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マヨネーズ製造の中断と戦後復興

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 168-172)

第 2 節 生い立ちと経営理念形成過程 (注 260 )

5. マヨネーズ製造の中断と戦後復興

1938(昭和13)年12月、中島商店は社名を株式会社中島董商店に改称し、資本金を

18万5,000円とした。マヨネーズの製造は引き続き食品工業で行った。同年6月、稲野

工場(現・伊丹工場)の操業を開始した。その3年ほど前から分工場建設に向けて土地 探しを始めたとのことであるので、マヨネーズ売上が 10 万円を超えたころから生産体 制の拡大に動き始めたことになる。設備は最新式の機械を導入し、総建設費は 12 万円 程度と推察されている(注287。事業として成長期に突入した時期であり、収益の確保と 資金繰りは大きな問題であったと予想される。

その中で中島は商業道徳に沿わないことは一切行わず、それに抵触することも断じて 行わなかった。太平洋戦争が勃発すると配給が途絶え、1942 年にほぼマヨネーズの製造 を中止せざるを得なくなった(注288)

終戦後も公定価格制度が施行されている間は製造を行わなかった。原料不足が甚だし

(注286)同上(P.177)

(注287)同上(P.P.336-337)

(注288)翌年は軍納品を多少手掛けている

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かった当時は闇ルートから破格の値段で原料を入手するしかなく、高値で購入した原料 で作った製品は公定価格では売ることができなかった。総じて闇ルート品はストック品 の放出や産地直接仕入れなど、ブローカーがありとあらゆる手段を駆使して仕入れたも のであり、その出所も品質も不明なものがほとんどであった。そのような原料からマヨ ネーズを作ることを中島は断じて許さなかった。それ以前の問題として、統制外の闇ル ートから原料を入手して事業を行うことは中島の道義的理念に反することであった。

戦後の食糧状況は戦中よりもさらに悪化し、極度なインフレが国民を襲った。配給は 途絶えがちになり、従業員たちはもはや闇ルートと関わらずして存続は困難であると考 え、中島に許可を求めた。他社では公然と闇商売に手を染めていたが、中島は頑として 首を縦に振らなかった。闇ルートから購入した原料の品質に確証が得られないこと、価 格が高いために製品を公定価格では売れないことに加え、摘発されれば逮捕者が出るこ とも理由の一つであった。従ってなかなか事業再興の目途を立てることができず、結果 的に退職する従業員が相次いだ。中には起業してマヨネーズ製造を始めた者もいた。中 島は所持品を処分し、さらに借金をして退職金に充当した。当時の収入は工場用地の軍 への賃貸料のほか、缶詰販売や配給業務による収入が細々ほそぼそとある程度であった。その傍 らで野菜の栽培・小売をしながら残存した従業員数名と耐え忍んだ。

中島が闇ルートと関わらないと固く決めていたのは、「利害損得によらず何が正しい か」という不変のものさしによったと考えられるが、戦後混乱期という異常な状況下に あっては利害損得という観念は無意味に等しい。ここにおいて中島は道義を重んずると の信念から経営者として苦渋の選択をしたものと考える。生きるか死ぬかの瀬戸際にあ ってなお、法律を守ることはもとより、道理に外れることはすべきでないという考えを 貫いたのである。品質にこだわる中島にとって、入手ルートのはっきりしない原料から 製造した製品を消費者に販売することは、絶対に許されないことでもあった。さらに深 読みするならば、公定価格より高く売ることは倫理観に反すると同時に、消費者に公定 価格より高く買わせることが消費者をして法を犯させることにつながることを懸念し たのではないだろうか。

マヨネーズの公定価格が撤廃されると同時に、マヨネーズ製造を再開した。1948 年の ことである。東京都へ申請して小瓶 130 円、大瓶 240 円という小売価格で承認を受けた。

