第三章 記号と記号の外部
2 美的記号の論理
これは、美術作品などの美的な視覚的記号を記号論的に考える際に必ず問題になる部分 である。自然言語におけるテクスト・文は第一分節で意味を担う単位である語に分節され、
その語は第二分節で意味を担わない最小単位である音素に分節される。有限の音素から膨 大な語が形成され、それらの組み合わせで無限の文を生成することができる。これに対して 美術作品には「綴り」が存在しない。
ここで、美術の記号論を考える場合には次のような疑問が生じてくるだろう。美術作品は どのように意味を担うのだろうか。美術作品における二重分節のようなものを考えること はできるだろうか。このことを整理しなければ、構造主義的な体系では美術作品のコミュニ ケーションを考えることができないのである。わたしの見解では、イェルムスレウのいう表 現と内容の入れ子構造は二重文節が可能な言語体系だけではなく、美的記号や美術作品に も応用して考えることができ、その意味で、メタ言語としての言語が非言語的記号を意味づ けるという形でないありかたで、非言語的記号がメタ言語となったり、表現―内容の連関が テクスト的に編み込まれる美術作品の質的な言語性のようなものを構想することは可能で
matiére(質料)と訳される。この「質料」は不可知なものであるが、認識できる実質へと転化される可 能性があるという理由により仮定することの価値が与えられる。
46直接指示記号は例えば「dog」などのそれ自体意味をもたない「記号素」の連辞で成り立つ語のことを いう。ここでdogは[dɔg]という音声(表現)の形式であり、同時にdogでない他の語に対する意味の 形式である。このとき、表現の実質とは言語的に方向付けられた物理的な実在(音)で、内容の実質とは 同様にして方向付けられた概念である。記号機能によって結び付けられている表現と内容は「機能素」と いわれる。
47 ここで、イェルムスレウのいう記号体系について補足すると、「記号体系とは、その断片のいずれも が、相互関係によって定義された類へさらに分割されることを許す階層である。したがって、これらの類 のいずれもが相互的変位(表現と内容)によって定義された分離体に分割されることを許すものであ る。」(イェルムスレウ1959:89)といわれているように、機能素以上の連辞的単位であると考えられる。
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ある。表現というものは、シニフィアンでもあり、それに対応するシニフィエでもあり、特 に美術表現でいえば、固有の質およびその価値を形成する行為であるとわたしは考えてい る。そのような見解は、構造主義的な言語論や言語論的転回からポスト構造主義や今日の新 しい実在論に至るまでの思想的な背景に多分に影響されていることもあるが、わたし自身 の制作者としての実感からなる見解でもある。ここではまず、構造主義的な見解からいかに して美術を考察しようとし、さらに、構造主義的な見解が言語の外への志向性を持つに至っ たかということをいくつかの事例をもとに考えていきたい。
ソシュール―バルトの流れを汲みながら、以上のような問題意識をふまえ絵画の記号論 を展開したものに、マランの『絵画の記号学』がある。マランによれば絵画的対象とは、「ひ とつの形象的テクスト」であり、そこでは「見うるものと読みうるもの」が連続した横糸に 沿って綴りあわされており、それを分析するということは、「この横糸のうちにさまざまな 糸を区別し数を数え、もろもろの結び目とそれらに固有の本性を標定」することだという
(マラン1986:6)。いいかえると、言語活動のおかげで、絵画という裂け目のないものを
分節化しなければならないが、そのこと自体は可能であり、意義があるということである。
それゆえ絵画は「一個の読解の体系」とみなされる。しかし、この読解とは書かれたものに 対するのとは異なったあり方をするものであり、マランはそれを「視線の一覧」と「視像の 瞬間の内部での一定の継起」、「視線の巡覧」という二つの側面から考えている。この二点は すなわち、全体と部分に対応し、「記号学的分析に提起される問題は、こうしたさまざまに 相異なる時間の分節作用を分析することであり、とりわけ視像の統一性がいかにして、読解 の言説的性格によって分節され切り分けられることになりながら、しかもけっしてひとつ の統一性を失わずにいられるか、にある」(マラン1986:8)という。
