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リアリズム絵画における知覚と思考

ドキュメント内 美術教育における記号と実在 (ページ 53-60)

第二章 美術制作における記号と実在

3 リアリズム絵画における知覚と思考

以上に、思考の範疇としての絵画という媒体を、主に記号論的な視点から考察してきた。

30 グッドマン自身、『芸術の言語』の序論において構造言語学の研究が進めてきた言語研究が、非言語的 記号システムについての研究によって補完され統合される必要があると述べており(Goodman1968:xi,グ

ッドマン2017:1-2)『芸術の言語』および『世界制作の方法』にはじまり、エルギンとの共著の『記

号主義』に至るまで非言語的記号系を含めた記号の一般理論を構成することによって哲学を再構成するこ とを試みていた。

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ここから、それらを踏まえて、具体的にリアリズム絵画においてどのような知覚や思考がな されるのかを考察したい。

主体・モチーフ・画面

ここまで断りなく「リアリズム絵画」という用語を用いてきたが、ここで改めて「わたし にとっての」というただし書きをつけてであるがこれを定義する必要があるだろう。わたし にとってのリアリズム絵画とは、構成要素として主体、モチーフ、画面をもつ一つのシステ ムであり、主体がモチーフおよび画面とのインタラクションを通して意味生成をする場と しての絵画である。

この定義については、さらに補足を必要とするだろう。なぜならば、これはリアリズム絵 画というよりも、広く絵画一般を指す定義といいうるからである。さらに、定義中の用語に ついてもより検討する必要がある。

まず、この定義は、構成要素のすべてを記号とみなす汎記号主義の立場に立っている。汎 記号主義とは、記号の解釈を記号システム内だけでとらえる立場であり、パースに代表され るものである。パースによれば、「人間が使っている言語や記号こそ人間自身」であり、「す べての思考は記号であるということが、生は一連の思考であるということと一緒になって、

人間は記号であるということを証明する」という(パース1986二巻:191)。このように考 えることは、ある種の強引な形式化を施しているように思われるところはあるが、以降の考 察にとって前提となり、記号システムという場からリアリズム絵画を考察する上で有効な ためこの立場をとる。

それを踏まえると、主体およびモチーフを記号として位置づけることになる。ここで主体 とは絵画制作を実行し、その過程でさまざまな知覚や思考をともなう存在であり、モチーフ とは、記号としての実世界(外界)である31。記号としての実世界とは、主体がその中に存 在し、主体に知覚や思考を提供する場であり、かつ主体にとって認識された限りでの実世界 を指す。つまりモチーフは主体の内部にある外界の表象である。モチーフとは絵画において は通常、絵画を描く際に参照する見本、例えば風景画に対する風景のようにとらえられるも のであるが、そのように特定の事物に限定されるものではなく、あらゆる主体にとって認識 されたものがモチーフであり、モチーフは主体の経験や習慣によって形成される。

ここで言及しておかなければならないのは、ソシュールが恣意性の原理によって記号シ ステムから排したのは「動機づけ」の概念であり、それは実世界と記号との「自然的」で「必 然的」な結びつきという意味での「モチーフ」であるということである。確かに、シニフィ アンとシニフィエの結びつきには必然性はないかもしれない。しかし、この概念を聴覚映像 と概念という考え方から拡張して、絵画などの視覚的記号や知覚の領域で考えた時、どうし ても動機づけがあるように感じられるということがある。

31 ここで主体にとって「他者」は「主体以外の何か」として広義に解釈する。汎記号主義は他者・外界の 存在を否定するものではない。

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視覚的記号の生産も恣意的だと先述したが、例えば絵画に限らず実世界を像物体と規定 し、像客体が知覚されるとき、それらはどうしてもそのように「見えてしまう」のであり、

そのつながりは必然的なものと感じられる。このことは言語記号においても起こるもので あり、バンヴェニストはソシュールの恣意性概念を批判し、シニフィアンとシニフィエの結 合は恣意的ではなく必然的であるとした(バンヴェニスト2015:55-62)。しかし、このバ ンヴェニストの見解は、先述したシニフィアンの投機によるシニフィアンの先行性によっ てシニフィエが生成するということの必然性を述べているのであって、恣意性概念を批判 していることにはならない。丸山もいうように、ラングすなわち記号システムとは、「恣意 的動機づけの世界」(丸山2012:237)であるがゆえに徹底的に虚構の世界なのであり、モ チーフとはそこに位置づけられなければならない。しかしこのモチーフは、虚構でありなが らほかならぬその主体に生成の契機を依存する、「生まな 意味」(メルロ=ポンティ1966:

255)の層から汲み取られたものなのだ。

画面とは、このモチーフに含まれるものであるが、その中でも特殊な位置づけにあるモチ ーフである。まず、それがある一定の形に区切られることによって、それ以外のモチーフと 差異化され、それ自体が一つの系となる。このことを象徴的に示しているのが支持体による 限定に加え、画面における額縁の役割であり、そのことによって画面は画面となる。

