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言語論的転回

ドキュメント内 美術教育における記号と実在 (ページ 100-105)

第五章 虚焦点としての美術の知性

2 言語論的転回

20 世紀の哲学は、それまでの意識を対象とした反省哲学から、言語を主題とする哲学へ と移行したといわれている。意識や観念を表す媒体でしかなかった言語が、意識や思考それ 自体の可能性の条件としてとらえなおされるようになったのである。こうした変化は一般 に「言語論的転回」と呼ばれている。そこで哲学は、哲学的問題とされているものを言語の 再定式化および、すでに使われている言語に対する分析的思考から明らかにしようとする。

これは論理実証主義に代表される哲学的立場を生み、数学基礎論における形式主義や記 号論理学を自覚的に哲学に取り入れることを行った。これは、「数学の基礎づけ」運動にお

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いて、論理学と集合論に数学を還元できないかという模索が行われていたことが、哲学分野 においても、その認識論的基礎づけを形式言語によってできるのではないかと考えられた ことによるものである61

知を何らかの形で基礎づけようとすることは、古来より認識論として形而上学と合わせ て哲学の中心問題であった。知識に対する古典的な定義というものは、伝統的に「正当化さ れた真なる信念」というものである。あることについて知っているといえるための必要十分 条件について、エイヤーが次のように定義している。「第一に、知っているといわれる事柄 は真である。第二に、それについて確信している。第三に、確信する権利を有している」(エ イヤー1981:47-48)。この三点を満たしている場合に限り、何かを知っているということ がいえるのだが、これは「命題的知」に適用されるものである。例えば、XはYであること を知っている、という言明の形で表現できるもののみがこの定義では説明できる。それ以外 の言明化できない知についてはこのような定義からは捨象されて考察されるのが一般的な 認識論の枠組みであり、論理実証主義もこの前提から出発する。

命題的な知とは、基本的には経験から得られるものである。しかし、それによらないアプ リオリな知というものもあると考えられてきた。これはカントが『純粋理性批判』で論じた ものだが、経験に先立ち、経験を可能にする条件を構成するものとされていた。アプリオリ な知は、命題のレベルで考えた場合、経験によらずとも意味によって真であると認められる ものの場合をいい、こうした言明が「分析的」なものであるといわれる。一方、経験による 知識をもとに形成される言明は「総合的」なものといわれる。

論理実証主義はこれらの言明が有意味であるかどうかという判定を行う際に「意味の検 証理論」という考え方を適用した。すなわち、その文が有意味であるかどうかということを、

その文が述べていることが正しいかどうか検証する手段があるかどうかに求めたのである。

それによれば、分析的言明における、文の論理的構造だけで真偽を判定可能なものが数学や 論理学の問題として扱われるものとして取り出され、総合的言明は有意味なものとして自 然科学および経験論を支えるものとして認められることになる。それ以外の美学や形而上 学、哲学的思弁というものは、認識論的な価値のない「疑似命題」であるとして哲学的考察 から除外し、混乱を「治療」するべきだといわれたのである。実証主義が目指したのはその ような疑似命題を生み出さないような人工言語を開発することによって言語を改善し、明 晰化するべきだということなのである。

実証主義が依拠する検証理論は、もっとも直接的に検証できる文を基礎的な単位として いる。これは観察文やプロトコル文と呼ばれるが、カルナップによる代表的な説明によると、

これは、「青いものが見える」のような「見え」や「聞こえ」について述べる文のことであ り、言明の内容とされているのが、「青さ」などの「感覚所与」あるいは「センスデータ」

61 論理実証主義に対しての記述は主に以下を参照しながら概要をまとめたものである。(クワイン

1992)(ローティ1993)(戸田山2002)(セラーズ2006)(グッドマン2008:訳者解説)(源河

2017)(渡邊2019)

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と呼ばれるものであった。言い換えれば、論理実証主義は知覚によって得られるごく基本的 な性質(低次性質)についての検証可能性をあらゆる言明の検証可能性の基礎としたことで、

急進的な経験論を主張したのである。しかしこの考え方は「エネルギー」などの直接的に経 験できない理論的文を検証できないという問題をもっていた。そこで、これらの語を含む自 然科学の文を直接検証できる観察文に意味を変えずに翻訳できること(「真理値を変えるこ となき交換可能性」〈クワイン1992:42〉)を示し、観察文が検証可能であるから理論的―

分析的文も検証可能であると主張した。これは「還元主義」と呼ばれるものであり、心に直 接与えられるセンスデータについての文でもって世界全体を説明できるように意味を「翻 訳」できるようにしようと試みたのである。

自然化された認識論

以上のような実証主義の立場を徹底的に批判し、それ以後の分析哲学に大きな影響を与 えたのがクワインである。第四章でも言及した「経験主義の二つのドグマ」(クワイン1992)

