• 検索結果がありません。

フィクションの位置づけ

ドキュメント内 美術教育における記号と実在 (ページ 179-185)

第八章 フィクションによる教育

1 フィクションの位置づけ

まず、デューイにおけるフィクションの位置づけについて考える。デューイは『経験とし ての芸術』において芸術を虚構(make-believe96)であるとみなす「芸術虚構説」を批判し た。デューイにとって制作・鑑賞という美的経験は想像(イマジネーション)によって成立 するものである。それのみならず、あらゆる経験が想像的(イマジナティブ)なものである とデューイはいう。それは彼が経験が意識的なものとして可能となるためには過去の経験 を想像的に呼び起こすことが必要であり、そのような想像が現在進行中のものとして環境 と相互作用することが必要だと考えているからである。過去の経験を保有する想像は「意味」

を構成しており、組織化された諸意味からなる体系が精神であるとされている。よって、精 神は経験的に構成された想像からなるのであり、あらゆる経験は想像的なものでもある。

そのような観点から、デューイは芸術作品を想像的な要因が物的な要因と一体化して成 り立つものであり、そこに意味が織り込まれそのことによって質的に統合されていると考 えた。芸術作品の制作や受容に顕著な美的経験においてはすべての要素が融合している。し かし、経験及び芸術における想像の必然性という考え方から「芸術虚構説」が生じてくる。

それによれば、芸術は作家のイマジネーションによって虚構を構成することであると考え られるのである。これは、制作された芸術作品と「現実」そのものを比較対照することから 生じ、芸術作品の虚構性でもって現実的な要因を捨象してしまう。デューイにとってこの立 場は不十分である。なぜなら「イメージや感情は、事物(作品)によって引き起こされねば ならないが、それだけではじゅうぶんではない。イメージや感情には、その事物の感覚的性 質が浸透していなければならない。もしそうでなければそれはその事物(鑑賞)とはなりえ ない」という彼の基本的な姿勢によるものである(デューイ 2010:277)。これは「主体」

と「客体」というものの「融合」があらゆる芸術作品が備えるべきステータスであるという 考えに起因している。芸術虚構説は客体的存在をフィクションとして扱ってしまうがゆえ に問題なのである。

デューイは芸術虚構論に加えて「芸術遊戯説」というものも批判している。ここでデュー イは子どもがごっこ遊びをすることに言及し、そのとき観念と行動が融合しているとして

96 フィクションないし虚構という場合にはfictionmake-believeという意味が並列して用いられること が多い。後者はごっこ遊びとも訳されるものであるが、この意味での虚構概念は主としてウォルトンに依 拠するものとして考えられている。make-believeには信念形成という意味合いがあるが、「想像」と訳さ れている場合もある、これは命題的態度から虚構概念を考えようとする分析哲学の伝統と合致している。

fictionという場合の虚構概念は表象的な存在、信念形成のなされるような場というより広義なものを指す

ものとして考えることができる。基本的にフィクションと本論文で用いられる場合は広義の意味で用いて いる。ウォルトン的な意味の場合はごっこ遊びや○○ごっこのような用い方をする。

176

それをとらえる。しかし、芸術をそのような遊びであるとする立場は芸術虚構説と同様にし て客体的素材を加工するという事実を見逃すとして批判される。ここではシラー的な遊戯 衝動も想定されていると考えられるが、遊びが自由な美的経験を示すものであっても、そこ に素材の加工という観点を含まないものとしてとらえられている。それはいわば美的な状 態の無関心性などを基本とするその性格を批判的にとらえ、遊びを消極的なものとして解 釈したデューイの見解が示されている。さらにデューイは「芸術再現説」という外部との結 びつきを第一義的なものとする芸術観もまた批判するということを行っているのであるが、

結論としてデューイが示そうとしたことは主体と客体を分断する思考様式で芸術を考える ことは適当ではなく、芸術はそれらの質的統一性をもつということであり、それを体現する 芸術は哲学や科学を問い直すような知を示すものであるということであった。「芸術作品の 制作と鑑賞において知識は変形される、つまり知識は知識以上のものになる」(デューイ 2010)。

こうしたデューイの批判は本論文でフィクションをモノのあり方にまで拡張して汎記号 主義的に解釈していることに関連すると相反するようなものに思われるが、ここまでの議 論では記号における形式と意味の再帰的な生成ということを繰り返し論じてきた。このこ とはデューイのいう質的統一性の概念を記号論的観点から独自に再構成したものでもあり、

その点では本論文の記号論的-実在論的な観点とデューイの考えは相いれないものではな い。「政治と芸術は、知と同様に、〈フィクション〉を構築する」といったランシエールか ら影響を受けた本論文のリアリズムは、言い換えればフィクションのリアリズムであり、そ のようなリアリズムが美的教育とかかわりがあるとなされていることを鑑みて、フィクシ ョンによる教育ということにおいて美術教育を考えることは一つの方向性なのではないか という立場に立っている97

