第六章 新しい実在論と美術教育
3 新しい実在論の理論的射程と美術の探究
以上に、メイヤスー、ハーマン、ガブリエルの理論を追いながら、その理論的射程につ いて、芸術との関係を踏まえながら見てきた。
メイヤスーにおいては、相関主義を批判し、思考の外部に向かおうとする引力が強烈で あり80、最終的には主体の消去、ハイパーカオスという偶然性の必然性、数学と実在の一 致可能性、といった方向に進んでいった。ここでは、有限性の後を思考する枠組みを相関 主義の壁にこじ開けたという理論的仕事は見られても、基本的には芸術との関係というこ とは論じられていなかった。なぜメイヤスーが芸術を論じえないかということに立ち入る ならば、それは祖先以前性という概念の磁場に飲み込まれているからである。メイヤスー の議論は祖先以前性の問題を相対主義にぶつけるということで回っている。それゆえ、芸 術、アートというまったく祖先以前ではないものを取り上げることが難しいということが ある。確かに、物自体を思考可能にしようという試みは、モノに日常的に向き合っている 美術制作者にとっては魅力的だろうし、偶然性の必然性ということがある種のニヒリズム として魅力になることはあるが、メイヤスーの『有限性の後で』の地点では、人間と事物 の関係性をうまく語れない以上、芸術は取り付く島がないように思われた。
80 このことは、カントにおける欲求能力、すなわち理性が物自体を志向するということを想起するなら ば、メイヤスーの理性の欲望それ自体の象徴的現れであるのかもしれない。
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しかし、メイヤスーはFHSというフィクション概念によって彼独自の思弁的な芸術論 を展開してもいる。そこでは、偶然性の必然性というハイパーカオス的な状況それ自体が 描写され、世界の安定性を失った何かが表現されることになると考えられる。実際にはそ のような世界を純粋に取り出すことは不可能な企てであり、思弁的実在論があくまで思弁 であったように、そこに人間的な意識や身体は担保される余地がある。そのため、芸術と の関係でいえば、思弁的芸術ということを考えることも可能であり、そのような芸術のあ り方は、芸術が文化的な事象であるということ自体は保持しつつも、実在について語りう るというような方面での展開の余地を残しているということができる。
一方、メイヤスーに比べて芸術分野で応用されやすいハーマンのオブジェクト指向存在 論は、対象をそれ自体として存在すると断定し、それらが孤立して退隠していながらも、
四方構造によって実在的・感覚的に相関可能な構造を示したところに芸術との関係を見出 すことができる。これは、メイヤスーに言わせれば「強い」相関主義であるところのハイ デガーを主に援用することによって、思弁的実在論と相関主義の折衷案のモデルといった ものを提供しているところにもうかがえる。ハーマンの独自性は、相関主義に陥るかわか らない微妙なところで、人間の中心性を否定し、汎心論的にすべてのものをフラットにし てしまうところである。ともすると素朴と受け取られるようなことを改めて語ることで、
モノの汲み尽せない不気味さのようなものを示すところは、芸術の参照点となっているの だろう81。
また、第一哲学としての美学、ということが示しているように、汎心論的な世界観では 美学が中心問題となることから、芸術、美術との接点も多い。しかし、ハーマンの四方対 象という哲学的な道具立ては、それ自体のシステムとしては二元論の変形という構図を持 つものであり、また、そのシステム内部の複雑な関係性は、ハイデガーの概念をやや強引 に解釈して再構成したという側面も踏まえると、単純に応用できるようなものではなく、
ハーマンの世界内部で完結してしまっているようなところがある。特に、あらゆるものの 無関係性というある種素朴実在論的な考え方において、真率という絶対的な結びつきがあ ると主張している点にも理論的な追求が必要とされるところであり、無関係性や切断とい うテーマから美術教育でハーマンの考え方を導入しようとすることは、かえって感傷的な 個人主義や個物主義のようなものに陥るのではないかという疑問が残る。人間―非人間と いう構図からすべてのものをフラットにしたという点では一定の評価があるものの、結局 は変形した相関主義なのではないかということも疑問が残る部分である。
