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知覚と思考の場としての絵画

ドキュメント内 美術教育における記号と実在 (ページ 43-47)

第二章 美術制作における記号と実在

1 知覚と思考の場としての絵画

リアリズムとは何かという問いは、断定的な答えを出せるものではない。その問いを主題 とするものが、各々の立場や側面から問い続けることが必要である。それゆえ、辞書的な定 義づけを参照しても不十分であり、主観を重視した語りは際限ない視点の増殖に見舞われ ることになる。リアリズムについての問いは方角を見失いやすい。ここで重要なのは、リア リズムの「何についてどのように問うか」である。

リアリズムに関わる方法として、二つの方向があるといえる。一つは、作品をまずつくっ てみるという工学的・芸術的なものである。もう一つはリアルとは何かという問いの深淵に 向かおうとする科学的・哲学的なものである。リアリズムに依拠しているか否かを問わず、

美術制作を実行するものは、この二つの立場の境界を越境しながら問いを深めていくもの である18

18 この考え方は、「知能とは何か」を問う認知科学分野、特に人工知能研究の分野と重なるものがある。

理論が不確定な中で探求を行う学際的な領域ということで、「芸術的省察」的な思考と重なる部分が多い

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芸術的実践において、制作することと思考することは不可分であり、つくること自体が一 種の思考であるとわたしは考えている。「つくり手は、精神意味的なものと物質的感覚的な ものとが一体となって目の前にあることを目指して、物質的感覚的実在を相手にあれこれ 試行錯誤する」(森田2013:190—191)のであり、その「過程の内にあるものが過程の内で 生成したり変化したりする事態」として芸術をとらえるならば、芸術とはつくり手の中動態 的なありかたを示すものであるだろう19

そのような実践において、制作者であるわたしの語りは、わたしを過程の座とした過程内 部からの把握に基づいている。それは、あらかじめ与えられた記号や観念の体系において語 るということを逃れられないのであるが、その上で、認識がそれについて語っている認識以 前の世界へと立ち返ることもまた志向する。制作を通じてわたし自身は更新されてゆく、つ まり過程に巻き込まれて不断に変容していくのであり、制作とは、つねに世界を見ることを 学びなおすことでもある。そのように考えれば、制作者は知覚と思考が混ざり合ったような 状況に身をゆだねているのであり、それらは通常区別されうるようには明確に区別しがた いものだ、というのが本論文での立場である。

美術制作は世界とわたしの関わりのひとつのあり方であり、流れのなかにある時間的な 運動である。そのような意味でも冒頭の問いへの応答はつねに未完結であり続け、無限の省 察であり続ける。それはいいかえればリアリズム絵画によるわたしの陶冶の様相であり、リ アリズム絵画という過程のなかで、世界とわたしとの関係を考えることでもある。

リアリズム絵画とは何かという問いを制作者の立場から問うことが、すなわちその過程 内部で語ることであるといえるならば、この問いは内容を限定して次のようにいいかえる ことができるだろう。すなわち、「リアリズム絵画を制作するとき、制作者は何をしている のか、また、どうなっているのか」である。このような問いは、制作者の思考や知覚という ものに着目することを促し、また、思考や知覚という概念自体を問い直すことを要求するも のである。これはいいかえれば、制作による制作者の陶冶といえるものであり、美術教育に おけるミクロ的な人間形成のモデルとしても意義があるものであろう。以下ではこうした 問いを手掛かりに、リアリズム絵画を主題として論じることを通してリアリズムという概 念の再構成を試みたい。

絵画という媒体

「絵画とは、なんとむなしいものだろう。原物には感心しないのに、それに似ているとい って感心されるとは。」(パスカル 1973:90)絵画において対象の再現作用に快感を覚え、

(三宅2016)。人工知能の分野からも、「一人称研究のすすめ」ということが提唱されており(諏訪ほか

2015)、既存の方法論にとらわれない研究の在り方が模索されている。

19 芸術体験の中動態的なあり方については(森田2013)を参照。中動態の定義については、代表として バンヴェニストの定義が挙げられる。「能動態においては、動詞は、主辞に発して主辞の外で行われる過 程を示す。これとの対立によって定義されるべき態であるところの中動態では、動詞は、主辞がその過程 の座であるような過程を示し、主辞の表すその主体は、この過程の内部にあるのである。」(バンヴェニス

