り返し確認する必要があることをわれわれに再確認させ る。平等は目指すべき目標ではなく出発点である。対話の最小単位は一対一であるが、と もすれば平等の関係は容易に崩れ、上下関係が生じうる。ランシエールは公教育につい て、「進歩の世俗権力であり、不平等を漸進的に平等にする方法、すなわち平等を際限な く不平等にする方法である。すべてが常にただ一つの原則、知性の不平等という原則に基
171
づいて行われる」という(ランシエール2011:194)。つまり、平等を目的としてしまえ ば、不平等という前提に立つことになり、その循環は埋められないものとなるのである。
教育において一方の知性(生徒)がもう一つの知性(教師)に従い一致していくようなこ とをランシエールは「愚鈍化」という。これに対する「無知な教師」による「知性の解 放」は「二つの関係の違いが認知され維持されていること、意志が他の意志に従うときで も己自身にしか従わない知性の行為」である(同上:19)。これは対人関係のみならず対 物関係においても同様のことがいえるだろう。芸術制作において、つくり手とつくられる 作品とが平等の前提にあること。これは一見不可解な前提にみえるかもしれないが、美的 状態とはまさにこのような前提から成り立つものである。そこでは規定的判断力は宙づり にされ、反省的な美的判断が行われる。ハーマンのような汎神論的な立場からすれば、作 品自体が美学的判断をその内部で行っているということすら可能であろう(ハーマン 2017:188-192)。
ここまで論じてきたようなリアリズムと重ねて考えるならば、平等、美的状態、教育は そのつどそれを「特殊化」する事例を構築していくことでしか確立されない。この「特殊 化」いいかえれば「主体化」ないし「個体化」は、どんなに些細なことであってもそれ自 体が「事実」であり「ラディカルな有限性」である。社会を改変する革命や、テロリズ ム、戦争といったものが「解放」や「政治」であるわけではない。白水が論じていたよう な、自由を成り立たせているポリスの教育的配慮、親が子を養うようにポリスが個人の生 を養うという土壌自体は否定されるものではなく(白水2004)、リードやシラーのいうよ うな平和や調和はもちろん目指すべき善であり続けるだろう。ともすれば、表現における リアリズムというものは、生の営みの一環の表層に過ぎないものかもしれない。そうした 事実性を踏まえたうえで、そのつど表現によって記号の連鎖、ある事実としてのフィクシ ョンを投機し、既存の体系を問い直すとともに自らを反省的に問い直すこと、問い直し続 けるということが「芸術による教育」のリアリズムなのではないか。それは自らの行為で 自らではないところへ旅することができる可能性であり、そのことを通して自らを知る行 為である95。そして、主体の投機したフィクションはそれ自体ある実在として、他の主体
95 このような流れの中に「芸術的省察」(小松2018a)と呼ばれるものがあるのかもしれない。「芸術的 省察」はおそらく「デカルト的省察」とは趣を異にするだろう。フッサールによれば、デカルトの『省 察』の目標は「哲学を絶対的に基礎づけられた学問へと、全面的に改革すること」であった。この立て直 しの要求は「主観に向けられた哲学」という形をとった。そしてこの転向は第一に哲学を始める者それぞ れに必要な省察の原型を求めること、第二に哲学する自我へ立ち返ることという段階を経て行われた。こ うした省察は有名な懐疑の方法によってなされた。絶対的な認識に至るまであらゆるものを疑うことを通 してデカルトは、「経験と思考のうちに自然に生きている時には確かなものも、それが疑う可能性がある 限り方法的な批判を向け、疑いの可能性を持つものをすべて排除することによって、おそらく後に残るは ずの絶対に明証なものを得ようと」したのである(フッサール2001:18-20)。一方、芸術的省察はどう だろうか。おそらく芸術的省察を行う主体は、形而上学的な絶対者を求めてそれをするのではない。ま た、目の前にある事物を疑うというよりはそれを信頼する。そして、主観の内部に向かって自我を超出す るのではなく、自我自体が周囲の存在との関係の中で発生していく場をまなざそうとする。そのような主 体は、部分と全体を統一させながら部分を大切にし、個体化されていく諸存在は、特異的な出来事にあり ながら、普遍性と自由につながるであろう。悟性と感性と、構想力が自由にはたらく、そのような省察が 芸術的省察であろう。芸術的省察によって自らを知る行為は、「人間」や「事物」を知る行為になりう
172
と共有され、そこでも反省的に問い直される。こうした経験の連鎖は、「つねにすでに」
行われているのかもしれないが、そのこと自体を繰り返し問い直す契機として、美術教育 におけるリアリズムは位置づけられるのではないだろうか。
美的なものはいつでも、混じり合いそうにないものの結節点としてはたらいてきた。そ れを明確に打ち出したのは『判断力批判』のカントである。カントの三批判はその「コペ ルニクス的転回」によって物自体と主観を切り離し、独断的形而上学を批判して超越論哲 学に向かった。認識論における「内―外」という構図における「外」の認識不可能性はこ こで決定的になった。主観―客観の対は、観念―実在の対ではもはやなくなり、妥当な主 観と妥当でない主観という区別に置き換えられたのである。アプリオリに可能な認識を追 求するということによって、主観内部の諸能力が措定された。主観内部の諸能力が活躍す る場は表象である。そのうちで主体―客体もまた析出される。ある表象と何らかの対象を 関連付ける作用は認識の能力であり、表象とある対象の因果関係を実現させる能力が欲求 の能力である。そして、表象と主体との関係において主体の生命力に影響を与えるものは 快・不快の感情と呼ばれる。そして、表象の種類によって能力は第二の意味で三つに分け られる。直観の源泉としての感性、概念の源泉としての悟性、理念の源泉としての理性で ある。直観はそのままでは表象ではないとされるため、構想力によって総合されることで 表象となる。認識は感性から構想力をへて表象がつくられ悟性によって概念が割り当てら れることで、欲求は理性が悟性や構想力にはたらきかけ物自体に対して立法行為を行うこ とで説明される。こうした諸能力はそれぞれ根本的不一致を示しているのだが、なぜか協 応してはたらいており、そこで媒介作用を果たしているのが判断力なのである。
判断力とは「特殊を普遍のもとに含まれているものとして考える能力」である(カント 1964上:36)。これには悟性に従い特殊を意味づける規定的判断力と、まったくの特殊が 与えられたときに、それに対して反省を施し、自分自身に法則を指定する反省的判断力と がある。この反省的判断力の行使において、何らの能力の主導も受けず、判断することそ れ自体が合目的な快となり、まったくの主観が自らに対してのみ立法行為を行うような場 合、それが美学的判断と呼ばれる。美学的であることを定義する「美」あるいは「美的な もの」といわれるものの性質は、四つの特徴で言い表される。すなわち、関心なき快、概 念なき普遍性、目的なき合目的性、規範なき規範性である。これらはすべて「―なき」と いうことが示すような「非存在の存在」、「自己を無にする無」(アガンベン2003)であ る。認識と感性の間に設けられたシラーのいう「遊戯衝動」が生み出されたのはこの美的 判断という概念からである。美的判断は超越論哲学内部における発生の問題、自らに対す る脱構築の種を宿している。そこでは分割された二元的なものが融合され、中断されたま ま自由に遊ぶことになる。
る。