第 3 節 企業家活動と業績
4. 缶詰業界活性化活動
4-1. アメリカ同業者との連携強化
関東大震災復興に伴い内地向け缶詰の需要が高まり、ブリキの消費量は増加傾向にあ った。アメリカからのブリキ輸入促進のため、現地調査ならびに生産会社との提携など を目的として、高碕は1924 年に渡米した。前述のユナイテッド・スチール・コーポレ ーションとの提携を実現し、さらにナショナルカンナーアソシエーションを訪問して缶 詰に関する現状と最新の課題、今後の研究予定について調査した。アメリカの組合の書 記長も訪問し、アメリカの組合の実態を聴取するとともに、近く設立予定であった日本 の組合とアメリカの組合との提携に向けて、個人的見解としながら以下を申し入れた。
1.米國缶詰組合の研究事項を日本の組合に必ず報告を乞ふ事
2.之れに對し日本の組合は相當の寄附を米國へ出す事(此報告書を日本文に和譯して 組合員に別つ事及日本にて販賣する事を承認する事)
3.組合の總會には日本よりも出席する故日本の總會には米國よりも出席を乞ふ事 4.日本のカニ其他の罐詰を米國に於て消費すると同様に米國のフルート牛肉等が日本 でも消費さるる故两國の組合は御互の事業保護の意味に於て各自罐詰に關する聯盟を 作る事(注166)
それに対し、アメリカの組合より日本の組合との提携条件を出すことを約束した。高碕 はアメリカの商務省および農務省も訪問した。商務省からは輸入課税軽減を要求された。
農務省では、缶詰の内容物をできるだけラベルに詳細に記載すべきとして、実際の内容 物と記載内容が異なるものを取り締まる方針であることを聞かされた。
高碕はアメリカでの一連の見聞をまとめ、『缶詰時報』上で業界事情を報告している。
最新の効果的な広告手法も紹介し、事業進展のためには学者と商人との連携、あるいは 商人同士の連携が重要であることを例示をもって示した。そして「日本人は個人として は其の道徳に於て決して彼等に劣るのではないが、一朝團體的の事になると甚しく劣つ て來ると思はれる…(中略)…要するに一國家の工業は原料の豊富なるや否や、需要供 給の關係圓滑なるか如何によつて定まるのである。然るに日本は原料に於て豊富ならず 而も大なる需要を起さないと云ふが併し國民の努力と熱力を以てすれば、日本の罐詰業 も理想に近い所まで到達することが出來ると思ふ」(注167)と指摘している。
(注166)『缶詰時報』(第3巻5号、1924、P.29)
(注167)『缶詰時報』(第3巻7号、1924、P.9)
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1930 年には海外のブリキ販売連盟のブリキ価格つり上げへの対処、輸出缶詰の販路 調査のために渡米した。その際、特にアメリカの関税引き上げの問題について調査を行 い、関係者と折衝した。そして大統領に就任していたフーバーと非公式面会を果たし、
日米相互がそれぞれに長けている製品を貿易し合うことが望ましく、その貿易品に高い 関税を課すことは誤りであるとする私見を述べた。フーバーは高碕の意見の正当性を認 めながらも、米国一市民としてはその意見に同調するも大統領として自由に意見を述べ る立場にないことを残念に思うと口にしたという。その後アメリカからフランスへ回り、
缶詰の創始者であるアッペールの墓参に行き、缶詰普及協会の名で寄付を行った。それ を受け『缶詰時報』はアッペール號を特集した。フランス商務官のレイモン・ロアイエ が寄稿し、「アペールの様に人類の幸福に貢献した人の墓に對して高碕氏が最初の外人 としてその墓前に花環を捧げられたといふ事は當主のアペール氏並びにその關係の多 くの名士を非常な感激に導き、罐詰を通じて日沸两國の有力者間に有好親善の雰圍氣が 濃厚になつた事は喜びても餘りあることでありますと共にアペールの靈も瞑するに足 るでありませう」(注168)と記している。
1932 年の渡米は、アメリカの関税委員会が関係者の意向を聴取するに当たり、関税 値上げ反対の動きをするアメリカの関係業者に反対の論拠となる材料を提供すること、
そして関税値上げを推進するアメリカの業者と会合して日米当業者同士の提携を模索 することが大きな目的であった。そのころ、水産物の輸出状況は中国向けが減少する一 方で欧米向けが急増しており、その潮流に乗じて業者間の無統制による価格競争と品質 問題が表出していた。受け入れ側の国々では日本製水産品に対する関税引き上げや輸入 許可および割当制度などにおいて対抗措置を強めており、中には輸入制限や輸入禁止政 策を講ずる国もあった。高碕が問題視していたのは鮪油漬缶詰で、1930 年の輸出高 1
万4,000函に対し、1933年は70万函を記録し、うち96%以上がアメリカ向けであった