主体はモチーフおよび画面を虚構としてつくりだし、それをつくりだすことによって自 らを自らとする。未だ未分化の不定形な星雲のような主体とモチーフは、外界を知覚しそれ を内的世界に取り込むことによってしか生じえない。これは、記号系が外界の認識およびそ れとのインタラクションをするということによって自らを構造化するということであり、

これは人間においてはふつうコミュニケーションといわれる。先の定義をいいかえれば、そ れは外界とのコミュニケーションによって主体が主体、モチーフおよび画面をつくりだす 運動のことということができる。

画面と時間

このようなインタラクションを考える際に問題となるのは記号システムにおける時間性 である。ここで、言語記号の線状性の問題と視覚的記号の空間性の問題を考えてみよう。

このことは、ことばと絵画の関係性にも影響する問題である。バルトによれば、記号の体 系というのは必ずことばと混じり合っている。何かが何を意味するかをはっきり意識しよ うとすれば、結局のところことばによる切り取り方に頼ることになる。このことは、「書く こと(エクリチュール)」の難しさへの強い自覚のあったバルトが常に意識していた事実で ある(バルト1971)。聴覚映像としてのシニフィアンは時間的に一方向の線としてとらえら れる。このことは、わたしたちの意識の現象にも影響していると考えられる。

時間は「今」のスナップショットが切れ目なく続くものとして物理学上で表現されること がある(中島2015:21-23)。この考えに則ると、その今を抜き差しして順序を変えてシミ ュレーションするような仮想実験も可能になるわけだが、この感覚は通常のわたしたちの

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時間意識とはずれている。わたしたちの時間意識は流れるように、持続しているように感じ られ、その意味で線的であり、意識は逐次的に流れていく。

意識が逐次的であることは、画面に主体がはたらきかけているときも同じである。画面は 空間的な存在であり、前述したように三つの空間的情報を構成要素として持つ稠密な存在 である。このことは、画面が逐次的にではなく「一望」的に知覚されるという特徴をもたら す。一望性とは、ライプニッツが代数計算などの逐次的な記号操作に基づく認識のあり方に 対して、「万象の瞬時の把握」として規定した直感的認識のあり方をいう(ブレーデカンプ 2010)。

わたしたちは見ることにおいて画面や実世界および諸々のモチーフを一望的に把握し、

それを記号として認識するのだが、「描く」ときは、一挙にそれらを画面に表すことができ ない。先述した黒い点の例で示したように、描く行為は逐次的でありつつ、つねにその行為 が系全体に作用する。一つ価値を与えればすべて動くのであり、それは流れの中でありなが らつねに一望的でもある。そのため、絵画制作の主体は描きながら頻繁に画面から離れて画 面を見、再び近寄って描くという行動に見られるような、全体―部分の往還を繰り返しなが ら画面を構造化していく。そのとき、主体はグッドマンのいうような意味で稠密な実世界を 稠密なまま直感的に把握しながら、しかし同時に差異化、分節化し、それを稠密な形で再び 投機することで差異化する32

この描くことと、見ることの間のずれは、主体とモチーフの更新過程を示してもいる。ま ず、主体は知覚することによって外界からモチーフを得る。このモチーフは単なる網膜像な どではない。そのつど新しい記号として主体の解釈を生むものであり、モチーフにはギブソ ンがアフォーダンスというところの価値も含まれている(ギブソン1985)。加えてモチーフ は、パノフスキーがいうような、イコノグラフィーおよびイコノロジー的な解釈によってえ られる「象徴的価値」も含んでいる(パノフスキー2002)。見ることによるモチーフ―主体 間のインタラクションはモチーフの解釈を生み、主体は新たな記号を作りだす。主体はその 解釈をもとに、描くことによってさらに新たな記号を画面に投機する。画面に主体が描くこ とによって画面が変容するということは、同時に主体のモチーフが変容し、主体が解釈する ことで変容するという画面―モチーフ―主体間の相互作用を生み、以下これらの循環が一 つのシステムにおいて停止するまで実行される33

32 これは、描くときだけでなく見るときにも同様なことが起こる。このことを如実に示してくれるのは池 田学の作品である。《誕生》において池田は、細密なペンの線の集積によって三メートル×四メートルの 大画面を構築した(池田2017)。それを鑑賞するわたしたちは、まず全体を見て圧倒されるのだが、そこ から近づいて見てみると次はその細部のさまざまな世界が立ち現れてくる。そして、また下がって全体を みる…というように鑑賞者も全体と部分を往還しながら鑑賞し、モチーフと主体を変容させる。わたしに とってこの鑑賞体験は、絵画を通じて「自然」を見る際の体験を思い起こさせる。「自然」はそれ自体一 つの全体に違いないが、そのどの部分を見ていってもどこまでも稠密で、それはその都度新しい。

33 なお、ここで画面として定義しているものを広義の「作品」として読み替えてもこのシステムは成り立 つ。

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