絵画の記号論的分析には以上の二つの視線による読解が想定されるのであるが、ここで あらためて、絵画における「連辞」と「範列」についての検討がなされることになる。絵画 は一つの構造化された全体として考えられるが、意味が分節からしか生まれえないのであ れば、絵画という大連辞はいかにして相対的に自立的ないくつかの連辞に切り分けられる のだろうか。ここでマランは意味の源泉としての見うるものと名づけうるものの分離不可 能性に訴え、「絵画の大連辞は言語活動によって中継されることができ、この中継によって、
この連辞は表意的総体として分節され構成されることが可能となる」(マラン1986:13)と 述べている。その上で、絵画を物語画と非物語画という二つに大別し、前者では物語という メタ言語的・共示的文脈によって形象は分節化され、後者では命名可能な可視的事物とその 分布に応じた異なる情報密度の領域によって絵画の形象的連辞が構成されるという。形象 を連辞的単位として措定することによって、形象について書かれたテクストのメタ的分析 に留まらず、形象というテクストについて考察することが可能になり、形象のメタ的記述も そこではじめて可能になるのである。
次に範列関係であるが、ある連辞的単位である形象は、記憶の内に連合された潜在的な形 象の系列を呼び起こす。ある形象はそれ以外のさまざまな形象との関係性で意味をなす。こ
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れは絵画というそれ自体は閉じられた系の内部における関係性に留まらず、その絵画以外 のあらゆるテクストとの関係がつねに想起しうる可能性として開かれた状態にあるもので ある。この範列的空間において読解は「間テクスト的」になり、絵画という全体は「形象的 母体」として「形象をもって、ひとつの生成的要素と考える、つまり読解のレベルでひとつ ひとつの形象を生み出されたものにする〈象徴的形態〉と考えることが可能になる」(マラ ン1986:20—21)のである。
この「象徴」の領域は、ソシュールにおいてはシニフィアンとシニフィエの「自然」な結 びつき、「動機づけ」を含むものとして恣意性の原理に基づき記号モデルから排して考えら れてきたものである。美術のような視覚的記号系においては、しかしこの領域を無視するこ とができない。マランは構造主義的見解を肯定的にとらえながらも、それに齟齬をきたす領 域を融和させようと試みているのである。
以上の考察を踏まえると、絵画の連辞的単位は、イェルムスレウのいう直接指示記号と間 接指示記号という階層構造をもつということがいえる。例えば、絵のなかの「雲」は直接指 示記号としては自然的な「雲」を指示しているが、間接指示記号としてコード化されたさま ざまな象徴体系を含意したものとして顕示する。絵画は指示作用の階層的構造化として、か つ一つの全体を構成する、形象の織物なのであり、読解とは絶えず再構築される力動的な体 系なのである。
形と生成の概念
以上にマランは絵画における第一分節に相当する単位を考えてきたといえる。つまり、絵 画のなかで分節可能な形象は記号素として考えられており、それでは絵画において第二次 分節に相当するものは何かということが問題になる。これは単純化して考えれば、絵画的空 間の三つの次元48におけるある位置をいうことができると考えられるが、画面においてあら ゆる要素が価値および意味をもつ以上、画面上で単独で意味作用をしない要素を考えるこ とはできない49。マランもこのような観点に基づき、絵画の構成要素はすでに何らかの意味 をもっている単位で構成されているという見解を示し、その意味作用をする辞項間の「意味 論的軸」というグレマスの概念を援用して考察している。そして、マランによれば、このよ うな形象的意味論を試みた代表としてクレーが挙げられるという。
クレーは『造形思考』において線、色彩、価値などのさまざまな造形的な意味や「運動」
について考察し、「わたしたちの求めるのは、フォルムではなく機能である」(クレー2016
上:135)と述べているが、これは「ラングは形式であって実質ではない」(ソシュール2016:
171)と述べたソシュールに対する原理的な批判とも読むことができる。この双方を冒頭に 述べた語に関連させていえば、前者が「表現主義」、後者が「形式主義」な態度ということ
48 画面を座標系とみたときの位置を示す「図学的空間」、色の三属性であらわされる「色彩学的空間」、 画面を立体物ととらえたときにその量を定義する「物質的空間」という三つの次元のこと。
49 バルトのいう「プンクトゥム」はこの理由から生じるといえる。