第五章 虚焦点としての美術の知性
3 知性概念の変容
以上に言語論的転回以後の哲学的な動向における主要な潮流を概観してきた。以下では そこで想定されていた知というものの定義を踏まえ、美術における知というもののあり方 を探っていきたい。
まず、先に言及した伝統的に知識といわれているものの定義について考えたい。古来より 知識は「正当化された真なる信念」として考えられてきた。先述したエイヤーの定義による と「第一に、知っているといわれる事柄は真である。第二に、それについて確信している。
第三に、確信する権利を有している」、この三点を満たしている場合に限り、何かを知って いるということがいえ、これは「命題的知」に適用されるものである。それ以外の言明化で きない知についてはこのような定義からは捨象されて考察されるのが一般的な認識論の枠
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組みである。ここでは「どうやってやるかの知(know-how)」、「何であるかの知(know-what)」、「どのようであるかの知」、などの知は命題的知によって説明されるか、あるいは
議論から除外して考察されることになる62。
この知識の定義に含まれる「正当化された」あるいは「思うに足る」ということ、加えて、
そのように考えられる「信じる理由がある」という表現について検討することが、知識の哲 学の基本的な方針となる。例えば、真なる信念であってもそれが正当化されない場合がある。
ある事象Pを観測し、その原因がQであるという信念をもったとき、偶然その信念が真で あった、というような場合は真なる信念を持っていたとしてもその理由を説明することが できない。この場合は、信念は正当化されておらず、その信念は知識とは言えない。ではこ の場合、信念を知識といえるような形で正当化するとはどのようなことか。正当化には知識 を形成するには至らないものがある。例えば、リンゴが落ちたという事象に対して引力を想 定したとき、「神様からそうなっているとお告げがあった」という正当化をしても、引力と いうものが知識として認められるわけではない。正当化には、単なる信念を知識に格上げで きるようなものとそうではないものがある。前者が「認識論的な正当化」であり、認識論の 第一の課題としては、この認識論的な正当化の基準を立てるということが挙げられる。
この認識論的な正当化の基準は、真理への接近という目的のもとで正常に機能すること が求められている。そこで、この正当化の基準自体を正当化するような「メタ正当化
(metajustification)」という認識論の第二の課題が挙げられることになる(BonJour1985:
9—14)。このように考えていった場合、正当化の根拠を無限に遡及しなければならないよう
な状況になりかねないことに注意する必要がある。正当化は、在る事象に対しての説明を加 えられるそのほかの知識が前提とされている場合に可能であるが、メタ正当化は正当化す る必要があるのがまさに信念が知識と見なされるために必要な基準であるために、それを 説明するために何らかの知識を使うことが不可能である。なぜなら、そのような知識がそれ 自体すでに正当化基準によって検討されたものだからである。そのため、メタ正当化自体は 意図的に保留して、第一の課題としての正当化について考察することないし、弱い形でのメ タ正当化で十分であるとの考えがある(戸田山2002:20)。
第一の課題としての正当化の段階においても、正当化の基準の遡行的な性格が問題を引 き起こす。これは、ある信念が別の信念によって正当化され、その信念がまた別の信念に、
というように正当化のプロセスが無限に遡行してしまうことによって、正当化が不可能に なってしまうという問題である。遡行をどこかで止めるようなすべての知識の正当化の最
62 なお、命題的知からなる知識の問題は基本的には経験的な知についての問題である。対して、アプリ オリな知というものは、基本的にはトートロジー的な性格をもち、分析的命題に関わるものであるが、こ のような命題は経験的な検証を必要とせず、証明によって意味を確定させる。こうした命題は、論理的な 明証性をつねに担保するが、それを知識と呼べるかどうかは疑問である。なぜなら、三段論法における現 実にはあり得ない推論であっても真と見なされることにみられるような場合が考えられることに加え、分 析的命題の真偽の判定自体がすでに経験的な要素を前提としているものであるからである。よって、アプ リオリな知識についてはより詳細な検討を必要とするにしても、知識の哲学、認識論において問題になる のはまずは経験的知識ということになる。
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終的な源である「基礎的信念」を措定することで、その問題を解消しようとすることは「遡 行問題(regress problem)」と呼ばれ、それを実行しようとする者が「基礎づけ主義者」と 呼ばれている(BonJour1985:17—25)。
ここで、基礎づけ主義者が正当化に用いる基礎的信念の例としては、数学的・論理的信念、
「われ思うゆえにわれあり」というような「今わたしが何かを信じているという信念」、「今 わたしには赤いものが見えている」というような信念などが挙げられる。数学的・論理的信 念は論理的真理(トートロジー)を体現するものであり、不可謬であるが、それが形式的で 無内容なもの(現実との接点がない)ということによって、基礎的信念として役立たないと いう問題があった。
