第二章 美術制作における記号と実在
2 記号としての絵画
フッサールの像理論
ここで、視覚的記号系としての絵画に目を向けてみる。絵画はその際どのようにわたした ちに現われてくるだろうか。すると、第一にそこには支持体や各種絵具などのモノとしての 素材が、フッサールのいうような「像物体(像基体)」として存在し、第二にそれらが構造 化した像である「像客体」という相があり、第三に像客体が主題として表象する「像主題(像 主体)」が現れるという三つの相が見出される(小熊・清塚2015:6)。具体的にわたしたち に知覚されるのは、前者二つの像であり、像主題は「不在の現前化」である。金田によれば、
この第二の像の位相を知覚の対象として、その固有性を承認したところにフッサールの独 自性があるという(金田1984:29)。
三つの像の現われ方はそれぞれ異なっている。まず、像物体と像客体の関係に目を向けて みる。像物体とは絵画において支持体や絵具を指している。平面上に塗られた絵具は、それ 自体では単なるモノであり、その時点では絵画であることすら不明確である。しかし、その 絵具の配列がわたしたちに知覚され、そこに絵具それ自体とは異なる何らかの像を結んだ とき、その知覚は像客体の位相のものである。これは像の「ゲシュタルト」というべきもの であり、像の構成要素とは区別される24。
一方、像客体と像主題の関係はどうだろうか。像主題とは、像客体が表象する主題あるい は、対象そのものを指す。例えば、絵画である《モナリザ》を見て主題としての「モナリザ」
がそこに見られるといった際の後者である。これは写真の場合より直接的になるが、「《モナ リザ》の写真」を見て《モナリザ》が見られるといった場合は《モナリザ》が像主題である だろう。ここに示した例からわかるように、像主題は像客体とは独立に存在するものであり ながら像客体なしには存在しえないものである。また、「《モナリザ》の写真」を見る場合、
そこから主題としての「モナリザ」を見ることも普通に行われるように、像主題は解釈者が どこに重みづけをして見ているか、全体としての記号系の中でどのような価値を与えてい るかに依存して可変的である。ここには、像客体としての《モナリザ》を見て、それを「《モ ナリザ》である」とみなすような分節化能力も介在してくるのであり、ここには直接的な知 覚より高次な判断や思考が介在してくる。
絵画の素材や形式、意味、それらの記号としての使用過程は、「渾然一体となることがま
まある」(田中2017:55)というように、絵画はそれと一体化した主題と解釈を表象すると
24 ここで注目するべきなのは、像客体の現われ方が、わたしがそれを見るという主体の能動的なはたらき によってではなく、そのように「見える」というあり方から立ち現れてくることである。像客体というこ とば自体、主体と客体という対立構造の前提を感じさせるが、ここで像の知覚は、意識的に生じるのでは なく、自然発生的に生じてくるのである。しかし、それはまったく受動的に立ち現れるのでもない。なぜ ならば、絵がわたしたちに能動的にはたらきかけてわたしたちを知覚させるということはないのであっ て、絵とは見る者のまなざしによって絵になるのだからである。フィンクはそのような像客体の現われを 考察するためには「中動的作用」に目を向ける必要があると述べているが(金田1984:30)、絵画を含め た画像に顕著な、視覚的記号系のこうした性格は、理性による思考以前の、前人格的な知覚の領域に常に わたしたちを引き戻す作用をもっている。
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される。それは、絵画の「モノ」としての側面と、「イメージ」としての側面の両者を分断 できないことに起因する。すなわち、フッサールのいう上記三つの像が一体化して記号とし ての絵画を形成しているからである。ランシエールが述べている表象的体制の破壊による 美学的体制への移行とは、ある絵画からコード化された像主題へと絵画の解釈を止揚して いくという共同体の体制の崩壊に伴い、体制自体を揺さぶること自体が主題となるような、
芸術の価値体系の変容である。平面性への志向は、像物体を主題化することであり、表現主 義とは、像主題の非現前性および制作者と絵画のつながりの内的必然性の主題化なのであ る。絵画はどの像に焦点を合わせようとも、つねにすべての相が構造化された記号だという ことができる。
像と言語記号
以上にフッサールの像理論を参照し、絵画の現象作用について考えたが、ここで、それを ソシュール記号論と比較してみよう。ソシュールにおいて記号は聴覚映像(シニフィアン)
と概念(シニフィエ)の結合体として定義される。この結合は恣意性の原理に基づくが、あ る共同体内でコード化されているものである。一見矛盾するこの両義性は、諸記号が全体論 的な価値体系における差異によってしか存在しえないということを示している。価値を決 定するためには集団性が必要であり、個人だけではなんらの価値を決定することもできな い。記号はその要素としての記号の価値が系全体に関わるとき、「構造的」であるという。
