第六章 新しい実在論と美術教育
1 カントの批判哲学
まず、カントの批判哲学について論じることからはじめたい。ここでカントの哲学全般 に詳細な検討を加えることはできないが、その骨子をとらえたい。
そもそも批判とはどのようなものなのだろうか。なぜそのようなことをする必要がある のか。カントによれば、理性への批判を行わずに理性を使用することは「独断的」である といわれる。これは、デカルトやロックなどの先行する哲学、自然科学の方法を意識して いわれることであるが、理性それ自体のはたらき方や理性はどのようなものか、と問うこ とをしないでその使用に邁進しようとする態度一般に対して、理性およびそれに関係する 諸能力それ自体についての限界を知ろうとすることが批判である65。
「純粋理性の事柄に関する第一歩は独断的なもの〈独断論〉であり、これは純粋理性のいわ ば少年時代とも言うべきものである。またいま述べた第二歩は懐疑的なもの〈懐疑論〉であ り、経験によって鋭利になった判断力の慎重さを証示している。しかしそれでもまだ足りな いのであって、大三歩が必要になる。そしてこの大三歩は、成年の成熟した判断力にのみ与
65 それゆえ、グリーンバーグはモダニストの媒体の形式への純化、自らの限界への純化という自己批判を カント的なものとみなす。「私はカントを最初の真のモダニストだと考えているのである。」(グリーンバ
ーグ2005:62)ブリオーの関係性の美学は、こうしたメディウム主義への抵抗ともいうことができる
が、関係概念はカントにおける物自体の否定からなる根本的相関主義に通ずると考えるならば、ブリオー もまたカント的なパラダイムにいると考えられるのではないだろうか。しかし、「わたしたちは態度や受 け止め方が形となることを知っており、形が社交性のモデルを引き起こすことを今や悟るべきだ」
(Bourriaud2002:58)と述べているように、ブリオーは関係自体を実在の形として考えている。そし て、モダニズムにおける形もすでにそれは表象である限りでの形ではもはやなく、実在するモノを含むよ うな形式的反省であった。そうした形の理解の上で、ブリオーは関係性の概念を人間関係のみならず、モ ノの関係性及び自然へとその範囲を拡大しようとする。これは美術がモノと関わるうえで前提となってい る考え方ではないのだろうか。そのモノに対して触れ得ないという考え方自体が、美術においては自然科 学に比べてそもそも自明とはされていないのではないか。芸術があるフィクションであるということを踏 まえたうえで、「形をつくる」という視点をそこに加える必要性もあるのではないか。
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えられる確実な格率〈主観的原理〉―換言すれば、その普遍性に関して実証された格率を根 底としている。」(カント1962下:59)
カントの三批判書といわれているものは、理性の体系のための「予備学」として生じて きたものである。批判はその性格上精神の高階の機能であり、対象に関する認識ではな く、われわれが一般に対象を認識する仕方―それがアプリオリに可能である限り―に関す る認識であり、そうした認識は「先験的」(超越的)なものであるとされる。アプリオリ な対象の認識一般を可能にする条件を確定させること、これがカントの『純粋理性批判』
の意図するところであった(カント1962上:79)。
『純粋理性批判』はほかの批判に先立って、まず「理性が一切の経験にかかわりなく達 得しようとするあらゆる認識に関して、理性能力一般を批判」することを目指した(同 上:16)。独断的形而上学に陥らずに、認識するためにはどうするか。独断論において は、認識がすべて実在の対象に従って規定されていなければならないと考えていた。すな わち経験が、経験のみが認識を生むという経験論、あるいは自然科学的形而上学の立場で ある。この立場に立つと、対象に対してアプリオリに認識を、言い換えると経験を可能に することができない。そこでカントは、対象に認識が従うのではなく、認識が対象を規定 するというように転回したのである。「コペルニクスは、すべての天体が観察者の周囲を 運行するというふうに想定すると、天体の運動の説明がなかなかうまく運ばなかったの で、今度は天体を静止させ、その周囲を観察者に廻らせたらもっとうまくいきはしないか と思って、このことを試みたのである」(同上:33)というように、カントはそれをコペ ルニクス転回に比して述べているが、ここから引き出されるいくつかの結論が、カント哲 学の構成主義あるいは相対主義的な立場を決定づけている。
