第 3 章 水産講習所第 3 代専任所長・伊谷以知二郎の教育理念
第 1 節 水産業にかけた生涯
1. 生い立ち
1-1. 国学と漢学を学んだ幼少時代
伊谷以知二郎は 1864(元治元)年、父田中傳、母アツの次男として出生した。田中 家は代々紀州藩に仕え、傳は若くして御子姓頭(注83)を務めていた。アツは同じく紀州 藩に仕える井田家に生まれた。井田家は田中家よりも格式が高く、アツは武家の娘にふ さわしい教養・素養を身に付け、藩主茂承もちつぐ公に宮家より嫁いだ倫 宮みちのみやに幼少のころより寵 愛を受けた。
伊谷は江戸の藩邸で生まれたが、明治時代を迎えると田中家は茂承公に伴って紀州和 歌山に帰還することとなり、伊谷は5歳のときに和歌山に移住した。6歳で藩校・学習 館に入学し、足掛け5年にわたって国学と漢学を学んだ。伊谷が生まれて間もなく明治 維新を迎えたが、武家の血筋を引く者としての精神教育はその間にしっかりなされたも のと考えられる。伊谷は本来癇癪持ちであったが、それを自己修養をもって克服したと される。また、物事には時勢があり、座して時を待つという考えを持ち、いかなる困難 に遭遇しても揺らぐことのない精神力を兼ね備えていた。そうした精神力の強さは、幼 少期の教育によって育まれたのではないだろうか。
1873年、傳が紀州家家令として再び東京・日本橋に移り住むこととなり、10歳にな った伊谷は日本橋の有馬小学校に入学した。同時期、傳の知遇を得た佐藤麟角が田中家 に居候することとなり、伊谷は約3年にわたって漢学を教わった。後に伊谷の姉が佐藤 に嫁ぎ、2人は義兄弟となって終生交わった。
伊谷は小学校を卒業すると三菱商業学校の予備科に入った。同校は商業の実務を教え る学校で、和洋算術、簿記、交易や経済論などの教育を行った。伊谷は3年の予備科を
(注82)本章における伊谷の生い立ちや事績については主に井舟(1937)、鈴木(1969)
などによった
(注83)武家の役職名の一つで、主君の側近で雑用を司る小姓のまとめ役
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終えて本科に進学することになったが、種々の理由から学校が閉鎖された。折悪く、田 中家はそのころ経済的な余裕をなくしていた。傳は紀州家家令を辞し、退職金で金山そ の他の事業を始めたものの、経営に失敗したのである。伊谷は学校に行くことを諦め、
独学を決意した。
伊谷は 21 歳で伊谷家に養子に入るが、これは徴兵逃れのためであったようである。
伊谷家に入ってからも、長兄が病弱であったなどの理由から傳の借財を背負い、伊谷は その後何十年も貧困生活を余儀なくさせられる。四十年以上にわたって伊谷と公私を共 にしてきた高橋熊三は、伊谷の不撓不屈の精神が貧困生活によって培われたものと指摘 している(注84)。伊谷は「人間はね、慾が出ると必ず病氣をするものだよ、殊に金慾は最 も重いやうだね、金がたまれば、きつと病氣になるやうだね。それは丁度食物を口から 入れて排泄しないやうなものだからね」(注85)と口にしたことがあった 。伊谷は個人的 に金銭への執着がなかったことは周りの人たちの証言から明らかであり、それが水産業 振興活動を展開する上での私心のなさ、公平さにつながったものと考える。
1-2. 岡本柳之助との交わり
伊谷が佐藤と並んで大きな影響を受けたのが、岡本柳之介であった。岡本は紀州藩で 16歳にして砲兵頭を務めた逸材で、江戸において傳と共に出仕していた関係から田中家 と親しくしていた。明治期に入ってからも対清戦略を政府に献策するなどの国士で、陸 軍大尉、少佐と出世するが、1878 年の竹橋騒動の主謀者として捕らえられ官職剥奪と なった。陸奥宗光の推挙で朝鮮宮内府顧問となったが、閔妃(朝鮮王朝の皇后)暗殺を 指揮した嫌疑がかけられるなど決して恵まれているとはいえない境遇の中にあって、活 発な政治活動を展開した。