(注169)。一連の調査の結果、日本国内で統制の上で輸出している鮭缶詰はアメリカ市場 をかく乱していないという認識で問題視されておらず、統制なく輸出している鮪缶詰は 安価なものが米国市場に出回ることによってアメリカ業者に脅威を与え、関税引き上げ の理由を与えていることが判明した。高碕はアメリカの鮪缶詰業者と面会し、日本から 輸入される缶詰の問題点は輸入量ではなく値段であること、日本の業者が統制の上でア メリカ産のものと協調する販売価格設定で輸出をすれば、問題視するに至らないとの認 識であることを確認した。そして日本の缶詰業者に対して、生産も販売も官民で統制し てアメリカと協調することが必要との表明を行った(注170)。高碕は帰国後政府の援助を 得、鮪缶詰業者の組合設立、輸出量制限、価格維持に努めた。同年、日本鮪類缶詰業水 産組合の組合長、鈴木与平が同じく渡米し、カリフォルニアの缶詰業者との話し合い、
および関税委員会の公聴会に臨んだ。それに際し、先にアメリカの動向を調査し把握し ていた東洋製罐の前澤織衛(注171)が鈴木に事前に情報を伝えて協力した(注172)。また公
(注168)『缶詰時報』(第9巻11号、1930、P.7)
(注169)新水産社(1934b、P.P.22-24)
(注170)『缶詰時報』(第11巻12号、1932、P.P.8-18)
(注171)前澤織衛は1910年に水産講習所製造科を卒業し、東洋製罐で取締役、常務を歴 任
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聴会の後に高碕は関税委員会の副委員長と面会し、鈴木の姿勢および言動に対する評価 を聞いている(注173)。東洋製罐が鮪缶詰輸出問題に缶詰業者と同じ立場に立って対処し ていたこが分かる。
この渡米は、日米業者間関係が最悪の状況になる前に何とか手を打とうとの目的があ った。鈴木は帰朝後に、アメリカの業者は日本との協調を望んでいること、そして日本 の業者は是非とも統制の必要があることを表明している(注174)。また 1933 年8 月、日 本缶詰協会と大日本水産会の主催により官民合同による「對米輸出鮪罐詰官民合同座談 會」が開催された。高碕も鈴木も同席し、アメリカの状況を報告すると同時に統制の必 要性を訴えた(注175)。しかし事態は好転せず、日本産鮪缶詰はアメリカ、特にカリフォ ルニア州の鮪缶詰業者の反発を受け続け、1934年1月に関税は3割から4割5分に引 き上げられた。アメリカ側はさらなる関税引上と日本製輸入品排除に向けて運動を激化 させた。
1934 年 3月、輸出水産物取締法が公布された。主として輸出検査、生産の取締、営 業許可、輸出統制などを規定したもので、輸出水産物のうち主要なものについて「製品 の改善統一を圖り」、「我國輸出水産物の品質を維持向上せしめ又水産資源涵養上遺憾無 きを期しまするが爲」(注176)に制定されたものであった。鮪類油漬缶詰は輸出検査を受 けるべき品種に指定され、製造・加工・処理の営業に際して農林大臣の許可を要し、輸 出統制に必要な施設を命じられることになった。しかし輸出量の急伸に歯止めがかから ず、日本の対応が後手に回ったためか、アメリカ当業者との交渉は決裂に至った(注177)。 鮪缶詰業者は団体的統制に努めたが、一方で油漬缶詰の模倣品として鮪類水煮缶詰がア メリカ油漬缶詰市場に進出する様相を呈し、農林水産省は1934年9月に農林省令第24 号をもって鮪類水煮缶詰について輸出抑制を目的として営利目的の製造を禁止した(注
178)。
鮪缶詰をめぐるこの一連の動きに、当時の缶詰業者の乱立と無統制ぶりを垣間見るこ とができる。この事実は一面、大正~昭和初期における水産業の急激な進展ぶりを如実 に表している。その中にあって、産業の進展と近代化とを同時かつ急速に図らなければ ならなかった当時の水産人の苦労があったのではないかと推察する。
1936 年に高碕はシアトルで同地の缶詰業者と会合し、日米合弁による工船缶詰業の 計画を発表した。日本とアメリカの資本、日本の技術者と労働者をもってアメリカ船で 缶詰を生産する事業計画であったが、シアトルの労働組合の反対にあって着手すること なく終わった。『第参拾九回東洋製罐営業報告書』(昭和 11 年下期)によれば、この年 の高碕の渡米は「アメリカ缶詰業界に多大の衝動を与えたために不測の問題を惹起する ことがあるため」であったとされる。「多大の衝撃」あるいは「不測の問題」が何かは
(注172) 清水食品株式会社社史編集委員(1980、P.40)
(注173)同上(P.P.41-42)
(注174)『缶詰時報』(第12巻1号、1933、P.P.2-17)
(注175)『缶詰時報』(第12巻11号、1933、P.P.2-27)
(注176)新水産社(1934b、P.4)
(注177)新水産社(1934a、P.36)および新水産社(1934b、P.24)
(注178)新水産社(1934c、P.P.70-71)