最後にガブリエルであるが、ガブリエルは世界というものを設定することを批判するこ とを通してメイヤスーを批判していた。メイヤスーが想定した偶然性の必然性は世界とい
81 しかし、ハーマンに依拠して今日モノを芸術において主題化することにある種の違和感があることは否 めない。なぜなら、レディ・メイドやアースワークなど、そうした取り組みはすでに美術史に位置づくよ うな形で先行して実践されてきたという事実があるからである。そこでオブジェクト指向存在論的なもの が今日意味をもつとすれば、それはまさに今日の関係性に依拠したものであるだろうが、この点について はさらに考察を深めたい。
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うすべてを包括する存在であり、世界は存在しないということを論証することによって、
必然性の偶然性を示そうとした。そこでは、思弁的実在論では原理上触れ得なかった意味 が、これもメイヤスーによれば強い相関主義であるところの分析哲学のフレーゲの意義概 念を参照して論じられ、意味の場の複数性という形で、精神および主体を復権させるよう な形で思考の外の思考と対決がなされていた。ガブリエルはおそらく、思弁的実在論が芸 術をうまく扱いえないということをわかったうえで、芸術の意味ということを考えること を通して新しい実在論を考えようとした。いいかえれば芸術とは主体の消去や相関性の消 去という志向性に対する原理的な批判なのである。それは、祖先以前的でなく、意味の場 にわれわれを直面させる、反省的な活動だからである。
本論文の立場としては、ガブリエルの意味の場の存在論に最も理論的な可能性を見出し ている。ガブリエルのような「存在論的多元主義」の立場はグッドマンが「ヴァージョン の複数性」といったことと共鳴している(Goodman1978)。あるいはパラダイム論や構造 主義との関連も問うことができるように、主張自体は奇抜なものではない。特徴的なのは 意味の場という記号論的なものを実在論の基本要素に据えたことであろう。このことは見 てきたように思弁的実在論への原理的批判を含んでおり、この立場によればハーマンにお けるオブジェクトも意味の場によって説明されることになる。他ならぬハーマンが芸術を 語る際に、退隠だけでは語りえないように82。
意味の場の存在論における、意味の場の複数性と変容性は、そのことによってつねに再 帰的にある存在を存在させることになる。これは、ここまで論じてきた美術の性質を記号 論と実在論の双方からうまく説明しているように思われる。「いつ芸術なのか」というグ ッドマンの問いとも対応しているが、芸術はそれが芸術という意味の場で作用する際に初 めて存在しうるものであり、そのような意味の場は既存の構造のようなものとは限らず、
美的判断のような形で成り立つ場合もあれば、制作という行為によって諸存在を質的に編 み込んでいく過程で徐々に既存の意味の場を部分的に再構成したり解体したりしながら生 成してくるような、流動的なものだと考えられる。このような意味の場の存在論の解釈 は、ガブリエルが「世界」の存在を否定したことを踏まえたうえでもなお、グッドマンの
「世界制作」の概念と理論的な近親性をみせている。ガブリエルが否定したのはすべてを 包括するものとしての世界の概念であり、多元的な世界=意味の場の存在は否定しないか らである。
このような存在論的な前提がいかにして美術、美術教育に影響を与えるのか。このこと について考えるのは次章以降にも引き継がれるが、本論文の全体を通しての見解として は、唯一の本質的要因によって美術を基礎づけようとするのではなく、多元的本質を認め ることによって美術教育の本質ないしディシプリンを位置づけようという立場をとってお り、このことはいわば「穏健な基礎づけ主義」、「中立的な実在論」としてわたしの基本的
82 「退隠は、自分自身が生じるために対象化を前提とするのである」(ガブリエル・ジジェク2015:
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