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美的なものの自己言及性と美術の形式システムの不可能性

ドキュメント内 美術教育における記号と実在 (ページ 83-86)

第四章 美術の論理

1 美的なものの自己言及性と美術の形式システムの不可能性

美術教育学が科学を語る際にはどのような関わり方が想定されるだろうか。先述したよ うな「美術教育学は科学でありうるか」という問いは一つの方向性として考えられるが、

一方では、美術ないし芸術分野と対比的に用いられる概念として科学を立てて論を展開す ることがある。そのような場合、美術の固有性、本質を定義し、それがいかに科学と違う のかを示したうえで、その意義や意味を主張するという文脈で語られることになる。この ような立場は、「危機に瀕している」とされる学校教育での美術教科の削減傾向やSTEM 教科の振興に対抗するための手段であるという意味合いがある。しかし、そのように科学 との対決による分断を強調してしまうことは、美術教育が周辺化していくことを加速させ ることにつながりかねない。

また、美術制作、美術教育あるいは美術教育学を専門とする制作者・教育者・研究者が

「王道科学」ともいわれる自然科学に通暁していることは稀であり、一般的な知識、自身 の経験から科学概念を形成している場合がほとんどである。そのような立場から、科学と いう漠然とした印象に対して芸術の意義を対比させても有意義な効果は得られず、科学的 であろうとして自然科学の知見を恣意的に立論に応用してしまえば、ソーカルらに批判さ れたようなポストモダンの「知の欺瞞」に陥ることは避けられない(ソーカル、ブリクモ ン2012)。

美術教育学は人文科学に含まれるというのが一般的な分類であるが、その中でも極めて 不安定な領域のものではないか。このことは美術教育学の基礎文献を挙げてみるというこ とが難しいということに現れているだろう。もちろん、リードやピアジェなどの影響力の 大きな文献を挙げてみることはできるにしても、それらの理論がどこまで「基礎的」とい いうるのかについての合意形成や統一的な見解、ないし方法論的な方向付けを見出すのは 難しい。美術・教育を定義することの困難がその根底にはあるといえるが、美術教育学に おいて美術という現象の複雑さとそれに対応する概念の取り扱いの難しさが、論理性や科 学性と相いれないと判断され、「反基礎づけ主義」や文化的相対主義と結びつくことでそ うした基礎づけの困難さは強調されている。

例えば、ここまで度々取り上げてきた「モノ」や「イメージ」という概念を扱うことを 考えてみればその扱いにくさにすぐ困惑することになる。モノが確かに存在すると認める ことは現象学的に「目に見える触れる世界」を取り扱うことなのか、素朴実在論的に概念 と実在を結びつけることになるのか、モノとイメージは別なのかそうでないのか、等々。

ここで分かるように、美術に関する経験的に帰着される概念を、自然な仕方でなく用いよ うとする場合、哲学的な議論の蓄積のもとで形成されてきた意味や構造を避けては通れな いのである。そして、そのような基本的な用語が哲学や人文科学においても周辺に位置す るか、あるいは深淵すぎる概念であることが多い。これは感性的なものを取り扱う哲学領 域が美学として分離されていることに見て取れるが、カント的な分類から分かるように、

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感性的なものは理論的な学とは関係をもちうるとしても区別されたものとして措定されて いるからである。

美術教育学はそのような哲学的文脈に依存しており、美術教育という現象自体を感性的 なものとして理論的学や自然科学と対置するという姿勢自体が批判哲学以降の構造に則っ たものであるとみることもできる。そのような区別を敷衍したところで、美的教育として シラーやリードが提唱したような理性と感性の両者を宙づりにした人間形成の契機が見出 されるのだが、この美的であること、美的なものという美学の基本的概念の未規定性はま た、美術教育の未規定性という認識を強めることになる。美的なものおよび美的教育につ いては後述するが、ある現象が美的であるのはそれが自己目的な存在である場合である、

という美的なものの定義は規定的判断によらない反省的判断からなる美的判断のゆえに生 じる。しかし、この再帰的、循環論的定義によって、自家撞着や定義の不可能性、無限退 行が生じる。美的なものは美的判断によって美的なものである、という命題は空虚なもの でしかない。このことは翻って美的教育は美的人間形成によって生じる、というような自 己言及性を免れない命題に行きつく。純粋な媒体の固有性、固有の意味を求める芸術の意 志は、いつでもアリストテレス的実体の定義の困難という問題に行き着くのである。

美術制作、美術教育、美術教育学を定義する際にその本質を美的なものの存在に求めよ うとする試みはいくつかの問題点を生むことになる。第一に明証性や確定性を受け入れら れないという立場につながる。これは規定的判断を認めないことからくる問題点である。