岡本も佐藤と同様に伊谷が23歳のときに義兄弟となったが、それより前から2人の 密接な交流は始まっている。岡本が世相を静観するとして日蓮宗布教に従事することと なり、伊谷は岡本が監督を務める日蓮宗教報社に入り、『日蓮宗教報』の編集人となっ た。田中家は代々宗教心に篤く日蓮宗に帰依しており、日蓮門徒への広報誌編集作業は 伊谷にとって受け入れにくいものではなかったと考えられる。創刊号より第 33 号まで を編集したが、1887年に岡本と共に宗教社を辞した。
伊谷は日蓮宗教報社の編集作業に従事したが、自身は宗教に無関心であった。それが いつごろからのことか、またその理由は何であったのか判然としないが、佐藤麟角の影 響だったのではないかと推察される。佐藤はその著書で次のような見解を述べている。
「それ佛と謂ひ耶と謂ふ同じくこれ天地問の善術なり同じくこれ千百年の教迹なり遷 動して止ざれば皆その堂に登るべし顧ふに歐米諸州國廣く人多し大人君子●くんばあ らず他日神光の赫燦たる佛智の圓滿なる或はその淵藪となるも計るべから● より後余 ただ期す智德上進し百物利通し萬國共にその福利を享有し佛耶の名字を一掃し眞理を して豁然貫通するの域に達せん●を舏目して以てこれを俟つあるのみ」(注86)。伊谷が宗
(注84)高橋(1937、P.316)
(注85)井舟(937、P.P.182-183)
(注86)佐藤(1888、P.13)
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教ではなく陽明学に傾倒したのは、あるいは佐藤のこの考えによるところも少なからず あったのではないだろうか。伊谷は佐藤から大きな影響を受けたとされるが(注87)、2人 の具体的関係を明らかにする資料は見つかっておらず、これ以上のことは不明である。
伊谷は次々と身内の不幸に遭遇することになるが、それが宗教離れの一因となったとも 考えられる。
岡本を手伝って宗教報編集に従事した体験が伊谷の思想や信条に影響を及ぼした可 能性もあるが、その関連資料も見つかっていないため不明である。少なくともこのとき の編集経験は、後に大日本水産会で録事を務めたときに役立ったものと思われる。
岡本は「儂に若し佐藤の学問と伊谷の常識があつたら、日本を背負つて立つ人間とな つたのだが」(注88)と言った。伊谷は、岡本が官職を負われてもなお国家繁栄を思い、雌 伏のときにおいても高い志を忘れることがなかった姿を目の当たりにしている。岡本か ら国家貢献の真意、難局にあってこそ人間の真価が問われることなどを学んだものと思 われる。岡本の「常識に優れている」との伊谷評の解釈は非常に困難であるが、伊谷の 人物像に照らし、どのような境遇にあっても事の本質を見失わず冷静沈着に考え、行動 ができるとの意であったのではないかと考える。官庁勤務経験がなかった伊谷にとり、
一筋縄ではいかないことの多い政界と渡り合う際に「常識」は大きな武器になったので はないだろうか。
1-3. 水産伝習所入学
その後しばらくの間、伊谷は岡本の家に寄食した。1889 年、岡本は日清貿易振興を 提唱して日清貿易研究所を設立するが(注89)、伊谷が水産を志す最も有力な原動力は日清 貿易研究所だったのではないかとされている(注90)。水産伝習所の設立趣旨に貿易振興が 記されているというのがその理由である。さらに日清貿易研究所を設立した荒尾精の
『日清貿易研究所設置演説筆記』には貿易に精通する人材育成を学科と実地両面から行 う旨も記されており、その点も水産伝習所入学への動機になったとも考えられる。
1889 年に伊谷は水産伝習所の第一期生に応募し、合格した。伊谷が26 歳のときで、
「『これこそ男の働くべき新生面である』と人にも奨められ、自分もさう信じて入學し た」(注91)とのことである。岡本の家から水産伝習所に通っていたことを考え合わせると、
国富の視点から貿易振興の重要性を実感し岡本に奨められて水産業を志したとする見 解は、あながち間違ってはいないように思われる。
