第四章 美術の論理
2 自然科学の方法
以上にみたように、美術制作、美術教育、美術教育学において、その実体を求めようと した場合に、それを美的なものに求めようとすることはその自己言及性から袋小路に陥る ことになる。一方で美術を形式的に考察することもまた正当化の困難な前提を多数含んだ 状態で行わざるを得ない。こうした問題は、美術教育(学)は科学なのか、という冒頭の 問いへと消極的に応答しているように思われる。しかし、改めて科学とは何か、あるいは 科学的であるとはどういうことなのかを問わなければ、ここまで対比的に用いられてきた 美術との関係性を考察することができない。以下では、科学哲学の基本的な議論を抑える ことを目的とする。その上で、美術教育(学)は科学なのかという問いへのアプローチを 試みたい。ここであえて科学哲学の基本的な前提に触れるのは、美術教育を語るうえで科 学というものが単なる対立概念として片づけられ、「それとは違うもの」として美術を位 置づけるための布石としてしか考えられていないのではないかという認識からである。科 学哲学に対応するものはおそらく芸術学ないし芸術哲学と呼ばれるものであろうが、そう した研究の中に美術教育の科学哲学といいうるものがどの程度あるのだろうか。本章は、
美術の論理、ないし美術における知性というものを考えるにあたっての前提条件を確認す ることを目的としている。
帰納法の不安定性
科学とは何か、という問いに対しては科学者、哲学者をはじめ疑似科学とされる分野も 含めて様々な議論が行われてきた。ここでその流れを網羅的に追うことは難しいが、概略 的に主要なトピックに触れたうえで、美術教育との関係性を考察したい。
まず、演繹的推論と帰納的推論という問題からはじめるが、これは周知のように、演繹 的推論は前提が正しければ結論も正しいような推論であり、帰納的推論は前提に含まれな い情報を結論で加えつつ、それが妥当と見なされるようなものの総称である。演繹的推論 は前提から導き出される結論を単に厳密に生成するのであり、前提の真偽は問わないの で、前提が偽であれば結論も偽となり、また、その前提自体を生成することはできないと いうことを鑑みても、形式的処理が実行可能な段階にまで落とし込まれた状態で用いられ る推論規則としてのみ扱いうるものである。ここで前提となる情報の生成は経験によって 可能となるとみなすならば、それが生成されるにあたって使用されるのが帰納的推論であ る。
帰納的推論はベーコン・ニュートンらによって一つの標準的見解となって科学的方法と して受け入れられるようになっていったとされるが、そこでは、個々の現象から一般化し
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た法則を導き出すということが、「証明としての帰納」として認められており、仮説に対 する優位性が与えられていた。これは仮説を立てるということは論理的に実行することが できない発見的な文脈を内に含んでいるからである。
帰納法の代表的なものとして、枚挙的帰納法という同種の現象の繰り返しを積み重ねる ことからなる一般化と、仮説演繹法という仮説を設定し、そこから演繹によってあらかじ め観察予測を立てたうえで、実験と観察という帰納的方法で仮説の検討を加える方法があ る。こうした帰納は、個別の現象から普遍的言明である全称命題を導き出すことが目指さ れるが、原理的にすべての現象を有限の時間で調べ尽すことができないため、近似値から 確からしいものを推論で導き出すことしかできない。
帰納的推論はわれわれが生きていくうえで欠かせない行為でもあり、世界の安定性を保 っていられるのは帰納の確からしさによるということもできるだろう。しかし、帰納法は 論理的に確実に結論を導いているわけではない。このことを主張したのが懐疑主義として 知られるヒュームである。ヒュームは帰納法の一般化には斉一性原理というこれまで観察 したものとまだ観察されていないものが似ているという暗黙の前提があることを指摘し た。帰納法の一般化が斉一性原理によって可能になるとすると、斉一性原理はそもそもな ぜ可能なのかという問題が出てくるが、斉一性原理自体が帰納法によって正当化されざる をえないとして、自己言及的正当化に陥らざるを得なくなる。そこで、斉一性原理以外の 根拠を見つければ帰納が正当化できるということにつながるのであるが、ヒュームはそれ を因果関係に見出す。しかし、この因果関係自体も批判されるべきであるという。こうし た一連の問題提起は「ヒュームの問題」といわれ、帰納法の正当化の問題を扱う際にしば しば引用される。