しかしこのフィクションというものは何なのであろうか。ここで近年フィクションにつ いての考察を行った代表的なものとして清塚邦彦と松永伸司の議論を参照したい。

清塚はフィクションとは何かという問題を考える際の主要な参照点としてジョン・サー ルの言語行為の偽装説(主張のふり説)、グレゴリー・カリーの話し手の意図が虚構的に受 け取られることを促すとする説、ケンダル・ウォルトンのごっこ遊び(make-believe)理論 を挙げ、その中でもウォルトンの立場を踏襲し発展させようとしている(清塚2017)。松 永はビデオゲームの美学を構想する際に重要な二つの要素として虚構世界とゲームメカニ クスがあるとして、虚構世界を定義する際に清塚と同様に上記の三名のフィクション概念 を参照し、中立的な立場から明快にフィクションを定義している98

97 バロンとアイスナーもABRにフィクションがかかわることとその有効性を認めている。ただし、「あ らゆる人工物がフィクションである」ということと、「フィクションは事実の反対のものである」という ことに対しては明確に批判している。むしろ研究においては事実とフィクションは混ざり合うのであり、

研究者の文脈やそこで用いられる諸要素の布置とそうした研究の受容者とのかかわりというような広い視 野から考える必要があると考えている(Barone & Eisner2012:102-103)。このような観点は事実と想像 を二分することを批判したデューイの質的な観点と通じているものである。

98「フィクションは、それによって受容者が特定の命題が真であることを想像するよう意図された(ある

177

まずサールの議論をみていく。サールはオースティンの言語行為論を理論的に受け継い だ哲学者である。言語行為論において問題になるのは言語に関する行為が命題を提示して いるだけでなくその都度社会的コンテクストにおいて行為遂行としての性格を帯びるとい うことである。そこで「虚構的な発言」も言語行為の一環として考えられる。サールは言語 における指示の理論において、「支持されるものは、いかなるものであれ存在していなけれ ばならない」という存在公理というものがあると示している(サール1986:139)。この主 張は虚構的発言において「虚構的存在」というものがどのように扱われるべきなのかという 問題を提起する。虚構的存在については松永がクワインの量化のドメイン(われわれがどの ような存在者にコミットしているか)ということから説明している。クワインによれば、「理 論がコミットしている存在者とは、その理論の中で肯定される言明が真であるためには、そ の理論の束縛変項によって指示されることができなくてはならない存在者のこと」である としている(クワイン1992:20)。ここでの理論は真偽が問題になるような言説一般のこ とと解され、松永によればクワインの主張は「何が存在しているかは、真であると見なされ ている言明の集まりから特定される」と言い換えられる(松永2018:104)。それによれば 虚構的言明が「虚構的に真」であるといえるときには、虚構的存在もまた存在しているので あるということがいわれる。サールの考えでは虚構的な言説は作者による「主張のふり」で ある。つまり、ある主張(表現されている命題が真であるということ)に作者がコミットし、

そのことを信じているというふりをすることが虚構的言説である。このふりは通常の言語 行為において担保されている意味論的規則を棚上げにする「水平規則」という慣習によって 可能になるとされている。

カリーの理論はサールと同様に言語行為論の立場からのものであるが、カリーは虚構的 言明の発話者の意図がその受容者に対してとるべき特定の命題的態度を指定するというこ とを主張した。そこでの命題的態度とはその命題が真であるというごっこをする態度であ り、それが真であると想像(make-believe)することである。カリーの立場は発話者のふり が主であったサールの理論に対して、発話者の意図が受け手に影響を及ぼすことを想定し たという点で、それを補完するものである(松永2018:128-129)。

しかし、サール及びカリーの立場は、発話者の行為および意図という観点からフィクショ ンを説明するというその点で批判される。清塚によれば、サールにおいては通常の発話行為 が前提とされたうえでそれに「寄生」する形で虚構的発話が考えられているという点でフィ クションがネガティブなものとして考えられており、また、清塚が文学に依拠して考えてい るフィクションの要素である語り手を作者と同一視することを困難にするということを説

いは慣習的にそのようなものとして使われる)事物である。虚構的真理は、そのような受容者の想像の慣 習によって、(あるいは作者または使用者がそのような想像を意図することによって)作られる。その虚 構的真理の集合から、量化のドメインとしての虚構世界とそのなかの存在者が引き出される。フィクショ ンは、そうした虚構世界を作り出すものであると同時に表象するものである。それは、現実的表象と同じ く、言語的な表象の場合もあれば画像的な表象の場合もある。いったん作られた虚構世界について、われ われは内的言説において語ることができる。(松永2018:132)

ドキュメント内 美術教育における記号と実在 (ページ 179-185)