いずれにしても伊谷は水産伝習所入学を機に「『我が生涯は水産に在り』として泰然 不動一以て之を貫いた」(注92)のである。伊谷は水産伝習所で予科を経て本科に進み、房 州での漁労実習や養魚の実習などを経て、1890年2月に水産伝習所第1期卒業生とな
(注87)鈴木(1969、P.17・P.26)
(注88)同上(P.26)
(注89)同上(P.33)。ただし筆者がアクセスできた日清貿易研究所関連の資料に岡本お よび伊谷に関する記載は見当たらなかった
(注90)同上(P.43)
(注91)高橋(1937、P.1)
(注92)同上
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った。
2. 水産講習所における活動 2-1. 水産伝習所に勤務
伊谷は卒業と同時に大日本水産会に録事として採用された。時の大日本水産会幹事長 は柳楢悦(注93)、翌年に村田保が就任した。また幹事には関沢明清、松原新之助をはじめ、
水産伝習所の設立と運営に中心となって尽力し、日本の水産業振興に身を投じた名士た ちが名を連ねていた。水産業が富国のための重要産業であることをいち早く認識した官 吏たちが集い、いかにして水産業を振興させるかに汲々とし、白熱の議論を重ねる場に、
伊谷は録事として同席する機会を数多く得たに違いない。それが伊谷の水産人生に、特 に政治的活動において大きく影響したであろうことは想像に難くない。
1893 年、伊谷は水産伝習所の舎監を命じられ、同時に製造科講師にも任ぜられた。
伊谷にとっての最初の生徒指導は1893年11月の館山における鯨味付缶詰製造の実習で あったとされる(注94)が、『大日本水産會水産伝習所報告』(1897、P.38)には同年 8月 と 11 月に千葉県安房国常総海にて重要漁業及製造実習ならびに鮪流網を実施したとの 記載があり、11月の製造実習を指しているものと考えられる。伊谷は缶詰製造を専門に 究めることになるが、この経験が端緒となったのではないだろうか。
翌1894年、日清戦争に際して水産伝習所は農商務省より軍用缶詰製造を嘱託された。
各地に生徒を派遣して製造に従事させ、鯨肉大和煮缶詰、鰹大和煮缶詰、鰤水煮缶詰な
ど、合計 22,713 個の製造実績を挙げた。伊谷は前年の実習引率・指導の実績をもって
軍納缶詰製造の指導教官の任に当たり、これが伊谷にとっての画期の一つとなった。伊 谷が缶詰製造を究めることにつながり、かつ、水産缶詰の将来性を確信するに至ったの はこの経験によるものであった。国事への従事を身をもって体験したという点において も、大きな出来事であったものと思われる。
2-2. 水産物輸出拡大を志向
伊谷は1896(明治29)年4月に製造実習科教授主任に就任し、水産伝習所の官移管 にまつわる事務を執った。翌年、水産伝習所は官所管の水産講習所として再出発し、初 代所長に農務局長・藤田史朗、伝習部長に松原新之助、試験部長に柁川温が就任した。
伊谷は水産講習所技手となり、製造科で食用品製造実習を受け持った。その後製造科主 任および生徒取締主任を命じられた(注95)。そして1903年に水産講習所技師となった。
1904年に日露戦争が勃発すると、農商務省は陸軍省から軍納水産物供給を委嘱され、
(注93)柳楢悦は海軍軍人で、海軍少将を務め後に貴族院議員となった。全国の海図作成 に尽力し、「水路測量の父」と称された
(注94)鈴木(1969、P.60)
(注95)『水産講習所一覧』(自明治三十六年七月至明治三十七年六月)に製造科主任、生 徒取締主任との記載があり、1903年7月時点でその役職にあったことに間違いはない。
また『水産講習所一覧』(自明治三十四年四月至明治三十五年三月)ではまだ就任していな い。『水産講習所一覧』(自明治三十五年四月至明治三十六年六月)が入手できなかったた め確認できていないが、その間に就任していた可能性もある