まず、対象それ自体としての「物自体」と主体の認識を切り離すことで、主体が認識す るのは、主体にとって現象する表象および概念にほかならず、主体は物自体を認識するこ とはできないとしたことである。経験を認識の一形態として「カテゴリー」によって規定 されるものとみなすことによって、カテゴリーおよび概念を担当する能力である純粋理性 すなわち悟性が、認識一般を先験的に統一すると考えられたのである。
ここにおいて、認識論における「内―外」という構図が明快に打ち出された。そして
「外」は絶対的に認識できないもの、しかしながら「内」に対して感官を通じて直観を提 供し、表象という現象を基にしてそれらを統合して認識に至るという図式が成り立ったの である。それゆえカントの立場においては表象が認識における要素となる。そして、カン トにおいて表象を処理するためには、認識を可能にする諸能力の置換システムが働いてい る。そのシステムを示したものが三批判にほかならない。
117 諸能力の理説―ドゥルーズのカント読解
ここで、三批判を一体となったシステムとして解するドゥルーズの読解を参照にして、
さらに考察してみる。カントにおける諸能力は、表象との関係から整理することができ る。「いかなる表象も、何か別のもの、すなわち客体や主体といったものとの関係にあ る。われわれはこの関係の種類だけ、精神の諸能力を区別する」(ドゥルーズ2008:14)
といわれるように、第一の意味において諸能力は、表象と主体―客体との関係において以 下の三つに整理される。第一に、一致ないし適合という観点からの表象と対象の関係づけ が「認識の能力」を定義する。第二に、表象はその対象との因果関係に入ることができ る。すなわち、「自ら立てた表象によって、それらの表象の対象を実現する原因となるこ とができる能力」、これが「欲求の能力」である。最後に、表象は主体と関係している が、その場合主体を触発してその生命力を強化したり阻害するような限りにおいて、
「快・不快の感情」が定義される。
次に第二の意味において諸能力は表象の源泉に関係づけられて、表象の種類に応じて三 つに分けられる。第一に直観の源泉としての感性、概念の源泉としての悟性、理念の源泉 としての理性である。表象とは呈示された多様なものの総合であり、この意味では直観は 表象ではない。総合を行うのは「構想力」である。よって、表象の源泉に基づく区別に は、感性ではなく構想力があてられなければならない。以上から、感性という一つの受動 能力と、構想力、悟性、理性という三つの能動的能力が得られることになる。そして、
「語の第一の意味での能力(認識能力、欲求能力、快・不快の感情)には、語の第二の意 味での諸能力(構想力、悟性、理性)の関係の一つが対応しなければならない」(ドゥル
ーズ2008:28)といわれるように、諸能力の関係性は、カントによって超越論的方法論
を構成するネットワークを形成する。
『純粋理性批判』においては、認識の問題が、感性及び構想力によって統一的な表象が 生成され、それを概念で規定する悟性の共同として語られ、『実践理性批判』では、欲求 の問題が理性を主導として、悟性および構想力に働きかけ、自由に基づく実践的関心のも とに物自体に対して立法行為を行うことが示される。ここで問題となるのは、どのように して諸能力が一致して共同することができるのか、ということである。カントの独創性 は、諸能力の根本的不一致を定義したことにある。しかしながら、例えば構想力が感性か ら総合によって表象をつくり出すこと、およびそこに悟性がカテゴリーによって概念を割 り当てることのメカニズムそれ自体はあいまいにされている。超越論的な諸能力の行使の 次元は、最初の二つの批判においては、ドゥルーズによれば「共通感覚」という経験論的 な色を帯びた調和によって言い表す以外に解決できておらず、「ただそれを指摘し、究極 の課題であるかのようにわれわれをこの問題に差し向けることしかできていない」(ドゥ
ルーズ2008:のである。ドゥルーズはこの共通感覚の生成の問題、一致の基礎の問題が提
起されうるようになるためには、『判断力批判』を待たなければならないという。その意