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事業拡大の連鎖の確立 3-1. 事業基盤の構築

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 158-168)

第 2 節 生い立ちと経営理念形成過程 (注 260 )

3. 事業拡大の連鎖の確立 3-1. 事業基盤の構築

第一次世界大戦が勃発し、海上運賃が高騰した。横浜―ロンドン間の定期船の運賃が 鮭缶詰1トン当たり40 円のところ、臨時船は1,000 円にも達した。中島は船舶会社か ら定期船のスペースを割り当てられている会社名を手を尽くして調べ、ほとんどが外人 商社であることを突き止め、交渉の末にスペースを確保した。その上で堤商会や輸出食 品などの取引先に、ロンドン渡しではなく横浜渡しで缶詰を売ることを提案した。この 方法によって取引先は多大な利益を手にすることができ、それに応じてもっと多額の口 銭を受け取るべく言われたが、通常と同じ額以上は受け取らなかった。

横浜渡しの取引手法は中島の発案で独占的商売となり、多大な数量をさばいて大きな 利益を得た。ロンドン渡しの慣習を打ち破る手法を見つけ出した中島の新規性が奏功し たということができる。取引先の利益を最大にするも自社の取り分は従前と一切変えな かったのは、取引先を最優先するとの考えとともに、自律と自制の意識があったものと 考えられる。一刻も早く事業基盤を固めるべきときの経営判断としては賛否の分かれる ところであるが、独立したばかりで無名の中島商店に発注してくれたことへの恩義に応 えることを優先したと同時に、「誠意をつくして十円のものを十円で売ってくればいい。

これが本当の商売である」との考え、そして「本当の商売とは商品の品質と価格、取引 条件、それに従来の取引を通じて培われた相互の信頼関係の上に成り立つものである」

との考えがあってのことと思われる。手堅く地道な商売に徹すべきと考えるに至ったの は、遡れば父母からの影響、つまり医者として信頼が厚く貧しい人に診療代を請求する ことはなかった父、そして武士の精神を教えられた母からの影響が大きいと考えられる。

併せて「寸毫も私心を挿まずさ、寧ろ大いに犠牲を払つて、衷心業界の為に盡し、國利 民福を圖らうとし」た 伊谷の影響も少なくなかったであろう。

第一次世界大戦は1918年11月に終結となり、船賃はたちまち暴落した。中島の横浜 渡しの手法もそれとともに終了となったが、中島商店は開業後半年でかなりの資金的余

(注273)玉置秀雄は1921年に中島商店に入社し、主に経理を担当した

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裕ができ、早くも事業基盤を確立することができた。しかも綾部缶詰製造所の蟹缶詰の 取り扱い、あるいはギル商会からの買い付け注文などによって、当面の運営に支障を来 すことはなかった。

3-2. 堤商会の鮭缶詰内地販路開拓

経済が混乱する中、堤商会において大量の鮭缶詰の在庫が発生し、中島に相談が持ち 掛けられた。紅鮭缶詰は引き続き輸出品として引き合いがあるものの、ピンク缶詰およ びチャム缶詰は内地に販路を開拓せざるを得ない状況になっていた。もとより当時の缶 詰国内消費はごくわずかであった。缶詰の統一品質規格はなく、想像を絶する低品質の ものも少なくなかった。日本人は缶詰の味になじめず、また品質的に信頼もできず、国 内缶詰消費量は少なかった。従って鮭缶詰の内地販売を取り巻く環境はかなり厳しいも のであった。そうした状況下、中島は支払いサイトの短縮化による価格の低減を図るよ う提案を行った。当時の商習慣を打ち破る画期的な発想であったが、古く悪しき商習慣 の改善に主眼を置くことで、堤商会の鮭缶詰売買に商取引上の意義をもたらそうとの考 えが根底にあった。ここにも中島の新規性を垣間見ることができる。

決済の短期化による低価格取引に対し問屋の反響は芳しくなく、不買の動きが起こっ た。中島は地道な啓蒙活動を行うと同時に、協力的な問屋との関係深耕に努めた。かつ 食品関係で現金取引の行われている業種を調べ、各地の塩乾魚および鰹節問屋を新販路 とし、「あけぼの印 堤の鮭缶詰」として売り出した。小売店の店先に立て看板を立て て宣伝をし、堤商会の協力を得て新聞広告などのプロモーションも大々的に行った。当 初は苦戦を強いられたが半年が過ぎるころよりようやく売上が伸び、有力問屋からの注 文が殺到するまでになった。こうして堤商会の鮭缶詰の内地販売網が構築された。

