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政治としてのリアリズム

ドキュメント内 美術教育における記号と実在 (ページ 152-159)

第七章 政治としての美術教育

2 政治としてのリアリズム

ここで美術教育におけるリアリズムの位置づけを考察するために、ランシエールの政治 哲学を参照していきたい。

通常、人間集団、国家における意思決定のプロセスや制度が政治と呼ばれるが、ランシエ ールはこのような意味での政治をポリスと呼び、彼のいう意味での政治と区別する。例示す ると「集団への参加と同意、権力の組織化、地位と職業の分配、個の分配の正当化のシステ ムなどが働くプロセスの全体」がポリスとされている。ここでは「生―権力」の布置も含め たものとして考えることが許されるであろう。ランシエール自身、フーコーを参照しながら、

次のようにいっている。「ポリスとは、まず第一に身体の秩序であり、それはある身体にそ の名前に応じて何らかの地位や役割を割り当てるような、行為の仕方、話し方のあいだの分 割=共有の数々を定義する」(ランシエール 2005:59-60)。だがランシエールが「養成」

という意味よりも重視しているのは、ポリスにおける「身体の現れ方の規則」であり、それ を決定している「感性的なものの布置」である。これはプラトンにおける正義、アリストテ レスにおける自然、近代ポリスにおける司牧権力の市民の客体化にみられるような、ポリス を成り立たせているヒエラルキーの暗黙の布置のことである。ランシエールの政治哲学の 特徴は、そのようなポリスにおける暗黙の布置を解体し作り直すという運動に政治を位置 づけていることである。それは質料形相論的関係、言説以前の領域にまで浸透した非言語的 な意味の場を解体しそれを新たに作り直すことによって、制作主体が存在しうるという存 在論であり、その意味で政治としてのリアリズムなのである。この作用は美術教育において も重要な知見をもたらすものと考えられる。

以下にランシエールの思想をより詳しくみていくことにする。ランシエールは『不和ある いは了解なき了解』において、アリストテレスが『政治学』で示した政治的なものの定義を 批判的に検討する。第一に人間という動物の政治的本性の根拠を言語の保有に求めること。

第二に政治的主体、つまり市民を、命令することと命令されることに与る主体として規定す ること、この二点についてである。

第一の点について、ランシエールは「ロゴス的動物と音声的動物の単純な対比は、政治が 基礎を置くことのできる与件ではいささかもない」といい、この対比が政治を創設する係争 そのものの争点であるという(ランシエール2005:48)。プラトンによれば、民衆と名付け られた匿名の多様な話す存在は、国家の身体の秩序ある配分そのものに「害=間違い 」を加 える。一方、第二の点について、民衆とは太古からある「害=間違い」の名であり主体化の 形式である。これら二つの観点によって、話す存在の大部分が沈黙の闇か快苦を表現する声 という動物の出す声の領域に追いやられることで、社会秩序が象徴化される。すなわち、民 衆とは、話すことが可能でありかつ、話す可能性がない存在なのである。

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これはいったいどういうことか。アリストテレスにおける言語を持たない奴隷を例にし て考えると、奴隷は主人の命令を能力として理解することができる。その場合、共有された 言語は確かにそこに存在するはずであるが、奴隷は当然言語能力を保有している共同体に 参与しているとはみなされない。言語活動においては立場の相互性が保証されているとき に交換が可能になるが、そのことによって平等な発話者からなる共同体が作られるのでは ない。共同体に根拠を与えるのは「分有された何か」、正と不正を伝える能力なのである。

言語を介する共同体とは、動物がもつ単なる快苦の感覚から区別される、「感性的な差異」

の配分なのである。自然的・身体的なレベルでの感性的なものの分割によって、ロゴスを奪 われた言葉は言葉とはみなされなくなるのだ。ランシエールは感性的な差異を使って共有 しているものに対する能力や無能力を登録しているこの立場の配分を「感性的なものの 分割=共有パ ル タ ー ジ ュ

」と呼ぶ。そして対話者が支配者―奴隷関係のように分割=分有され、一方が相 手の述べていることを了解していると同時に了解していないという対話状況を「不和」と呼 ぶ。

集団への参加と同意、権力の組織化、地位と職業の分配、この分配の正当化が働くプロセ スの全体のことをランシエールはポリスであるとし、通常それと同一視されている政治と 区別する。政治とは、感性的なものの布置であるポリスを、分け前無き者の分け前という前 提によって切断する活動である。政治はポリス的秩序の感性的な分割=共有を解体する。そ こで政治は「誰であれ話す存在と他の話す存在との平等という前提によって導かれた、開か れた実践の全体」を意味する(ランシエール2005:62)。

