第五章 虚焦点としての美術の知性
1 美術教育論における知性概念の再考
ここまで本論文では美術を記号的実践であるととらえ、言語との関係性を重視しつつ独 自の体系であるとして論じてきた。また、そうした記号論的な議論をするにあたって実在論 的な部分を捨象しないことに努めてきた。本章でも言語論的転回という言語に関わる問題 を扱うことになる。このような志向性は、美術教育についての研究動向において、ひとつの 主要なテーマとして美術と言語の関係性が探究されているという現状認識に基づいている
59。そこでは「言葉とアートをつなぐ」、「モノの教育的意義」といったことが主題として取 り上げられており、「プログラミング的思考」と相対化されるものとしての「アート的思考」
の重要性(渡辺2019)や、「力」の訓練のためのメディアという「触発の原因」としての用 いられ方ではないモノの意味というようなことが模索されている(今井2018)。
そのような研究動向は第一章でも言及した ABR についての研究と歩みを共にしている。
ABRとは直訳すれば「芸術に基づく研究」となるが、その解釈は多義的な様相を呈するも のであり、現在の日本における主要な研究動向には大きく三つの流れがある。一つは、慶應 義塾大学における岡原正幸らによる「アートベース社会学」(岡原2016)の動向である。こ こでは社会学的な研究に最終的なアウトプットとしてのアートを取り入れ、社会学的研究 における研究者と研究対象との再帰的なやりとりを表現することを含めて新しい学術的研 究スタイルの模索として展開されてきている。
二つ目は、東京学芸大学における笠原広一らによる研究である。笠原はアーウィンらが提
59 そのようなテーマを基に関連する研究を行ったものには、「〈言語活動の充実〉の具体化のための教師教 育のあり方についての研究」(渡辺哲男代表、2013—2016)、「教育空間におけるモノとメディア―その経 験的・歴史的・理論的研究」(今井康雄代表、2015—2017)、「〈単元を貫く言語活動〉を支える言語観と授 業づくりに関する研究」(渡辺哲男代表、2016—2019)、「〈プログラミング的思考〉と〈アート的思考〉を 統合的に捉えた言語活動の研究」(渡辺哲男代表、2019—)などがある。
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唱している A/r/tography という概念に依拠しながら、美術制作/研究/教育実践と記述的な 省察・探究の往還におけるアイデンティティ形成や、「不可視のものに形を与えてその意味 や価値の再考を促す」(笠原2018:51)、「探究を生きること(Living inquiry)」について実 践を踏まえて探究している。笠原によれば、教員養成系大学を含めた美術の現場からの理論 研究の目的は、確立された美術教育概念を問い直し、「他分野の最新の知を取り巻く状況へ と美術教育を接続させることを促し、その交点に現在的な意味を生み出す新たな方法論と メタ方法論、新たなパラダイムを打ち立てること」(笠原2018:62)にあるという。
三つ目に挙げられるのは、小松佳代子が進めてきた芸術系大学におけるABRの実践につ いての研究である(小松2018a)。小松は ABRにおける「芸術に基づく」ということにつ いて次のように述べている。「美術制作者の思考・探究過程に即して、芸術制作における構 想や素材の探究、あるいは表現・展示に至る一連の制作行為において、論理的な思考とは異 なるとはいえ、芸術に固有の何らかの知性が働き、それを他者に共有可能にすることをもっ て〈芸術に基づく研究〉と理解している。」(渡邊・板垣・小松2019:119)小松は、このよ うな探究は、研究対象を外在的に観察し分析するというのではなく、自らの制作行為の全体 を研究対象とすることで、その過程に巻き込まれて研究者自身が変容するという特徴があ るという点に着目して、ABRを「芸術的省察による研究」と「敢えて誤訳して」読み拓い ている。
これら三つの動向を整理すると、岡原らは従来の社会学の研究手法におけるアウトプッ トにアートを導入していくという方向性を持っており、笠原らは、美術に携わる者が制作と