この問題を扱い「グルーのパラドクス」を提示したのがグッドマンである。グッドマン は「ある時刻t以前に調べられたすべてのエメラルドはグリーンである」とすると、時刻 tにおけるすべてのエメラルドはグリーンであるという仮説が支持されるが、同時にグル ーという「時刻tより前に調べられたものについては、それがグリーンであるときに適用 されそれ以外のものについてはそれがブルーであるときに適用される」という語を定義す ると、与えられたエメラルドが時刻tにおいてグリーンであることとグルーであることと いう言明を並行して所有することになるという。この両者は、原理的にどちらが正しいと 結論を出せないのであるが、自然に考えてエメラルドがグルーになることはおかしいとい う推論がはたらく。この推論は、習慣によって前提から正しい投射と不適切な投射を区別 するということから説明され、この場合正しい前提はより「擁護」されているといわれる
(Goodman1955)。
ここで示されているのは、帰納の正当化には帰納的推論以外の部分での何らかの基準を つねに必要とするということである。グッドマンはそれを擁護といったが、様々な論者が 帰納法の正当化ための基準を提唱してきた。ヒュームの問題の解消ということが意味して いるのは、帰納法の正当化が不可能だと認めたうえで、その問題を放棄するかまたは新た
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な再定式化を施すということである。近年ではメイヤスーがグッドマンの議論を受けたう えで、「帰納法の問題の存在論的再定式化」を試みている(メイヤスー2018:第2章)。メ イヤスーによればヒューム・グッドマンは帰納法による法則の存在論的取り扱いは失敗で あるとみなすが、そうではなく法則の必然性の問題は存在論的な道をとりうると主張す る。これはメイヤスーのいう「偶然性の必然性」によるものとされているが、すなわち、
帰納法の正当化の不可能性は根源的な偶然性を否定できないことから生じているが、その 偶然性は必然的なものである、ということである。このことにここで深く追究することは しないが、おさえておくべきなのは、帰納法の問題が認識論・存在論の主要な問題として 今日も論じられているということと、帰納法がもつ本質的な不安定性である。
反証主義
帰納法の不安定性に対して科学的方法論からの応答として特筆されるのがポパーの反証 主義である。ポパーは帰納法的推論を完全に拒否する。これは帰納法に何らかの条件付け を付けて使用可能な範囲に限定しようとするあらゆる取り組みに対してであり、確率論を 帰納に応用する立場までも退ける。それはいかにしてなされるかといえば、仮説演繹法に おける仮説の帰納法的正当化を拒否し、仮説に対して反証を加え続けることによってであ る。反証主義の方法論では、科学者は実験や観察をする前にまず仮説を立てなければなら ず、次にその仮説を反証するために実験や観察を行う。仮説が反証されたら、それをもと によりよい仮説を組み立て、仮説が反証されなかったら、反証されるまで反証を繰り返 す。この考えによれば、仮説は検証され確からしくなることがなく、いつまでもつくって は壊し、つくっては壊しを繰り返されるものにすぎない。よって「われわれは知るのでは ない:ただ推測しうるだけである」(ポパー1972下:345)。ただし、仮説は繰り返し反証 を試みられるという「テスト」に厳しく曝されれば曝されるほど裏づけの度合いを得ると され、このテスト可能性の度合いは「反証可能性」といわれるが、これが高ければ高いほ ど仮説は耐久力が高い最善の仮説という評価を与えられるのである。ポパーはこの反証可 能性を科学と非科学の境界設定に用いた。ポパーによれば反証可能でないものは科学では ない。ある仮説がすべてのものを説明可能であるような場合は反証可能性がないといわれ る。
ポパーの立場は科学的方法から帰納主義を追放し、推論と演繹的方法とテストに置き換 えようとしたが、ここでいくつかの問題が生じる。内井はその最も重大な問題点はポパー がいう仮説の裏付けが、まったく裏付けとしての機能を果たさないことにあるという(内
井1995:69—72)。すなわち、もしポパーが言うような演繹主義に則って仮説のテストを
繰り返したとして、それは「いかに厳しいテストを生き延びたかという記録」にすぎない のであって、それが今後もテストを切り抜ける、信頼できる、といったような価値づけ、
裏付けの含意を与えてしまうのであれば、ポパーが批判した帰納的推論を用いていること になってしまうからである。ポパーが反証可能性を称揚するのは「誤りから学ぶ」という