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リアリズムと相関主義

ドキュメント内 美術教育における記号と実在 (ページ 148-152)

第七章 政治としての美術教育

1 リアリズムと相関主義

リアリズムという概念が意味するものは、それが多義的な様相を呈していることを踏ま えたうえで要約するならば、何らかの存在者の実在を認めることによってそこから理論を 展開させようとするあらゆる思考の枠組みであるということができる83。以下では一般的 なリアリズムの概念から新しい実在論に至るまでの流れを、相関主義などの関連する哲学 的動向と合わせて改めて概観したい。

リアリズムによって世界全体を説明しようとする立場は形而上学と呼ばれる。この際、

現実に現れているあらゆる事物と事物それ自体とのあいだには明確な区別が設けられ、現 象より背景にある根源的な存在者を仮定し、それによって現実に成立している事柄の総体

(=世界)が成り立つと考えられる。このような形而上学的な存在者(絶対者)は数多く 生み出されてきた。神はその中でも最も影響力のあるものの一つといえるが、他にも科学 的世界像である宇宙、ミレトス学派における水・アペイロン・空気、原子、イデア、モナ ド、物自体、カオス等々数多くの存在が仮定され、世界というこれも絶対的なものを構成 するとされてきた。

しかし、こうした絶対者の数々からなる世界(即自的なもの)に決定的に欠けているの が「わたし」言いかえると主体ないし人間である。このような絶対者を生み出したのは人 間ではないのか、という批判に形而上学は耐えられない。ロックは一次性質と二次性質と いう区別を導入したが(ロック1968:90-91)、このような区別はすでにデカルトにも見

83 リアリズム=実在論という場合の意味における定義を二つ引用してみる。〈およそ何かを認識すると きは、わたしたちは物それ自体を認識している〉とするテーゼ」(ガブリエル2018:309)「人間が使っ ている〈ことば〉は、実在に根拠をもっていると考える思想・主義のこと」(八木2015:46)。以上に端 的に述べられているといえるが、人間の論理あるいはより広義にとれば記号によって実在に直接的にアク セスできるということが論じられるのが一般的な実在論である。もちろん、それらを直接に知りうると考 えるあらゆることも実在論といえる。だが、本論文ではそこにさらに独自の解釈が加えられた状態でリア リズムという語が使われている。これは本来のリアリズムという意味からは逸脱している場合もあるかも しれない。

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られた(デカルト2006:第6省察)。ここで一次性質とはある存在における即自的なもの であり、二次性質とは事物と主観の関係にある性質のことである。色彩を想定すれば、絵 画に見られた赤色という感覚は二次性質であるが、当の赤色の感覚を引き起こした事物そ れ自体の性質がここでは一次性質である。ここでは暗黙に二つの性質が存在するのではな いかという区別がなされているのであるが、問題なのはその区別という事実によって区別 自体が無効になっているということである。言いかえれば即自的なものの存在を認めたそ の時に、その存在はわたしたちが可能な思考に結びつくことになるからである。それゆ え、「わたしなき事物」を思考可能であるとすることは不可能であり、古典的形而上学は

「独断的」なもの、あるいは素朴実在論とも呼ばれる。

こうした独断的形而上学への反発を歴史的に最も重要な位置づけで行ったのがカントで あった。カントによれば、わたしたちは即自的なもの、カントの用語では物自体を認識す ることはできず、およそ認識されうるものは何らかの仕方で人間によって構築されたもの に過ぎない。カントは主観性と客観性の領域をそれぞれ独立したものとして考える主張を 無効にすることで、独断論の「超越論的詐取」を否定した。そして主体はつねにすでに対 象との関係に置かれているのであり、そうでない主体も対象も把握することはできないと いうことを主張した。これがメイヤスーら思弁的実在論の論者によって「相関主義」と名 づけられ一般化される立場である。

カント以後、実体を思考するリアリズムは批判の対象となり、素朴実在論であることを 望まないあらゆる哲学は相関主義の一種になったといわれている。ここでは唯一の絶対者 を思考することができず、できるのは人間の表象の形式の限界を批判によって明らかにし たうえで、個々の対象領域におけるその形式を検証することである。客観―主観という対 は思考―存在の対となるのではなく、前者の対は表象の形式における客観的な表象と主観 的な表象の差として説明される。客観性は実験によって検証可能であり普遍化可能な「科 学的」表象であり、もう一方は普遍化可能でなく科学的言説とはなりえないような表象で ある。つまり、相関主義においては事物と思考の一致が客観性を示すのではなく、間主観 性、言いかえれば超越論的主観性という共同体の共有物への同意が問題になるのである。

