第八章 フィクションによる教育
2 フィクションの世界
以下ではフィクションと美術の探究の関わりを見出したいくつかの事項を、ゆるやかな 連関において例示しようと考えている。ここで示されていることは全体として体系化され ているようなものではなく、美術の実践の内側から生じてきたものもあれば、芸術としての 位置づけも不安定なところからの取り組みも含まれている。そのような相対的に弱い立場 にあえて言及することで、特に否定的なイメージでとらえられがちなフィクションについ ての擁護をするものである。
芸術としてのビデオゲーム
まず、先に言及した松永の議論とのつながりで、芸術としてのビデオゲーム99という問題
99 ここでいうビデオゲームとは次のように定義されるものである。「ビデオゲーム作品とは、(1)視覚的 デジタル媒体を通して実現される人工物であり、かつ、(2)娯楽的に、あるいは、芸術的に受容されるこ とを意図された(あるいは慣習的にそのようなものとして見なされている)ものであり、かつ、(3)その 受容のあり方が以下のいずれかであるよう意図された(あるいは慣習的にそのようなものとして見なされ ている)ものである。(3a)ゲームのプレイ、(3b)インタラクティブなフィクションの受容、(3c)シミ
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について考えたい。今日、多くの人々がビデオゲームのプレイや「プレイ動画」の鑑賞に膨 大な時間を費やしている。ビデオゲームのプレイは現代人の代表的な余暇の一つといって もよい。松永は、そのようなわれわれの社会の文化におけるビデオゲームの重要性に関心を 向け、芸術形式の一つとしてのビデオゲームについて分析美学の知見をもとに考察してい る。このような研究は、ビデオゲームにまつわる諸現象に関する直観的な理解をすでに共有 しているというような状態、言い換えれば「ビデオゲーム文化に参加している人であれば誰 もがうすうす(場合によってははっきりと)気づいているであろう事柄が存在する」という ことを前提として、それに対する概念的な定式化を与えることであるとされており、これは すぐれて「哲学」的なものだと松永はいう(松永2018:18)。
「ビデオゲームは、ギークと青臭い男子の文化が持つ低俗さの一覧表だと思われている」
(ユール2016:33)という事実がある一方で、ビデオゲームは固有の芸術形式による受容
と制作の関係が慣習的にも深められ、その「ハイブリッド」な特徴から注目されている。松 永はそのようなビデオゲームを新しい芸術の一つであるという前提を立てるが、「ビデオゲ ームは芸術か」という問いに対する説得的な応答を試みている。そこで松永はこの問いを次 の三つに分解している。(1)「ビデオゲームは芸術か」という問いは、実際のところどのよ うな問いなのか。あるいはどのような答えならばそれに答えたことになるのか。(2)あるも のが芸術であるための条件は何か。(3)ビデオゲームはその条件を満たすのか(松永2018: 56)。
松永は(1)に対する答えは、「ビデオゲームという提示形式は芸術形式か」という問いに 答えることであるとする。ここで提示形式とは「それに属する作品が一般にどのような形で 提示されるか」という形式のことを指し、「受け手という概念が成立する人工物種は、すべ て提示形式と考えてよい」ものである(松永2018:27)。そのため、特定のビデオゲームに ついてそれが芸術かを問うことではなく、ビデオゲーム一般の提示形式の特徴からそれを 問う必要があるということである。
そこから(2)の問いは「ある提示形式が芸術形式であるための条件は何か」というもの になる。これに対して松永は、次のように定義している。「ある提示形式Fは、以下の二つ の条件が満たされるとき、またその時にかぎり、芸術形式である。(a)Fという提示形式を 持つおかげで芸術作品であるような F プロダクトがある。(b)芸術作品を作ることを主な 目的として意図的に選ばれる提示形式の候補の集合にFが含まれるような慣習が存在する」
(松永2018:57)。ここでFプロダクトとは何であれFの提示形式をもつ事物のことであ
るが、これは(b)が成り立っているならばたいてい成り立つものであり、ここで重要なの は意図や慣習であり、これは先述した意図主義と慣習主義を踏襲している。松永はそこから
(3)についてはその条件を満たすと結論している。今日のビデオゲームは芸術として作ら れるという意図もそうした慣習も備えている。これは「アートワールド」という芸術作品を 定義する慣習のうちにビデオゲームが存在しているということを認めるということであり、
ュレーションの受容」(松永2018:34-35)。
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松永は芸術作品の定義を「制度説」に近い立場から考えている。
松永はこのアートワールドは芸術形式ごとに複数存在するものであり、唯一の正当なア ートワールドは存在しないということにも注意を喚起している。また、そうした慣習が対象 に芸術作品としての身分を与えるということにも中立的な立場をとっている。これは芸術 作品とアートワールドのどちらが基本的な概念なのかという問題を保留するということで もある。
ビデオゲームは娯楽としての意義を明確にもっている。そのことから、芸術形式として考 えることと対置され、「文化産業」や「キッチュ」であるとして退けられることもある。し かし、松永によれば、「芸術形式と娯楽形式は相互に排他的な概念ではない」以上、そのよ うな観点から娯楽と芸術を区別しようとすることはナンセンスである。このことは娯楽を 伴う大衆的な美術作品一般にいうことができるものであり、本論文の観点からも、そのよう な美術作品を含めて美術教育を考えるということの必要性があるという立場である。また、
