• 検索結果がありません。

生い立ちと経営理念形成過程 (注 133 )

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 95-99)

1. ナショナリズムの萌芽

高碕達之助は1885(明治18)年、大阪府島上郡高槻村(現・高槻市)柱本に父柗之 助、母ノブの次男として生まれた。ノブは柗之助に嫁する前に2児を生み、柗之助とは 再婚であった。柗之助との間に7人の子をもうけ、高碕はその3番目の子であった。ノ ブは高碕が16歳のとき、45歳の若さで亡くなった。

高碕の生家は農業を営んでいたが、その傍らで紺屋も経営していた。子どもが多く忙 しかったため、高碕は母の実家(河内国四条村野崎/現・大東市)に預けられることが 多かった。幼少のころはいたずらをして叱られてばかりいたが、母はそれをいつも温か く見守った。母が亡くなったとき高碕は苦労を掛けどおしだった自分を後悔し、心を入 れ替えた。後に母の供養のために、母の出生地にある野崎観音と高碕の生まれた柱本の 興楽寺に悲母観音を建立した。

高碕は茨木の養精高等小学校を経て大阪府立第四中学校に進学した。ここで高碕にと って運命の出会いがあった。浜田真名次という英語教師である。あるとき浜田は「これ からの日本は人口が増え、食糧を輸入しなければならない。そのために工業製品を輸出

(注129)高碕達之助集刊行委員会(1965、下、P.3)

(注130)同上(P.5)

(注131)同上

(注132)同上

(注133)高碕の生い立ちおよび企業家活動の事績は主として榛葉(1976)、渋川(1966)、

高碕(1957)、高碕達之助集刊行委員会(1965)、東洋製罐(1997)などによった

[89]

しなければならないが、日本の工業製品の中心である繊維製品は近く中国やインドに浸 食される。その中で日本人の生きる道は日本の四面を覆う海を開拓して水産製品を輸出 するしかない。世界唯一の水産専門学校が、農商務省直轄の水産講習所である」旨を説 いた。ここで注目すべきは、日本が先進国として存立する手段として水産業の将来性を 浜田が語っている点である。しかも食糧確保の見地から、当時隆盛を誇っていた繊維産 業を国際的に分析した上で水産業の重要性を指摘している。日本が先進国たるために自 分が何をしなければならないか、まさしくナショナリズムを具体的に身近に感じた瞬間 であったと思われる。高碕はこのとき一生の仕事として水産の道に進もうと心に決めた。

日本の水産業は、旧漁業法が成立してようやく近代化に向けて動き始めたところであっ た。

2. 企業家精神の醸成

高碕の決意に父をはじめ家族は反対であった。母の亡くなった年に兄と妹も亡くなっ ており、高碕は実質的な跡取りになっていたからである。しかも同級生の多くが工科や 法科、高等学校などへ進学を希望しており、知名度の低かった水産講習所を志望するこ とは極めて異端であった。高碕は中学校を卒業すると、9月の入学まで高等小学校の代 用教員として勤めた。その間に父は次第に態度を軟化させ、家督は弟に継がせることと なり、高碕は半ば強引に水産講習所への入学を決めた。

当時水産講習所は越中島にあり、新校舎が完成したばかりであった。高碕は漁撈科、

製造科、養殖科の中から製造科で学ぶことを決めた。期待に胸を膨らませて入学したも のの、水産講習所の教育内容は高碕にとって満足のできるものではなかった。少なから ず落胆したが、水産業の前途は明るいとの確信は揺るがなかった。独自で北里柴三郎の 研究所で細菌学を専門的に学び、日本の代表的化学者であった吉岡哲太郎の元にも通い、

食品加工に必要と思われる学問を独学で深めた。

高碕は水産講習所の教育レベルに失望を禁じ得なかったものの、学業以上の貴重な収 穫を得た。一つは水産講習所の生徒たちが持つ高い志と気概である。水産講習所の生徒 には「日本で唯一の水産高等学校の生徒として水産業振興に尽くすべし」との強い思い があり、その団結心と向学心、そこから醸成される校風を高碕は誇りに思った。

今一つは、学問を通して事業化への道筋を見いだしたことである。日露戦争勃発に際 して軍に供給するための缶詰生産に学校を挙げて取り組むことになり、製造科に在籍し ていた高碕も駆り出された。その経験を通して、有事にあって国家のために昼夜兼行で 働くことの喜び、学業と実業との結び付きとを実感した。