それによれば、現象に対して意味を割り当てることや、異なる事象間の同一性を認識する ことは困難である。第二に、美術教育は「美術教育」によって成り立つ、とトートロジー 的な定義をするならば、美術教育に対して他の記号体系から考察を加えることが困難にな る。それによれば美術教育は実践がすべてなのであり、そこに言語・概念によって検討を 加える美術教育学は学問であっても美術教育には含めてはならない外部のようになること であろう。第三に、美術教育を美的教育であるとする考えは、美的なものという対象を措 定するという前提条件がすでに規定的判断にさらされている。美的なものが生じるという 対象領域は感性と理性がすでに分断された哲学の基準に従う場合に限られる。第四に、美 的教育が美的であるということを「誰が」判断するのであろうか。美的判断はすべて

「個」によってなされるのであって、つねに自己言及的な構造をもっている。美的教育が 個人の美的人間形成が行われる場で常に生じるというミクロな観点と、美術教育一般ない し美術教育学という広域の概念がどのように両立しうるのだろうか。そして、個による美 的判断の妥当性の認識や、それが美的足り得ているかということ自体の判断はいかにして なされるのだろうか。以上の問題点を鑑みても、美術教育を「純粋な」美的教育として措 定することの困難が見て取れるだろう。

以上にみてきたような美術教育をめぐる困難は、美術・教育の実体を求めようとするこ とから導き出されるものである。それは美術教育と理論的な学問を暗黙の裡に分断した上 で統合する結び目に希望を託すようなものである。そのようなことを回避して、美術教育

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における諸認識を形式的な観点に落とし込むことはできるのだろうか。この観点に立つの はおそらく絵画、彫刻、表現、鑑賞のように専門性を分類したうえで、それぞれの専門領 域において認められる形式的な処理を体系化し、基準を明確にし、それらの習得や応用を 目指すようなプログラムを実行することであろう。こうした試みは、形式的な面での美術 の独自性を追求した際に生じるもう片方の「モダニズム」である。こちらの立場は媒体の 固有性という観点から美術、美術教育を位置づけることになる。そこで問題になるのは、

異なる媒体がもたらす固有の経験であり、それによる固有な知の形成である。ここで注目 すべきなのは、媒体の固有性がもたらす固有の知という際の固有性というのは、美的なも のの固有性にみられるような排他的な固有性ではなく、媒体と知の間に因果関係を認めう る程度に一般化された固有性だということである。例えば、絵画を学べば平面と空間の関 係性を知覚・思考することになったり、色彩に関わる三つの空間を扱ったりという具合 に、媒体ごとに使用する情報を絞り込むことで、それらと制作者の相互関係を予測できる ということである。ここで利用される媒体は、具体的な素材である金属や木材、絵具等で ある場合もあれば、絵画や彫刻ないし「現代美術」という区別、鋳金や木彫、メディアア ートといった使用される技術によって規定される場合などが考えられるように、芸術とい う広義の概念に含まれる様々な集合の階層構造のなかで規定される多様なものになる。こ うしたあらかじめ規定された芸術の枠組みというものを仮定して、その枠内での形式性を 求めようとするということを徹底することがもし可能であれば、美的なものというあいま いな概念を排除することができるかもしれない。それは、論理的、機械的処理によってあ らゆる制作を実行することであり、その目的や価値基準が明確に与えられていて、与えら れた規約によらずには何も作ることができず、つくられた作品が等しく「定理」として認 められるような体系のことである。

このような形式性の要求はバウハウスの構築主義に萌芽的にみられるようなものかもし れないが、美術における形式性には「形式」という概念を容易に用いてよいのかという疑 問が残るであろう。まず、このような形式システムに則った美術は美術といいうるものな のかという問題がある。これは美術ないし芸術の定義に関わる問題であるが、美的なもの と形式システムの区別においては、カントのいう美的技術と機械的技術という区別が代表 的なものであろう。美的技術すなわち芸術は、「天才」のなせるものであり、その基準に 美的判断をもつものである。機械的技術とは「勉強と習得の技術」であって、再現性があ り、ある目的のためにはたらくものである。この区別は芸術と非芸術を分ける境界画定の 基準として用いられるもので、ここから「真正の芸術」に対する「文化産業」のような区 別が生じている。よって、機械的ということと美術・芸術であるということはカント的な 図式によっては両立しえないのであり、美的なもの・美的判断を基準としている体系にお いて機械的美術というのは矛盾した存在にほかならない。美術の形式化はそのような観点 では不可能な企てである。また、美術を形式的に実行するといった場合、与えられた「公 理」とは何だろうか。紙と鉛筆というモノなのか、それとも量や質のようなカテゴリーな

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