第三章 記号と記号の外部
3 解釈の位置づけ
以上に構造主義の立場から美術を考察する視角についてみてきた。それによれば、構造と いう枠組みをよりどころとしつつも、その外部の領域へと超出するためには詩的な論理が 必要になり、しばしば芸術がその触媒とみなされること、美術などの視覚的記号を考察する ためにはそもそも言語との類比だけで考えるには不十分な点があることが見出された。
それでは、一方のパースを起源とする記号論の系譜については美術の関連でどのような ことがいえるのだろうか。このことを考えることは、パースの影響下にあるデューイの「質」
概念の理解を深めることにもつながる。さらに、ソシュール的な枠組みで窮屈だった「外界」
をどのように扱いうるのかについて何らかの示唆があるかもしれない。
ここまでみてきたソシュールの理論は、シニフィアンとシニフィエを記号の構成要素と する二元論であった。これは言語記号の特徴から導き出されたもので、この二面が一体化し ているというところからすべての差異と価値について考えられている。一方、パースの記号 モデルは三元論であり、構成要素として表意体、解釈項、対象をもっている54。二元論と三 元論の対応関係は整理されていないのが現状だが、第二章でみたように、それぞれは互換可 能であるということが示されている。それによれば、シニフィアンと表意体が、解釈項とソ シュールにおける価値体系が対応する。さらに対象を記号に外的な実在である「力動的対象」
と心的なものである「直接対象」に分けた際の後者がシニフィエに対応すると考えられる。
ここで示されているのは、二元論と三元論の双方で対象としてのモノは考えられていない ということであった。さらに、ここまでみてきたように、シニフィアンとしてのモノもイェ ルムスレウ的な形式主義においては扱うことができない記号外的なものであった。マラン やクレーの理論は、非言語的記号系を記号的に扱うこと、あるいはそのような言語中心主義 ではうまく説明できない領域についての考察であった。これは構造主義的な構造の外部を 志向するクリステヴァが精神分析の知見を参照して言語の生成に着目したことと関連して、
ソシュール的な構造の限界を示すものでもあった。
しかし、パースにおいては記号に対してより包括的な扱いがなされていると思われる。パ ースにおける記号現象とは、「記号、記号の対象および記号の解釈項という三個の主体の協 働を含む作用ないし影響」のことであり、「このような三項関係的な影響はどうしても対の 間の作用に分解できない」ものである(パース1986二巻:141)。ここで明らかなことは、
パースのいう記号現象の要因は人間的な要因に限らず、抽象的な三つの記号論的存在であ るということであり、それらの関係は具体的なコミュニケーション行動に影響されないも のである。「記号あるいは表意体とは、ある人にとってある観点もしくはある能力において 何かの代わりをするもの」(パース 1986二巻:2)ということは、「代わりをする」という 関係が解釈項によって媒介されていることで成り立つ。この解釈項は解釈者と同値ではな
54表意体、解釈項、対象という三項関係からはそれぞれ三つの研究領域が導かれる。表意体と対象の間の 諸関係を研究するものは「意味論」、表意体と解釈項(解釈者)の関係を考察するものを「語用論」、記号 どうしの形式的な関係を考察するものが「構文論」である。
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く、人間中心でない形で解釈することが可能で、それによれば記号の定義の一端として、意 図的に発せられ、人工的に作り出されるという性質は必要でなくなるのである55。
もちろん、ソシュール的な二元的構図自体が三元的な構図と互換性があるのであれば、ソ シュール的な構図を改善して用いることも可能であるが、イェルムスレウやバルトらの見 解におけるメタ言語の位置づけは、シニフィアンの先行性という性質を鑑みたうえでもな お言語中心主義的であり、全体論的価値という概念が言説からなる空間に偏ってしまう傾 向があった。先行するシニフィアンが多義的なモノであっても可能であるような場合、ある いは美的記号のようなものである場合のことを考えると、そこで生成される意味や価値は 必ずしも言説的なものとは限らない。そのような非言語的記号に対応するあいまいな意味 とその作用を説明するにあたっては、記号作用を意図的な伝達に求めるのでは不十分であ り、美的記号のコミュニケーションというものはいわゆる質料―形相的な構図で説明され るようなものではないと考えられるのである。あるものが記号であるという場合には、それ を受け取る何かにとって記号である必要があるが、それを受け取るのは人間であるとは限 らない。これはあくまで文化的事象である芸術や美術においては、そこに人間という要素を 欠くことができないということがありつつも、人間といういわば「もの」化した存在から再 び「モノ」化していくような作用自体が認めうる非言語的記号の在り方においては、主体、