においてクワインは、実証主義が前提としている分析的―総合的の区別および還元主義を 経験主義の二つのドグマであるとして批判し、全体論的立場からのプラグマティズムへの 転換を主張した。

この二つのドグマは、「交換可能性」という観点からラディカルに批判される。クワイン は、分析―総合の区別が明確にされうるとしながら、言明が直接的経験による確証に還元さ れうるという還元主義には根拠がなく、また還元は不可能であると主張した。分析的とされ る言明自体を成立させる際にも、その真理性を担保するのは言語的要因と事実的要因の双 方が必要になるのであり、それらが分割可能でかつ一方に還元できるということはないと いうことによってである。クワインによれば、特定の分析的・理論的言明に対して特定の経 験が結びつけられるということはない。ある経験はつねに科学の全体に照らし合わせて有 意性が決定されるのであり、科学はつねにその境界で経験に接しながら形を変え続けると いうものとしてプラグマティックなものなのである。これは分析性に対するクワインの全 体論の主張であり、これ以降分析哲学は方向性の転換を求められた。

クワイン自身が推し進めたものとして重要であり、今日の主流となっているのが、分析哲 学における自然主義である。「自然化された認識論」(Quine:1969〈1988〉)においてクワ インは、「ドグマなき経験主義」を徹底するということが、認識論の自然主義化をもたらす と主張した。クワインは科学の全体が経験によって検証され形成されるという経験論の立 場は保持したうえで、かつて認識論が包摂しようとした自然科学を、認識論を包摂するもの として逆転させたのである。これは、認識論が心理学の一部門として経験科学として研究可 能であるという主張に至り、心的なものとしての知識や言語自体が物理的対象や自然法則 と地続きなものとして研究されるべきであるという見解につながった。自然化された認識 論は物理的な人間という認識主体を自然現象の一部として研究する。こうした動向は、脳・

神経科学および心理学的知見でもって人の心的現象を説明しようという動向に大きな影響

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を与えた。これは美術教育や美学における心的なものの位置づけの問題にも現れるもので あり、代表的なものを挙げるならば、ガードナーの「MI(多重知能)」理論およびそれを芸 術教育において研究したハーバード・プロジェクト・ゼロの動向がそれであり(ガードナー

2001、池内 2014)、それ以前にもリードやローウェンフェルドが芸術教育の基礎づけに心

理学的知見を重用していたことにも見て取れる。美学においては、近年興隆している「神経 系イメージ学」、「神経美学」と呼ばれるものが挙げられる(坂本ほか2019)。ここで一般に 認知論が美術教育において導入される際の基本的な構図が見て取れるが、その際に導入さ れる認知論は自然化されたものである。そのため、知性というものを根拠づけることが経験 科学によって検証可能な対象から求められているのであり、それは今日的な問題でいえば

「プログラミング的思考」をめぐる問題圏として認知科学と教育をめぐる問題に接続する のである。

理由の論理空間と第二の自然

今日の分析哲学においてクワインと並び重要な影響を与えているとされているのがセラ ーズの『経験論と心の哲学』(セラーズ2006)である。クワインが認識論の自然化を唱え、

いわば知識の「外在主義」を想定したのに対し、セラーズは同じく実証主義を批判しながら、

「心理的唯名論」という内在主義的な方向性を提示した。

セラーズは実証主義のセンスデータ理論を攻撃する。センスデータは意識に直接的に与 えられた感覚与件であり、それ自体では命題的ではない。それが知識として認められるため には言語による規範的な要素が積極的に関与しなければならないとして、センスデータ自 体に認識論的な身分がないとされた。彼の「心理的唯名論」によれば、心的なもの、何かに 対する意識はすべて言語を介したものであり、言語の習得に先立つ論理空間の意識は存在 しない。そのため、非推論的な直接的認識はありえないということになる。これは、実証主 義における知覚の問題が、絶対的な「所与」としてあらゆる認知の基盤に据えられたという ことを「所与の神話」であるとして批判したものであり、セラーズはむしろカントにおける

「概念なき直観は盲目である」というテーゼに則り、規範性のある言語を基礎とした「概念 主義」を提唱したのである。

セラーズによれば、われわれは何かを知るという際に、何かに対して経験的な記述を与え ているのではなく、その何かを「理由からなる論理空間」という何かを正当化可能な規範に 訴えることのできる領野に置きいれているのだという。このことは、分析哲学における経験 論的基盤への懐疑を生むことになり、言説間の関係性、社会的連帯という知見から知識をと らえるべきだというローティのような立場へとつながっていく。こうした傾向が示してい るのは、デイヴィドソンがいうように、「信念を保持する理由となりうるのは他の信念だけ だという主張」(デイヴィドソン2007:224)であり、経験は信念を正当化しないとされる ことから、経験論を破棄するという志向性まで生じることになる。こうした見解は、経験主 義を認めるクワインの自然主義との差異があるが、実証主義への批判ということと合わせ

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