このような相関主義的立場はポストモダンの言説において徹底され、わたしたちに対し て現れている限りでの事物だけが存在するといった見解に至ったとみなされている。ポス トモダンという表現はあいまいな表現を含んでいるものの、大まかに言って以下のような 思想背景をもとに生じてきたものである。

ここまで論じてきたように、構造主義及びポスト構造主義、分析哲学という言語を鍵概 念とする潮流がある。これらは記号主義あるいは言語主義という背景を持ち、英米系のプ ラグマティズムとも関係を持ちながら展開してきた。20世紀以降の哲学の言語中心主義的 な転回は「言語論的転回」と呼ばれ、今日においても主要な潮流となっている。構造主義 はソシュールによる言語学から発したものと一般にいうことができるが、その共時的な体 系を静的に分析するという方向性から社会学、民俗学や人類学において価値体系の分析等

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に発展してきた。その知見は、共同体における価値体系の恣意性を基盤に据えており、そ のことから個々の集団における多様な価値体系を見出すにつれ形而上学的な全体性の説明 からは決定的に遠ざかる方向へ向かった。さらに構造主義の段階では個々の構造の静的な 分析にとどまっていたものが、そこに通時的な観点を加えた構造変動の理論を志向してい くにつれ、それまでの概念構成では説明できなかったものを扱うために様々な概念が創造 されていった。構造主義―ポスト構造主義ないし分析哲学において、重要な「環境」を提 供していたのは言語である。言語とはシニフィアン―シニフィエの関係からなる記号の連 鎖からなるシステムであるが、これは全体論的価値に組み込まれて初めて意味を持つ。加 えて、初期ウィトゲンシュタインに見られるような言語の事実性の強調は言語外のいかな るものも思考不可能であることを示すことで、所与の言語体系の偶然性と思考の有限性を 示していた。

一方の動向では、フッサールからハイデガー、メルロ=ポンティに至る現象学の潮流が ある。「事象そのものへ」というテーゼに代表されるように現象学では、主体内部におけ る志向的連関から世界を記述することを目指す。このとき、主体の意識が第一次的なもの であり、それは何ものかについての意識であることから意識は対象との連関においてのみ 考えうる。この意識は自己超越することで超越論的主観性に至るとされるのであるが、実 際のところわたしたちの実存の面している部分あるいは「世界内」性から十分に自己超越 することはできない。現象学は質的研究の源流の一つとされ、臨床的な取り組みにおいて 参照点とされるが、ここでは自然科学的客観性から零れ落ちるような内的現実や感性的な コミュニケーション、生活世界の見直し、間主観的領野への洞察が目指されている。

言語主義と現象学の潮流はポストモダン思想を代表するものということができるのだ が、これらは「相関主義の強いモデル」として相関の外部を認めない立場をとり、理由率 と無矛盾律の脱絶対化を行う。このことが示しているのはわたしたちの本質的な「有限 性」、言いかえると所与の体系の「非理由」である。この点で相関主義の強いモデルは、

自らが依拠する事実性の非理由によって信仰主義に接近してしまう。絶対的なものが思考 不可能である以上、際限ない非理由な体系の増殖は、それを可能にするという一種の形而 上学へと近づいてしまう。前章で検討してきたように、メイヤスーはこのような強い相関 主義のモデルにおける事実性(非理由)を絶対化することで「偶然性の必然性」(ハイパ ーカオス)という絶対者を導入し、無矛盾律を認める弱い相関主義(カント)と結びつけ て考えることで、独断的でない思弁(ここでは数学)によって物自体にアクセス可能であ るという思弁的実在論という新しいリアリズムの立場を提唱した。思弁的実在論から派生 したオブジェクト指向存在論を提唱するハーマンや、思弁的実在論の問題構制を部分的に 引き受けながらも批判的な立場をとり、「新しい実在論」を打ち出しているガブリエルな どの論者も出てきている。また、思弁的実在論とは別のアプローチからもバラードの「行 為体の実在論agential realism」という理論が提唱されるなどの動向も出てきている。大 勢において今日リアリズム概念は相関主義との対峙というコンテクストに結びつけて考え

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