「今わたしが何かを信じているという信念」はデカルトが『省察』において実行した「方 法的懐疑」によって到達した基礎的信念である。これは、わたしがなにかを考えたときにだ けそのつど存在するということを表したものであるが、そこで「わたし」は限りなく無色の 存在であり、それ自体では他の信念を正当化するような信念となりえない。デカルトが「わ たし」という信念からそのほかの信念を正当化することができたのは、「私がきわめて明晰 判明に認識するものはすべて真であるということを、一般的な規則として立てることがで きる」という「明晰判明知の規則」と呼ばれるもののゆえにである(デカルト2006:59)。 デカルトは、疑いえない「わたし」の存在からわたしにとって判明に認知されるものはすべ て真であり疑いえないという結論へと飛躍する。これは、デカルトによれば、神の存在によ って可能になっていた。すなわち、神が存在する、神はわたしが明晰判断に認知するように わたしをつくった、したがってわたしが明晰判明に認知するものはすべて真である、という ことであり、この三つを後ろから循環的にたどっていっても同様の事態が生じる。
ここで、「今わたしには赤いものが見えている」のような信念も可能になる。なぜなら、
その見えているということとそのように信じているということは自らにとって疑いえない ことであるから。デカルトの場合は考えているということと見えているというようなこと が同列で概念的なものとして真として考えられていたが、そうした大まかなとらえ方では なく、知覚や感覚印象からなる原初的な認知状態がより低次のものとして基礎的なものと して析出されて考えられる。それが、「直接的な気づき」や「直観」と呼ばれる認知状態で あり、そこでは「見え」や「聞こえ」のようなものが問題となり、そこで認知される内容は
「センスデータ」と呼ばれた。このセンスデータは論理実証主義などにおいて、あらゆる言 明を基礎づける基礎的な単位として考えられ、それによって誤りのない言語体系をつくり 出そうという試みがなされたものであった。
このセンスデータあるいは直観というものはしばしば「所与」と呼ばれてきた。所与はた んに与えられるものであり、それ以上の正当化を必要としないものとして考えられたので ある。例えば、今目の前にある絵画があり、その色が赤く見えるといった場合、その見え自 体は疑いえないものとして措定しなければ、そこからより高次の思考や判断は可能となら ないと考えられたのである。このような所与は、信念を基礎づけるようなものでありながら、
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それ自体では信念未満のものである。しかし、ここで、それが正当化されている、すなわち、
今見えている絵画が赤であって青でないということが正当化されるためには、それが赤で あるか青であるかという正当化の判断基準が前提されていなければならない。このように 考えた場合、センスデータによる推論の正当化は、センスデータ自体にすでに遡行的な要素 が考えられることからそれ自体での正当化について疑問が出てくるのである。
この所与についてセラーズは、それを「所与の神話」であるとして批判したのであった。
セラーズによれば、感覚印象それ自体では未だに認識論的な価値は持ちえない。認識論にお いて基礎づけに用いられる所与は、感覚印象に命題的内容をもつ知識を非推論的に混ぜ込 んで得られたすでに概念的なものであり、それは言語によって規定され、したがって真偽が 判定できるようなものであり、それ自体では正当化されない(セラーズ2006)。
以上にみてきたように、基礎的信念というものを求める試みはその多くが失敗してきた。
ここまで示してきた基礎づけ主義のアプローチは、「内在的」なアプローチといわれる。す なわち、人間の内的な要因に基礎的な信念を求めようとするやり方である。これに対しては、
「外在的」なアプローチというものがある。
外在的アプローチの代表的なものがクワインが先導した「自然化された認識論」である。
この立場によれば、認識論的な基礎づけは、自然科学的研究、特に心理学などに依拠する経 験科学にとって代わられることになる(Quine1969(1988))。そこでは、生物学、脳科学や 精神科学、計算機科学等によって人間の認知を基礎づけようという試みがなされることに なり、またそういった基礎づけはプラグマティックなものとして想定されており、科学の全 体が更新されるにしたがって、知識や認識を規定するものも変容していくことになる。
セラーズやクワインによる認識論、特にその経験論的な部分に批判が加えられるのと同 時期に、ゲティアによって「正当化された真なる信念は知識だろうか」という論文が書かれ、
認識論に対して大きな影響を与えた(Gettier1963(1996))。そこで提起された問題は端的 にいえば、「正当化された真なる信念」という知識の古典的定義には反例があるというもの で、このことから引き起こされる一連の問題は「ゲティア問題」と呼ばれている。
ゲティアは二つの反例を出しているが、ここではその一つを簡単に見ておこう。ある就職 先にスミスとジョーンズの二人が応募している。スミスは(a)「採用されるのはジョーンズ であり、かつジョーンズのポケットには10枚の硬貨が入っている」という命題を真だと考 える理由をもっている。それはスミスがその会社の社長が「採用されるのはジョーンズだ」
と断言し、さらに先ほどジョーンズのポケットに入っている硬貨を数えたからである。そこ からスミスは(b)「そこに採用される男はポケットに10枚の硬貨を入れている」という信 念をもった。ここでスミスは、そのことを真だと信じる点で正当化されている。しかしさら に、スミスは気づかないことだが、採用されるのはジョーンズではなくスミスであり、さら にこれもスミスは気づいていないのだが、スミスのポケットにも10枚の硬貨が入っていた。
このとき、スミスの信念(b)は真でありかつ正当化されており、スミスは採用される男の ポケットには硬貨が 10 枚入っていることを知っていたことになる。しかし、この場合は、