うち物品税は 8 円であった。まだ闇屋が横行していたが、中島は決められた値段以上で は絶対に売らなかった。やがてキユーピーマヨネーズの品質の良さが認められ、進駐軍 より一括納入の依頼がきた。この仕事を受ければ、食用油や鶏卵などの原材料から瓶や 蓋などの容器に至るまで容易に入手でき、かつ現金を手にすることができた。しかしこ の要請を中島は断った。それまで築き上げてきた販売網を崩すことを厭い、小売店から 購入してほしいと願い出た。キユーピーの復興は遅かったと言わざるを得ない。製造再 開後は製造販売数量を伸ばして少しでも早く経営の立て直しを図りたいところである が、その際に願ってもない軍部からの要請を中島は却下する。利害損得によらず「何が 正しいか」という不変のものさしに沿って判断した結果、それまで築き上げてきた取引 先との信頼を優先させた。自社の利益を基準として顧客に優劣をつけるべきではないと の判断であった。

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図 16 戦後のキユーピーマヨネーズの市場シェア推移

キユーピーマヨネーズは戦後復興後に着々と生産量を伸ばして確固とした市場シェ アを獲得し(図 16 参照)、1957年に食品工業株式会社からキユーピー株式会社に社名 変更した。

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≪第2部 第3章 参考文献≫

・味の素株式会社社史編纂室(1972)『味の素株式会社社史2』味の素

・荒木幸三編(1997)『創業者中島董一郎遺聞』中島董商店

・井土貴司(1993)『続 中島董一郎譜』董友会

・井土貴司(1994)『食品の価格革命』サイマル出版会

・井土貴司(1995)『中島董一郎譜 戦後編』董友会

・井舟萬全(1937)『伊谷以知二郎を語る』日本食糧協會

・加藤琢治監・岡本信男編(1971)『日魯漁業経営史 第一巻』水産社

・キユーピー株式会社 有価証券報告書(第58期~)

・鈴木善幸(1969)『伊谷以知二郎伝』伊谷以知二郎伝刊行会

・全国マヨネーズ協会(1973)『協会20年のあゆみ』

・高碕達之助(1938)『罐詰』ダイヤモンド社

・高碕達之助(1953a)『石灯籠のような男-キユーピー印マヨネーズ社長 中島董一郎 氏のこと-』[「PHP」通巻第六十八号、PHP研究所

・高碕達之助(1953b)『満州の終焉』実業之日本社

・高碕達之助(1957)「高碕達之助」日本経済新聞社編『私の履歴書 第二集』日本経 済新聞社

・高碕達之助集刊行委員会編(1965)『高碕達之助集 上・下』東洋製罐

・高橋敬忠編著(2003)『西尾が生んだ大実業家 中島董一郎の世界』三河新報社

・田中完三(1958)『立業貿易録』

・東洋製罐(1967)『東洋製罐50年の歩み』

・中島吉十郎(1969)『開進五十年』開進

・中島董一郎/董友会(2005)『中島董一郎譜』董友会

・西尾市教育研究会社会科部(1998)『西尾を築いた100人 下巻』三河新報社

・西尾市教育研究会社会科部人物史委員会(1996)『ふるさとを築いた西尾の人たち 5』

・西尾市史編纂委員会編(1980)『西尾市史 現代五』愛知県西尾市

・西尾の人物誌編集委員会編(1995)『西尾の人物誌』西尾市教育委員会

・廿日出要之進思い出の記編集委員『廿日出要之進思い出の記』

・藤田近男(1997)『わが人生航路 世の中「存外公平」』日本食糧新聞社

・前野直彬(2002)『新書漢文大系9 文章軌範(新版)』明治書院

・三菱商事編(1986a)『三菱商事社史 上巻』

・三菱商事編(1986b)『田中完三翁遺稿集 九十五歳の記』

・三菱商事編(1987)『三菱商事社史 資料編』

・三菱商事編(?)『続田中完三翁遺稿集』

・ミヨシ油脂(2002)『ミヨシ油脂株式会社80年史』

・山尾宰(1963)『西尾幡豆医師会史』西尾幡豆医師会

・山中四郎(1962)『日本缶詰史第一巻』日本缶詰協会

・横山進編(1995)『日魯漁業経営史(現ニチロ) 第二巻』ニチロ

・『海外実業練習生一覧 大正3・4・5・8年』農商務省商務局

・『日本食糧新聞』1949年~

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ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 168-172)