モチーフ、作品というような構成要素が非人間的な関係性を「質」として保有しつつ、それ 自体として再帰的な全体性としての意味をその都度生成しているような流動的な意味の場 を形成しているように思われる。その意味では、美術および美術教育は、完全に論理的に記 号化された体系においてではなく、かといって完全に知りえないモノ化しているのでもな い、半―記号、半―モノ(半―自然)という記号と自然の中間領域において行われる固有の 経験ではないかと考えられるのである。
そのような美術の特異性は、それゆえ単純に記号とそれを名指してよいのか明らかでは ない。本論文ではそれをあえて記号と呼んでいるが、それは言語中心主義的に美術を語りう ると主張しているのではなく、記号概念自体をそのような広範囲に拡張する必要があるの ではないかという考えと、美術をあくまで人間的な事象であるということは踏まえたうえ で、人間における文化的な単位として扱うために存在論的な位置づけを美術に与えるにあ たっては、やはり記号として考えることが適しているのではないかと考えるためである。そ のような見解を補強するものとして以下にエーコの記号論を参照する。第二章で定義した リアリズムのシステムにおいては、それが実在と関わりつつも虚構的な対象を扱うもので あるという見解からフィクションの擁護ないしフィクション的リアリズムのような立場を 間接的に示していた。このような虚構的存在を許容し、それの教育的意義について考えるこ と、しかし実在的な要素を失わないことを目指すためには、文化的単位としての記号という 立場をまず抑える必要があるからである。
55 「パース的な三項関係は、発信者が人間でないような場合の現象に対しても適用できる。ただし、受 信者として人間がいる場合での話である。」(エーコ2013Ⅰ:43)
72 コミュニケーションとコード
文化的な単位としての記号という立場からパースの記号論を積極的に応用したのがエー コである。「私は記号というものを、すでに成立している社会的慣習に基づいて何か他のも のの代わりをすると解しうるすべてのものと定義することを提案したい。」(エーコ2013Ⅰ:
44)この考え方は、エーコによればパースの理論を展開させて考えたモリスの見解を受け入 れるということである。モリスによれば、「何かが記号であるのは、それが或る解釈者によ って何かの記号として解釈されるからである。何かを考慮することが解釈項であるのは、そ うすることが記号として機能する何かによって引き起こされるかぎりにおいてである。」
「そういうわけで、記号学というものは、ある特殊な種類のものの研究ではなくて、普通の ものを扱うが、ただし、記号過程に参加する限りで(しかもそのかぎりにおいてのみ)それ らを研究する。」(モリス1988:8—9)このように定義することではじめて、言語外の事象ま で文化的単位としての記号として解することが可能になるのである。
エーコはこのような見解をふまえ、記号論はすべての文化的過程をコミュニケーション の過程として研究するものであるという。ここでコミュニケーションとは信号(信号に限ら ない)が発信点から(発信装置を通り、ある経路を経て)着信点へと移行することである。
コミュニケーション過程が機械から機械へという場合には、意味作用は存在しないが情報 の移行ということだけは存在している。着信点が人間、「受信者」である場合は意味作用が 認められ、信号は単に刺激であるだけでなく受信者に解釈するという反応を引き起こすこ とが条件である。先に記号現象は広義に解釈すれば非人間的な存在にまで拡張可能であり、
美的記号においては人間でさえモノ化しうると述べたが、それが芸術や美的記号というも のによって引き起こされた場合、それは完全に自然化されたものということはできず、やは り文化的な事象であることは前提とされていると考えられる。そのため、そうした記号過程 においてなされる記号過程には人間による解釈というものが避けられない形で組み込まれ ているのであり、美術制作や美術鑑賞においても人間の存在抜きでそれらが成立するとは 考え難いことをみても、記号過程における解釈は重要な過程である。
この過程を可能にするのが「コード」の存在である。コードは現にそこに存在するもの(表 意体)を不在の単位(対象ないし解釈項)と結びつける、その限りにおいてそれは意味作用 の体系である。「メッセージ」とは着信点に入る情報のことである。
このコードとはいったい何なのか。エーコはこれを四つの異なった現象から説明してい る。(a)統辞体系、(b)意味体系、(c)着信点での一連の行動的反応、(d)体系(a)に属する項と 体系(b)ないし(c)に属する項を組み合わせる規則(エーコ2013Ⅰ:82—83)。エーコによれば この最後のものだけが正当にコードと呼びうるものであるという。それ以外の三つは s コ ード(体系systemとしてのコード)として区別される。sコードは構造主義で言うところ の構造であり、それが考察の対象となるのはコミュニケーションの枠組み(コード)に挿入 された場合だけである。