2015:169)

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片やそのことゆえに空しさを覚える。パスカルのことばは、絵画という媒体の不思議さを物 語っている。このような媒体の特徴について考察するということは、ある種モダニズム的で あるかもしれないが、美術によって可能になる固有の経験という観点を敷衍し、それについ ての理論的な考察を加えるにあたって不可欠であり、自身の使用する概念の基盤ともなっ ているため、以下に進めていくこととする。

絵画という媒体の固有の領域を考えた時、ドニやグリーンバーグの言うような絵画の不 可避の平面性20に立ち返ることは、再現的で幻影的な三次元性に対する二次元性という対立 構造を再考することでもあり、絵画以外の媒体との差異において絵画を位置づけようとす ることでもある。

絵画的事象の固有性、という考え方は、ランシエールが指摘しているように、「絵画の素 材と絵画の形式が一致することを保証」(ランシエール 2010:96)しようとするものであ る。素材と形式との一致、これは一方では「モノ21」自体を形式化する志向性をもち、もう 一方では、精神的な素材と形式の結びつきを志向するという表現主義的傾向を示す。ここで 排されているのは、モノと表象としての空間の結びつきであり、これを支えている社会的慣 習である。本章では素材や形式によって意味作用をする媒体を記号であるとし、記号論的な 観点から絵画を考察していく22

芸術は媒体を芸術として見るというまなざしが無ければ存在しない。言いかえれば、芸術 は芸術と芸術以外のものの境界づけによって成り立っている。芸術とは、芸術という概念の 変動する外延であり、それは一つの体系をなし、諸々の分節化によって成り立つ。「芸術と は何か」という問いに応答することは美術教育においても避けがたい重要な問題であるが、

その問いにここで先立って結論を出すことはできない。芸術とは何かという問いへの応答 は、リアリズムとは何かという問いへの応答と歩みを同じくして徐々に論述されていくこ とになる。また、これらの問いは、「美術の学びにおける知とは何か」という本論文の主要 な問いとも密接に関連している。

ひとまずここで前提とするのは、絵画の平面性も、そのような差異化によってつくられた 体制であるということである。絵画という媒体の固有性における二次元性と三次元性の対

20 絵画的事象の固有性とは、次のように定式化されるものである。「色の付いた素材と支持体の物質性そ のものがもたらす諸々の可能性だけを、特定のやり方で現勢化すること」(ランシエール2010:96)。グ リーンバーグによれば、これは媒体の再帰的な自己―批判という、「カント的な」内在批判を絵画に適用 した際の帰結である。この内在批判は「モダニズム」芸術の「純粋さ」志向と重なり、自己―批判は徹底 的な自己―限定につながる。それゆえモダニズムの絵画は、支持体の不可避の平面性を強調し、幻影的な 三次元性の一切を排除する方向へと向かった(グリーンバーグ2005:62—76)

21 本論文では、片仮名の「モノ」という場合に二つの主要な意味を持たせている。一つには美術作品を実 世界に空間的に存在させている媒体という意味で用いる。その文脈で本論文ではモノも一種の記号として あつかい、また、イメージや概念などの心的な媒体も記号とみなす。しかし、実在としての「モノ」とい う物自体のような記号とは言い切れないようなモノを意味する場合もある。これらは文脈によって使い分 けるほか、あえて双方の境界があいまいになるような使い方をすることもある。

22以下では記号を「意味を担う媒体」としてとらえる。ここでソシュールとパースによる二つの基礎的な 定義づけを参照しておく。ソシュールによれば記号とは、「シニフィアンとシニフィエの結合体」(ソシュ

ール2016:102)である。パースによれば、「記号あるいは表意体とは、ある人にとって、ある観点もし

くはある能力において何かの代わりをするもの」(パース19862巻:2)である。

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