高碕にとって水産講習所におけるもう一つの収穫は、当時製造科で教 鞭きょうべんを執り、製造 科主任であった伊谷以知二郎との出会いであった。高碕が水産講習所卒業後に東洋水産 に技師として職を得たのも、メキシコの会社に技師として派遣されることになったのも、

メキシコおよびアメリカにおける缶詰産業の調査を基に日本缶詰業界発展を期し、ひい ては東洋製罐を設立することになったのも、全て伊谷の影響と助力があった。

高碕は伊谷から資金面、人材面など実利的な支援を受けると同時に、企業家としての 倫理観形成においても影響を受けたと考えられる。特に伊谷の「私心をはさまず純粋な

[90]

発露より仕事に従事する」という考えと一貫した姿勢は、高碕がひたすら缶詰業界の発 展のために力を注いだことと重なる。高碕は仕事において「愚を守る」ことが大切とし、

「愚を守るということを、別のことばでいえば、無償の情熱、無償の奉仕とも表現でき る。 ついでにいうと、かくいう私も今、その無償の情熱を燃やしている…(中略)…

無償の情熱、つまり愚を守るということがなくなったら、人間はダメだと思う」(注134 としている。その考えは伊谷の「私心なく仕事に従事する」姿勢につながるものである。

3. 実業から得た企業の芽

1906(明治 39)年、水産講習所を卒業した高碕は東洋水産株式会社に技師として就

職した。東洋水産は軍用缶詰製造をはじめとする缶詰製造会社であった。伊谷がセント ルイス博覧会での見聞、調査をベースに国産缶詰の軍用から輸出への転換を企図するに 至り、水産局長牧朴真を介して伊勢湾のいわしを原料にオイルサーディンを製造するこ とを石原圓吉に打診したのが東洋水産設立のきっかけであった。石原は三重県志摩町和 具に生まれ育ち、郷里の発展を期して缶詰の試作を始めた。軍用缶詰工場が三重県津市 贄崎

にえさき

にあり、そのほか鳥羽に製缶工場、波切、和具、神崎、島崎などにも缶詰工場があ った。

高碕は東洋水産での勤務経験を通して、缶詰事業は原料となる魚の漁獲高に経営が左 右されること、缶詰のラベルデザインによって販売量に影響が出ることなどを学んだ。

さらに使用する油の研究、イワシの体質調査などを行って缶詰製造の知識を蓄積し、技 術を磨いた。各地で講習会を開き、缶詰製造法について講義を行うまでになった。高埼 がオイルサーディンの缶詰の第一人者となる起点はここにあったものと考えられる。

東洋水産は原料のイワシの不漁、輸出用缶詰の売上不振などが重なり、会社をたたま ざるを得ない状況となった。それを機に高碕は缶詰技術の習得のためにアメリカ行きを 決意する。高碕が留学を決意した裏には、心身ともに行き詰まっていた状況を打開した いという気持ちもあった。そのころ高碕は仕事に打ち込む傍らで荒れた生活を送ってお り、さらに幼少のころから体が弱かったこともあって肺を病んでいた。死を意識し、ど うせ死ぬのであれば缶詰技術が進歩しているアメリカの実態を見ておきたいとの考え もあった。東洋水産の事業がうまくいかず、その処理で大変な時期であったにもかかわ らず、石原は高碕の海外留学に賛意を示して送り出し、事業の後処理の一切を自身の責 任をもって成し遂げた。石原のこうした人格の高さも、高碕が尊敬したゆえんであった。

海外留学について伊谷に相談すると、全面的に賛成してくれた。ちょうど伊谷の元に、

メキシコのロワー・カリフォルニアに漁業権を持つ漁業会社、インターナショナル・フ ィッシュ・コーポレーションから日本人技術者の派遣依頼がきており、伊谷は高碕を推 薦した。さっそく同社から渡米費用を送ってきたが、高碕は放蕩ほうとう生活の末につくった借 金の返済に充ててしまい、旅費がなくなってしまった。どうにも身動きができなくなっ た高碕は再び伊谷に相談した。伊谷はほかに使用するはずの金を黙って高碕に渡し、

(注134)高碕達之助集刊行委員会(1965、下、P.P.78-79)

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 95-99)