記号がシニフィアンとシニフィエの結合体として存在するというあり方は、フッサール の像理論において三つの像が結合していることと類似した関係にあるといえるが、同時に 差異も認められる。まず、ソシュールの記号モデルは二元論であり、フッサールでは三元論 となっている。次に、ソシュールにおいてシニフィアンとシニフィエの結合は恣意的なもの であるが、像理論においてそれらの結合は恣意的とみなせるのかは定かではない。さらに、
言語記号においてシニフィアンは聴覚映像であるように線的なものであるが、像において は空間的なものである。これらについて、ここでそれぞれ考察していく。
二元性と三元性
まず、記号モデルにおける二元性と三元性であるが、この対比で代表的なのは、ソシュー ルとパースのものである。ソシュールにおいては前述したようにシニフィアンとシニフィ エという構成要素によって記号が成り立っていた。一方、パースにおいては、表意体、解釈 項、対象25という三つの構成要素で記号が成り立っている。まずソシュールとパースの比較
25 本論文では対象(object)という語がおおよそ三通りの仕方で表れる。第一に、広義に用いられる一般 語としてのそれであり、認識や意志などの意識作用が向けられる物的、心的、実在的、観念的当のもの、
および記号によって表されるものを表す。この場合の語の意味は文脈によって主体との関係で客体と言い 換えられる場合がある。第二に、パースの三元論の一要素としての対象である。これはパースの理論と関 連した個所でのみ基本的に用いるが、その意味を議論の中で敷衍したのちに第一の意味で用いている対象 概念の理解における意味の深まりとして背景的に念頭に置かれている。第三に、第六章で言及するグレア ム・ハーマンのオブジェクト指向存在論におけるオブジェクトがある。この意味でのobjectはハーマン固
45 から入り、その上で像の性格を考えたい。
ソシュールの二元論は先に触れたので、ここでは、パースの三元論について述べる。パー スによれば、表意体がそれの等価あるいは発展した記号である解釈項をつくり出し、それが 対象へ至るという三項関係で記号が成立している。パースのいう記号作用とは「記号、記号 の対象および記号の解釈項という三個の主体の協働であるかあるいはそのような協働を含 む作用ないし影響」のことであり、「このような三項関係的な影響はどうしても対の間の作 用に分解できない」ものなのである(パース1986二巻:141)。ここで問題になるのは、二 元論と三元論の対応関係である。同じ記号について述べたものでありながら、なぜ構成要素 の違いがあるのだろうか。記号について考える際には、この二つの見解を整理する必要が出 てくる。
この対応関係についての見解は、「バビロンの混乱」状態にあるといわれるほど整理がな されていないが(田中2017:35)、その対応関係について一致した見解が得られるのは、シ ニフィアンと表意体の対応である。よって、シニフィエがパースの解釈項および対象とどの ように関係するかについて考察すればよい。そのことをふまえ、それらの対応関係を整理し ようとした代表例としてエーコのものがある。エーコによれば、シニフィエと解釈項が対応 するという(エーコ2013Ⅰ:122)。つづけて、「ソシュールの言語学の中では対象としての もの、 、は考慮に入れられない」と述べているように、ソシュールの記号モデルからは対象が排 除されているという考えを述べている。
ここで、「対象としてのもの」という言い方がなされていることに注目したい。この「も の」とは実世界対象を指すと考えられる。しかし、パースの記号モデルに含まれる対象とは 概念的なものであり、実世界対象は基本的に含まれない。このことは、パースが対象を記号 によって表意される心的なものである「直接対象」と、記号の表現に寄与する現実の実在で ある「力動的対象」とに分け、前者を記号が指示するものと述べていることから明らかにな る(パース1986二巻:135)。よって、パースの記号モデルからも対象としての「もの」は 排除されているのであり、その観点で比較することはできない。
するとここで、概念であるソシュールのシニフィエとパースの直接対象が対応するので はないかという考えが出てくる。その際問題になるのは解釈項がどのようなはたらきをす るのかということである。パースの解釈項は人間の思考である記号過程において重要な役 割を果たす。パースによれば、表意体は解釈項を呼び、それは別の記号なので、その表意体 がまた別の解釈項を呼び、というように無限に記号過程が連鎖する。この解釈項は、記号の
「解釈」ともいわれるが、するとこの解釈はソシュールのモデルのどこにあるのだろうか。
ソシュールの記号モデル内に解釈項に相当するものがあるかは定かでないが、記号過程 における差異の概念にそれが見出される。先述したように、ソシュールにおいて記号は全体 論的な価値の中でそれ以外の記号との関係性において意味が定まるものとされている。「ラ ングにおいては差異しか存在しない」(ソシュール2016:168)ということが示しているの 有の意味が強いため「オブジェクト」と片仮名表記する。