ただし政治はつねにポリスの論理と結びついている。なぜなら政治は、政治固有の対象や 問題をもたないからである。政治が行うのは平等に現実性を与え、係争という形でポリスの 中心に平等を刻み込むときだけである。ある行動が政治的であるのは、もっぱら行動の形式 によって決まる。それゆえ政治はあらゆる場所でポリスに出会うのだが、ここで「権力概念」

の乱用に留意する必要があるとランシエールは述べている。あらゆる場所に権力があると いうことから、「すべてはポリス的である」すなわち「すべては政治的である」という演繹 は正しくない。なぜなら、すべてが政治的であるなら政治的なものは何もないことになるか らだ。選挙、ストライキ、デモといった活動は政治を生み出すことも、まったく生み出さな いこともある。たとえばストライキは労働の場を共同体との関係で規定している諸関係を 再配置するとき政治的でありうる。「いかなるものもそれ自体では政治的ではない」のであ る(ランシエール2005:65)。

このようにポリスが存在してはじめて、それに対抗するものとして政治が定義されると ランシエールはいう。政治とは、「身体をかつて割り当てられてきた場所からずらし、そう してその場所の運命を変えるような活動」である(同上:61)。これはポリスにおける質料 形相論的布置を解体し、それまで質料としてしか考えられていなかったものが、形相として 認められるような現象と一般化することもできる。言葉を話すことができながら言葉を所 有していないとされた奴隷がそれを代表するのであるが、そこでは対話の主体が「感性的な

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ものの分割=分有」によって事前に存在していないものとされていた。そこでは在るもの

(言葉)が、在るにもかかわらず無いものあるいは全く食い違った解釈とされてしまう。そ のような状況が「不和」である。奴隷はいくら声を発してもそれをロゴスと認められない。

「分割=共有」されている言葉は分割された領域ごとに異なる体制に属していると暗黙に 認められているのである。

このとき、アリストテレスのいう政治的本性である、言語を所有すること、正義を理解す ることという二つの要素が問いに付されることになる。そのことはまた、アレントがいう人 間の条件を問い直すことにもつながる。平等という前提のない「分割=共有」の内部での「自 由」は空虚なものでしかない。それはポリスに属しはしても、政治には属さない。逆説的に もアレントのいう人間はポリスの論理に回収され、政治を行っているとはいえなくなって しまう。声なき者の声、「分け前なき者の分け前」によって感性的なものの布置を切断する ことこのような、ある様式の「示威行為」によって平等を明らかにすること、このことがラ ンシエールのいう政治である。したがって、「それ自体で政治的なものは何もない」という こともおさえておかなければならない。政治は平等をつくり出す平等の否認であり、「政治 は、主体によって、あるいは特異な主体化の仕組みによって実在する」。分け前をもつもの ともたないもののあいだの「共有物の実在そのものに関する衝突」を重ね合わせることで、

共約不可能なもの同士の「不和」を顕在化させること。すなわち「政治とは、主体の問題、

あるいはむしろさまざまな様式の主体化の問題である」(同上:66-69)。ここで主体化と は「ある審級の一連の行為と、一連の言表能力による産出」を意味している。これは、これ まで与えられてきた経験野では見分けられず、それを見分けることが新たな経験野を再配 置することと歩みを共にするようなものである。デカルトの「我アリ」、「我々実在セリ」は 新たな経験野の産出をもたらす一連の操作と不可分な主体の原型である。「政治的主体化は、

我々アリ、我々実在セリ」である(同上70)。ランシエールは近代の政治的な動物を、まず もって「文学的動物」であるという。そして、以上にみたような政治の存在論、あるいは主 体の存在論というところに、新たにリアリズムが位置づけられるのである。

このことは政治哲学という問題から、より広範な問題として考察できる提言である。それ によれば、共有可能な経験の諸形式のいっそう広大な再編成をなす諸実践が、ランシエール のいう政治、さまざまな様式の主体化の問題として考えられるからである。それは人間の主 体化にとどまらず、モノやイメージの領野での政治としても解釈できるだろう。そのことか ら政治の概念が芸術に接続されるのであるが、「文学的動物」ということに着目するランシ エールにとってそこにはある通底した思考がある。このことはランシエールにおける教育 論とそれを敷衍した美学にも関わっている。

無知な教師

ランシエールのいう政治のあるところにはつねに平等の実践があるのだが、平等とは「到 達すべき目標ではなく、出発点であり、どのような事態においても維持すべき前提」(ラン

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