第 3 節 企業家活動と業績
6. 戦時下および戦後の活動
6-1. 戦時下の合併統合と満州行き
1937(昭和 12)年の盧溝橋事件を機に日中戦争が勃発し、次第に戦時色が濃くなる
中で缶詰生産は軍需と輸出用のみに限定され、ブリキも統制下に置かれた。企業の合併 統合が進められ、1941 年に東洋製罐、北海製罐倉庫、日本製罐、明光堂、鶴見製罐、
朝鮮製罐、広島製罐、長瀬商事の8社が一つとなって新東洋製罐株式会社が誕生した。
その間、高碕は日産コンツェルンの鮎川義介より満州進出の誘いを受けた。鮎川は当 時満州重工業開発株式会社(満業)の総裁であった。高碕は満州の鉄資源に引かれ、1939 年に視察目的で満州を訪れたが、満州でも鉄は軍部に牛耳られており、期待外れに終わ った。その後鮎川は高碕に満業の副総裁を依頼した。鮎川は親戚関係にあった国司浩助 より高碕の人望を聞き白羽の矢を立てた。高碕は決心がつかなかったが、周囲からの後 押しもあり、1941 年に副総裁を引き受けた。しかし満州では軍部の横行と戦局の悪化 のために思うような事業展開はほとんどできなかった。鮎川の総裁任期満了に伴い、
1942 年、高碕は満業総裁に就任した。鮎川の退任と同時に高碕も副総裁を辞任し満業 から手を引く意向であったが、軍部から許可が下りなかった。
(注183)50年史編集委員会(1988、P.P.20-21)
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満業総裁の立場で終戦を迎えた高碕は、在満日本人を救済する日本人会総会の会長に 推され、満州に残る満業社員とその家族、同胞の救済と帰国とに全精力を傾けた。高碕 が祖国の土を踏んだのは1947年11月であった。高碕は帰国後も満州に渡った日本人の ための賠償問題や職業問題などの解決に努めた。企業家の領域を超え、社会的使命感を もって在満日本人のために力を尽くした高碕に、政治家、そして国際人としての素養を 垣間見ることができる。
6-2. 戦後復興
日本に戻った高碕は東洋製罐の立て直しに力を注いだ。戦時中に企業統合を余儀なく された東洋製罐は、戦後GHQの命により北海製罐と分離していた。高碕は戦争で遅れ た技術力を回復するべく、アメリカ製機械を購入するのではなく、同国の先進技術を導 入して日本で機械を生産することにした。併せて製缶技術を早急に国際水準にまで引き 上げるため、1954年にアメリカのコンチネンタル・キャン社と技術提携を行った。
缶詰産業の復興と相まって東洋製罐の業績は飛躍的に伸び、東洋鋼板も復興を果たし た。缶詰生産量は増加の一途をたどり、高度経済成長期の波に乗って右肩上がりで成長 を遂げた(図10参照)。輸出量も増え、缶詰は外貨獲得に大きな役割を果たした。
図 10 戦後の缶詰生産量推移
*日本缶詰協会(1980)より筆者作成
6-3. 政界への進出
1952(昭和 27)年、高碕は求められて電源開発株式会社初代総裁となって佐久間ダ
ムの建設などを遂行した。その後経済審議庁長官を経て衆議院議員に初当選し、初代経 済企画庁長官、通商産業大臣などを歴任した。特に中国との国交やアジア外交などに力 を発揮した。
そして 1959年、何千人もの漁民がソ連の巡視船に拿捕だ ほされている現状を目の当たり
10,000,000 20,000,000 30,000,000 40,000,000 50,000,000 60,000,000 70,000,000
缶詰総計 うち水産缶詰計
単位:箱
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にし、自ら「余生にかけられた最大の責任である」として日ソコンブ協定を締結させ、
根室漁民は長年の懸念であったコンブ漁を1963年に再開させた。「大企業の発展には何 ほどかのプラスをしたかも知れないが、この零細な漁民たちのために、一体何をしたと いえるだろう。この、日本の水産を支える底辺の人たちの幸福なくして、何の水産日本 なものか」と自らを省み、まさしく老躯にむち打って外交交渉に全精力を注いだ結果で あった。それから間もなく、1964年2月に享年79歳で死去した。
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≪第2部 第1章 参考文献≫
・東秀彦(1957)「アメリカにおける標準化・單純化・専門化」『日本機械学會誌』Vol.60、
No.461
・阿部三虎(1956)『がらくた』がらくた刊行会
・石原翁伝刊行会(1969)『石原圓吉翁伝』石原翁伝刊行会
