第七章 政治としての美術教育
3 美的教育の可能性
まずリードの芸術による教育(Education through Art)という考え方を改めてみていく ことからはじめたい。リードの思想は創造美育運動に影響を与え、「人間疎外と美術教 育」、「人間回復と美術教育」というような人間性という普遍的問題が美術教育で取り上げ られる際の参照点とされた。創美は自由画教育運動の流れも汲みながら、精神分析学の知 見をもとにして、抑圧されてきた感情が表現で解放され創造行為の中で昇華されるという ことを重視した。創美の志向は人間の内面からの表出に傾倒することで、「無目的無方向 の人間主義」に陥ったと批判され、新しい絵の会などの生活世界やディシプリンへの関心 を打ち出す動向を生むことになっていった。創美と新しい絵の会という対立は、表現主義 と認識主義、あるいは本質主義と文脈主義という美術教育の基礎づけにおける対立として 今日にも続く問題を提示している。
創美は、戦前・戦後における人間性の破壊、画一的な情操教育、眼と手の訓練からの脱 却という切実な問題意識から生じた。個々人の人間性の重視は民主主義的な要請であり、
156
抑圧からの解放は平和への希求であろう87。全体主義的教育全体の見直しが図られる中 で、トータルな人間性を基盤にした感情や心の表現という「生についての美的な哲学」が 求められたのである。この問題意識を同時代的に共有していたのがリードであった。
リードの美的教育
リードは教育の目的について次のように述べている。「教育の目的とは、個人の独自性 と同時に、社会的な意識あるいは個人の相互関係を発展させること以外にはありえない」
(リード2003:22)。この考えは「個性の伸長」と「集団の発展」という多様性と画一性
との拮抗の問題の解決として考えられている。リードは「善」と「悪」という構図によっ て、倫理的な二者択一から集団を構成する全体主義を認めない。そうではなく、「自然中 立」という「個人的特性が、その共同体の有機的全体性の中で実現される程度に応じて
〈善〉とみなされる」という個人と集団の両立の立場を目指す。自然中立は教育に関する 民主主義的な概念と結びつくことが可能な唯一の仮説であり、「民主主義の本質は、個人 主義、多様性、そして有機的な差異化」にあるとされる。
このような理念を実現するのが「芸術による教育」なのである。リードは「芸術を教育 の基礎とするべきである」という命題を掲げる(同上:18)。この命題は、美的教育を掲 げたプラトン―シラーの流れにあるものであり、シラーが遊戯衝動によって主体が形成さ れ、「美的仮象」の国家へつながるといったことと通ずる美的理想主義ということができ る。
美的教育が芸術に基づくという考え方を検討するためには、リードの芸術観をおさえな ければならない。「芸術とは、優れた音やイメージなどをつくり出すことにほかならな い」とされるが、それは造形芸術に限定されるものではなく、「あらゆる方式の自己表現 を包含するもの」であり、「現実への統合された接近方法を形成するもの」である(同 上:25)。この芸術によって現実の把握がなされるという観点は、「イメージがつねにイデ アに先行する」という見解から考えることができる。芸術は「人間の体験における有意義 なものの、一かけらづつの認識であり、そのたゆまぬ定着」であり、「芸術のいとなみ は、感情の無定形な領域から、有意味なあるいは象徴となる形体の晶化である」(リード 1957:8)と述べるリードは、芸術が先行することで何らかの「象徴的な思考」が可能に なり、その結果として「宗教、哲学、科学がもろもろの思考形式として、後からおこる」
と考えている。
ここで芸術は生得的なものとして平等に人間が有するものとされ、同時に「意識の拡 張」をもたらし有機的発展をするものといわれる。教育の目的は「芸術家、すなわち、さ まざまな方式による表現に優れた人々を創造する」こと(リード2003:29-30)、ともい
87 しかし、心理学に基づいた創造性や表現の分類、個性の類型化が『原色 よい絵・よくない絵事典―幼 児画・児童画の見方、導き方』創造美育協会、黎明書房2003のような、創造性に対する価値の硬直化を 生み、作品に対する独断的な評価を導き出したことは批判されるものである。
157
われるが、それは芸術が現実の把握の基底にある以上、第一に考慮されなければならない のである。リードは芸術の予備的な定義をするにあたって「形の原理」と「創作の原理」
の二つを挙げている。前者は知覚、後者は想像力の働きに関係しているとされているが、
これらは弁証法的な相互作用によって美的な経験の心理的側面を成り立たせる。
ここには、知覚と想像力をめぐって客体と主体が交差するありさまが、現実の把握とい う観点から想定されている。感覚可能な「形をもった客体(object)」が形成されることを 第一に想定するリードは、「芸術家によってつくられた客体は、彼自身のある感情、気 分、観念、あるいは直観の相関体(objective correlative)であり、つまり、意識状態の現 実化」なのだという(Read 1960:25)。芸術によって形成される形は、意識の外在化であ り、意識は客体化されることで明瞭になる。このように言われるとき、リードは質料形相 論的に形成を考えているのではないかと思われるのだが、そうとは言い切れない部分もと らえようとしている。リードが芸術を現実の把握のためのものと考えているとき、あるい は「芸術制作に参与するという基本的な目的は、価値観を楽しむことではなく、科学と同 じように真実を確立することです」(ibid:21)と述べて、芸術のシンボルシステムの法則 を述べるとき、リードが念頭に置いているのは内的世界の法則だけではなく、外的世界も 含めたそれらの相関体の現実性を美的に把握するということである。言い換えれば、内的 なものと外的なものの調和をはかること、内的なものでありながら外的でもあるものとい う「内外即応の世界を、感性を通じて享受しつつさらに創造的に表出すること」(西村 1992:193)が芸術なのである。それゆえ「すべての表現は、そしてまた、すべての知覚 は、本質的に芸術的であり、そして美的に優れた形あるいは形態を、いわば探求する傾向