「書くこと」を通した省察の往還を通して、自己を形成するとともに批判的に自己を規定し ている規範を問い直そうという契機に着目している。小松は笠原らと共通する問題意識を もちながら、芸術大学における実践を踏まえ、芸術における探究を何らかの「知性」による ものとしたうえで、そのような知に基づく探究を美術教育及び学術研究の俎上に載せよう という方向性をもっていた。
知の問い直しの必要性への危機意識
上に述べた研究動向は、それぞれに差異が認められるのだが、共通した問題として、言語 中心主義的あるいはロゴス中心主義的な知のあり方を問い直すということを試みていると いえる。言葉とアートはどう接続するのか、芸術をもって研究するとはどのようなことか、
芸術は研究足りうるのか、芸術的省察とは何か。こうした問題が浮上し、主題として論じら れている状況はなぜ生じているのだろうか。
今井によれば、モノと教育の関係を考える際には、伝達すべき教育内容をモノの側に求め る自然主義的実在論と、生産活動と理性の関係に着目した「労働」ないし「作業」モデルと しての教育観があるという。前者においては、形而上学的な一者としての自然あるいは神の ようなものが想定されたうえで、言語と実在の同一化によって世界を知るというモデルが 考えられ、後者においては、モノを操作的に扱うこと自体がモノの認識と一体化するような
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ものとして考えられ、モノは認識のための媒体として扱われることになる(今井2018:2)。 これらの考え方は、近代以降の教育のモデルとして浸透し、前者は自然主義的一元論の科学 観に基づく教育、後者は近年の「アクティブラーニング」や「キャリア教育」、あるいは「プ ログラミング教育」にも通じる、一般化可能な力を想定しそれを訓練する教育という観点に つながっているとみられている。こうした動向は、教育の「合理化」ないし「有用性の追求」
という要求を加速させ、教育学的思考がより実証的、分析的、批判的になっていくという傾 向を生じさせる。教育システムの効率化の要求は、教育学の実証科学化の主張へとつながり、
それをラディカルに批判するような教育の出現に至った。このような状況への美術教育の 立場からの認識が「危機」意識として認識されると同時に、近代的教育へのラディカルな批 判の一環に美術教育論を位置づけることで、美術教育の意義を訴えるということが、美術か ら知のあり方を問い直すということには含意されているのである。
あいまいな知性
では、美術教育論やABR研究において、美術や芸術を通して得られる知とはどのような ものが想定されているのだろうか。それは従来想定されていた知とはどのように違うのだ ろうか。結論を先取りして述べるならば、この知というものは明確に定義されているもので はなく、また、定義することが困難なものだということが共通の認識となっているものであ る。
小松は、芸術制作においてはたらく「何らかの知」を「質的知性」と呼び、アイスナーら に依拠しながらも、芸術制作の実践に即して展開される「総合的な知性」として独自に位置 づけている。小松によれば、質的知性はモノと人との界面において「思考のレイヤー」を積 層していくことにより生じるものであり、芸術的省察を可能にしかつ、芸術的省察から生じ る「形成的能力」であるとしている(小松2018a:第三章)。これは、特定の目的を達成す るために使用される「力」ではなく、過程によって目的自体がつくりなおされることを含み、
作品と制作者がともに変容していくような、美術の学びのあらゆる側面を貫いているもの として理解されている。
ここで質的知性は、それが「出来事」的に生成するものであるという点で、ある特定の知 というものに結びつかない「解放」をもたらすようなものとして考えられている。モノの未 規定性に沿って進行する制作活動が、新たなモノをつくり出すという出来事を通して自己 の問題としてとらえられ、その都度生成する質的な「何か」を総合的に知るようなこと、そ の行為の繰り返しが、芸術的省察の場として想定されているといえる。ここには、モノに関 わるイメージおよび言語もまた相互陥入的に関わりあってくるのであり、そのような意味 で総合的な知として理解されるものである。
このことは、美術制作に即して見出された知のあり方であるといえるが、拡張した解釈を 施せば、芸術一般、あるいはモノと人との関係を問うものとして、認識論の原理的な考察と 通じるものであるということができる。しかし、「質的知性」のモデルが提示しようとして