・岡本正一(1944)『漁業発達史 蟹罐詰篇』日本出版配給
・加藤三郎訳(1929)『ハーバート・フーヴァー 大統領となるまで』改造社
・川崎秀二(1974)『三重政界の闘将たち』内外政局研究会
・高清会(1985)『高碕達之助先生ご生誕百年を迎えて』高清会
・50年史編集委員会(1988)『学校法人東洋食品工業短期大学 財団法人洋食品研究所 50年のあゆみ』東洋食品工業短期大学・東洋食品研究所
・榛葉英治(1976)『夕日に立つ』日本経済新聞社
・渋川哲三(1966)『高碕達之助集』経済雑誌ダイヤモンド社
・志摩町史編纂委員会(1978)『志摩町史』志摩町役場
・清水食品株式会社社史編集委員 編(1980)『SSKの50年』
・新水産社(1934a)『水産公論』第22巻第5号、新水産社
・新水産社(1934b)『水産公論』第22巻第6号、新水産社
・新水産社(1934c)『水産公論』第22巻第10号、新水産社
・曽我部市太・井阪徳辰(1975)「志摩郡史(鳥羽誌)志摩国旧地考〈復刊〉」『三重県 郷土資料叢書』第68集、三重県郷土資料刊行会
・高碕達之助(1913)「墨國北部大平洋沿岸漁場調査報告(一)~(六)」『大日本水産 會報』第参百六拾九~参百七拾四號、大日本水産會
・高碕達之助(1937)『罐詰及製罐業から工作機械製造業に』東洋鋼鈑
・高碕達之助(1953)「石灯籠のような男-キユーピー印マヨネーズ社長 中島董一郎 氏のこと-」『PHP』通巻第六十八号、PHP研究所
・高碕達之助(1957)『私の履歴書 第二集 高碕達之助』日本経済新聞社
・高碕達之助(1959)「カン詰からダムまで」『人生この一番』文明社
・高碕達之助(1960)「海の幸に夢を託す」『世に出るまで』実業之日本社
・高碕達之助(1961)「小林一三さんを偲ぶ―人生の燈台―」『小林一三翁追想録』小林 一三翁追想録編纂委員会
・高碕達之助集刊行委員会(1965)『高碕達之助集 上・下』東洋製罐
・高槻市史編さん委員会(1984)『高槻市史』第2巻 本編Ⅱ、高槻市役所
・宝塚雲雀丘・花屋敷物語編集委員会(2000)『宝塚雲雀丘・花屋敷物語』宝塚雲雀丘・
花屋敷物語編集委員会
・東洋製罐(1917~1941)『東洋製罐営業報告書』
・東洋製罐(1967)『東洋製罐50年の歩み』東洋製罐
・東洋製罐(1997)『東洋製罐八十年の歩み』東洋製罐
・東洋製罐小樽工場(1946~1948)『東缶をたる』1、5~9号
・東洋製罐グループ綜合研究所50年史 編集委員会(2011)『東洋製罐グループ綜合研 究所50年史』東洋製罐グループ綜合研究所
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・東洋製罐(株)東京工場 冊子編集事務局(2002)『東京工場の歩み』東洋製罐株式 会社東京工場
・東洋製罐戸畑工場(2003)『洞海は見ていたその歴史「戸畑工場70年の歩み」』東洋 製罐戸畑工場
・中島常雄編(1967)『現代日本産業発達史』交詢社出版局
・鍋島態道(1962)「態翁水産夜話(13)」『日刊水産経済新聞』水産経済新聞社
・二十五年史編纂委員会(1964)『広機25年』三菱重工業
・日本缶詰協会(1923~1940)『缶詰時報』
・日本缶詰協会(1964)「座談会 高碕さんを語る」『缶詰時報』43巻5号
・日本缶詰協会(1980)『戦後日本の缶詰生産統計集(昭和21~53年)』
・日本罐詰協會調査部(1940)『本邦罐壜詰輸出年報』日本罐詰協會代理部
・飛車金八(1957)「冒険と度胸の男一匹 平塚常次郎」『人生は闘いだ』鶴書房
・平賀大蔵編(1996)「三重県下の海の石碑・石塔(4)」『海と人間』1996、24、海の 博物館
・平塚常次郎(1959)「私の履歴書 平塚常次郎」『私の履歴書 第七集』日本経済新聞 社
・藤田清雄編(1960)」高碕達之助 特集」『日本特法』八十一号、日本特報社
・ほてい缶詰社史編集委員会(1983)『ほてい缶詰五十年』ほてい缶詰
・丸本彰造(1926)「罐詰罐型統一の經濟的必要に就いて」『缶詰時報第五巻第四号』罐 詰普及協會・山形政昭(2002)『ヴォーリズの西洋館 日本近代住宅の先駆』淡交社
・山中四郎(1962a)『日本缶詰史 第1巻』日本缶詰協会
・山中四郎(1962b)『日本缶詰史 第2巻』日本缶詰協会
・渡辺立樹編(1964)『エレクトロニクス協議会会報 故高碕会長追悼特別号』エレク トロニクス協議会
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