なぜ娯楽としてではなく芸術形式として前提することが有効なのかということに関しては、
娯楽として消費している限りではその提示形式の本性について論じる必要がないというこ とが示される。提示形式の本性を松永は「ナラデハ特徴」と呼び、その提示形式のよしあし を判断する際に、評価の焦点となる特徴として考えている。ビデオゲームの「ナラデハ特徴」
を明らかにしようとする松永にとって、ビデオゲームが芸術形式として認められるのは前 提であり、また慣習的、経験的にもすでにそうした下地ができているのである。
それではビデオゲームのそうした特徴とは何か。これはゲームメカニクスとフィクショ ンという二面性とそれらのあいだでのインタラクションを通した遊びを促すことである。
この考え方は、ユールの「ハーフリアル」という考え方に示されている。まず、ユールによ ればゲーム研究ではゲームはルールかフィクションかということで論争がなされてきてお り、どちらか一方の立場から論じられることが多かった。しかし、ユールによればビデオゲ ームはルールかつフィクションである。ユールの基本的な立場を示した個所を引用する。
ゲームのルールは現実のものであり、型にはまったものだ。これは、プレイヤーの経験もまた 型にはまったものになるということではない。それでも、ルールは、プレイヤーの型にはまら ない経験を作り出すのにたしかに一役買っている。一方、ゲームの虚構世界は任意選択的で主 観的なものであり、現実のものではない。それでも、虚構世界は、ビデオゲームにおいてたし かに重要な役割を果たしている。プレイヤーは、このふたつのステージを行き来しながらビデ オゲームをプレイする。そこにあるのはフィクションとルールのあいだにある半分現実の領 域だ。(ユール2016:242)
ユールはゲームに関する古典的な定義をふまえ、新たな定義を独自に定めたうえで100、ほ
100 ユールによってゲームは六つの特徴を持つものと定義されているが、それらをまとめて端的に述べら れている個所を引用する。「ゲームは、可変かつ数量化可能な結果をもったルールに基づくシステムであ
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とんどのビデオゲームがルールに加えて虚構世界を描くということに着目し、その特徴を 位置づけている。ゲームには必ずルールが必要であるが、必ずしも虚構世界は必要ではない。
しかし、ビデオゲームは明らかに現実には存在しないプレイヤーが想像するだけの世界を もつことがあり、ルールとの相互作用によってそれは存在している。ここでのフィクション は基本的には「想像された世界」を意味しており、また「虚構世界を描くもの」としても考 えられている。
ユールが強調しているのはルールとフィクションの相互作用性であり、言い換えればデ ューイのいうような質的統一性である。ここで、いったんルールに関わるゲームの構造につ いての問題に目を転じたい。ゲームは基本的にアルゴリズム的なルールとそれを自由に楽 しむプレイヤーの相互作用によって成り立つ、型にはまらない経験を与える形式的なシス テムである。ルールの基本構造には創発型と進行型という二つの主要なものがある。進行型 は連続する挑戦課題を直接的に提供するものであり、創発型は挑戦課題を間接的に提供す るものである。ここで美術との関連で創発型ゲームについて言及しておきたい。創発型ゲー ムでは、少ないルールが組み合わされることで多数のゲームの結果が生まれる。ゲームのル ールが相対的に単純になるにつれ、ゲームプレイは相対的に複雑になる。「創発」という語 は「複雑系の科学」における説明が示しているように、単純な要素が同時に相互作用するこ とによって組織だった全体が生じることを指しており、これはデューイの生物学的志向が 着眼していた問題でもあった。
ここで、ゲームという観点を美術に読み替えると、基本的に美術は創発型のゲームとして 考えることができるということが言えるのではないだろうか。もっとも、ゲームのルールに おけるアルゴリズム性の美術における定量化は難しい問題であろうが、その部分を保留し ても美術はゲームと類似した関係にある。デューイは芸術遊戯説を批判したが、それは遊び をモノにかかわらないものとして考えていたからである。むしろルールとしての芸術とい う慣習や、ルールとしてのモノやイメージというところからそれらを考えれば、相対的に質 的なルールに支配されるゲームとして美術もとらえられるものである。言い換えれば美術 は質的創発型ゲームともいうことができるかもしれない。
その際に、ビデオゲームと同じように美術作品は一般に虚構世界をもつ101。その点でユー ルのハーフリアルという考え方はビデオゲームについての考察のみならず美術作品にも示 唆的なものである。ビデオゲームのハーフリアル性はおそらく画像や視覚的情報による有 契性によるところが大きい。これが特徴的なのは、本論文の第二章で示したような記号と自
る。そこでは、異なる結果に対して異なる価値が割り当てられており、プレイヤーは、その結果に影響を 与えるべく努力をおこない、またその結果に対して感情的なこだわりを感じている。そして、この活動の 帰結は取り決め可能である。」(ユール2016:50-51)
101 わたしは自身が絵画制作者であるということから美術について考える際に多分に絵画的に考えてしま う傾向があることを自覚している。そのため、フィクションが多くの美術作品において存在しているとい うことを認めるが、例えば彫刻作品やごく抽象的な様式の作品においては違うのではないかという意見が あるだろうことは予想される。わたしは、彫刻作品や抽象的な作品であっても、それに固有のフィクショ ンが存在しうると考えている。