がある」(リード2003:49)のであり、知覚、想起されたイメージを「相互に関連させる
能力」(同上:62)である想像力との相互作用によって現実が創造されることで、主体自 体が生成する場として芸術が考えられているのである。
このことは感性衝動と形式衝動という二重の要請の中間の状態での、シラーの遊戯衝動 と関連させて考えることができる。感性衝動は主体を素材に解体し変化の中に置きいれ る。形式衝動は変化の中で不変を要求し、主体を確立しようとする。「第一の場合には、
彼は決して彼自身になれませんし、第二の場合には、彼は決してなにか他のものになれな い」(シラー2003:86)。個と集団の両立を考えるリードにとっては、シラーの遊戯衝動の 状態、言い換えれば想像力と形式の相互作用である芸術こそが教育の基礎になければなら ない。リードによっては芸術と道徳的活動が根源的に同一のものの位相であり、「芸術に よる教育」という人間形成という目的のための芸術の手段化ともとれる概念は、実のとこ ろ目的即手段、手段即目的という芸術と教育の不可分性を言い表すものなのである88。
88 柴田は「芸術による教育」が特定の人間像と結びつけられて、その人間像を形成するために芸術を手 段的に用いるような動向を警戒すべきものとしている(柴田1978)。この観点によれば、生得的に芸術が 備わっているというリードの立場や、創美のリード解釈も同様にある人間像を想定しているという点で疑 問視されることになる。芸術を人間形成から位置づけること自体が、一つの視点を提供するのであり、リ ードがそうは考えていなくとも、芸術があらゆる立場からの手段化にさらされることはリード自身の理論
158 個と集団の無意識的基盤
しかし、この美的教育がなぜ個と集団の両立につながるのかという点はまだ明らかでは ない。この問題について考えるためにはリードが依拠する心理学、精神分析学の知見、特 にユングとの関連を見ていかなければならない89。
リードは「生命力(ヴァイタリティ)」と「美」の調和という、内的なものと外的なも のの調和という二つの機能を歴史的に考察し(リード1957)、前者のヴァイタリティの重 要性を指摘した。これは人間の動物的な欲求であり、本能的衝動であるとして、フロイト における「イド」と結びつけられる。リードは生命自体を維持するエネルギーの創造的力 能から、人間の意識や思考をとらえなおそうとする。
リードは意識とは何かという問いに対して「気がついている状態」であるとして、次の ように言う。「気がついている状態には、主体(あるいは自己)、客体、そしてその二つを つなぐ道具を含んでいます。主体とは、知覚能力全体を備えた人間の身体全体であり、客 体とは、知覚のシステムの外部にあるもの(人間の身体からはなれたものだけでなく、人 間の器官内部にありながら、離れた部分や機能も含みます)、そして最後に、主体と客体 の間に関係を確立するための種々の感覚器官です。」(リード2003:201)ここでリードは 意識をカント的な主体―客体の関係と知覚を成り立たせる感覚の相関から措定しているの だが、すべての感覚が意識にはのぼりえないということを例示して、無意識の領野に関心 を向ける。ピアジェが子どもの自我の発達について分析したように、子どもがはじめは自 己と世界を混同しているところから、ものごとを分節していく中で自我が生成していくこ とに触れたうえで、自己の意識の起源としての無意識を考察する。
フロイトは自我(ego)がイドから二次的に分化するとしたが、さらに「超自我(super ego)」をそこに加えて人間の精神を三つに分けて考えた。リードによればこの三つの相は 互いに階層構造をなしているのではなく、異なった濃度の層が複雑に変化したり、互いに 浸透するように存在している。リードはイドを下方の暗い層の絶え間ない流れであるとし て想定し、その大きな流れの上に浮いている泡として人類の単体、個人の精神的な人格を 考えた。イドから自我を突き破ってすべての上に現れているものが超自我である。自我の 中で沈潜しているが、触れることのできる部分は「前意識」と呼ばれるが、前意識の層の 下に普段は近づけない「抑圧」された本能や、情念のより深い層があり、それらは夢や神 経症の兆候によって断片的に現れるという。この深い層であるイドはさらに深いところで は、無数の過去の人格の痕跡が発見できる層へと溶け込んでおり、言い換えればイドはか なりの程度で「遺伝する精神的遺産」である。
に内在していた問題だったのである。「機械的教育概念」あるいは「形成する教育」と「有機的教育概 念」、「引き出す教育」に見られるような対立は、ある人間像を想定している地平では根本的に共通してい るのである。
89 リードはユングと直接的な交流をもっており、ユング著作集を英語圏に紹介するなどユングから受け た影響は大きい。