堤商会から大量在庫の鮭缶詰の販売依頼をされた背景には、横浜-ロンドン間の船賃 が高騰した際に横浜渡しでの輸出を提案し、堤商会に多大な利益をもたらした実績があ った。中島が若菜商店在籍中より堤清六から寄せられていた信頼も、大きな要因であっ たと考えられる。

3-3. 三菱商事特約店としての鮭缶詰市場拡大

堤商会の缶詰の内地向け販売拡大の実績が評判となり、中島に三菱商事より取引の打 診があった。先々の事業展開を考えると三菱商事との取引は額面以上の効果があると考 えられたが、堤商会に対して「忘恩の徒」になる恐れがあると考えて断った。このとき 中島は伊谷に相談をしている。熟考した揚げ句に三菱商事との取引を断るべきとの結論 に達して伊谷に報告したところ、伊谷は「誠に残念ではあるが、それが本当の道であろ う」と答えた。その後堤商会が輸出食品会社を吸収合併し、中島商店はあけぼの印鮭缶 詰の取扱いを引き揚げられた。それを機に、堤商会の了解の下に三菱商事との取引を開 始した。

三菱商事が零細であった中島商店に仕事を依頼しようと決めたのは、堤商会での成功 を聞きつけた三菱商事の田中完三(注274)が、中島と面談して経営者としての人格を見込

(注274)田中完三は三菱合資から三菱商事に移籍し、同社会長、三菱本社社長を歴任

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んだからである。田中は中島商店に仕事を依頼したいきさつを、「ある筋から中島さん を推薦してきた。中島さんは水産講習所の出身で、缶詰類の製造販売には、計画と理想 を持っておられたようである。とにかく一度話してみようということで会見したが、一 度で完全に惚れ込んだ。事業に対し熱意の熾んなことは予期していたが、これ位毅然た る良心的経営者は多く例を見ない」(注275)と記している。中島の道義的理念に裏打ちされ た愚直な経営姿勢が田中に伝わり、それが中島商店への発注につながった。一方、中島 も田中から受けた恩を忘れず、かつ田中を人間的に非常に尊敬もし、現在キユーピーの 社是となっている「楽業偕悦」の揮毫き ご うを依頼した。

中島の販売活動について『三菱商事社史』に、「当社は大正十年二月中島董一郎商店 に初めて北洋製鮭鱒缶詰の内地販売に当たらせた。この時新聞・電車などに盛んに広告 を出し、「一万円景品付五月中二万函特売」という、当時としては新しい販売策を発表 し、大いに注目を集め、その年の全販売量の半分に当たる一〇万五、〇〇〇函を販売し た」(注276)と記載されている。中島商店は1921年に三菱商事からピンク缶詰の内地向け 一手販売権を得た。中島商店が三菱商事からの一手販売を任されたとき、1カ月決済と いう厳しい条件を結んだ。かつて中島が堤商会に提案した条件を自身の取引においても 適用し、筋を通したということである。

このころ北洋漁業を取り巻く鮭缶詰製造・販売は競争激化の様相を呈していた。1918 年に三菱合資と北洋漁業におけるロシア最大手のデンビー商会が提携し、北洋漁業株式 会社を設立した。同年3月に設立となった三菱商事は三菱合資の営業部所管事業を移管 され、実質的に三菱商事が北洋漁業にまつわる事業を掌握することになった。1921年3 月には輸出食品、勘察加漁業、日魯漁業(旧)が合併して日魯漁業が誕生し、三社合同 を先導していた堤商会が実質的に経営権を握った。その結果、三菱商事と日魯漁業の二 大勢力がしのぎを削ることになったが、ロシア側への対抗的意味合いも含め両者は手を 結ぶことになり、1922年11月、両社の共同出資で大北漁業株式会社が設立された。1924 年、両社協議の結果、三菱商事は大北漁業の株式を日魯漁業に譲渡し、融資と缶詰の一 手販売を引き受けた。三菱商事からピンク缶詰の内地向け一手販売権を得ていた中島は 自動的に堤商会のピンク缶詰の販売も手掛けることとなった。さらに中島はセール・フ レーザー商会よりグルセッキーのピンク缶詰(ロシア人製造の鱒缶詰)の委託販売を受 けており、結果的に内地向けピンク缶詰の大半を中島商店で取り扱うことになった。

中島商店は 1923 年の関東大震災で事務所を焼失し、三菱商事本社雑貨部および重役 室を間借りした。その後 1925~46 年まで丸の内にあった三菱二十一号館に事務所を構 えた。三菱本社に間借りできたこと、そして関東大震災に耐えた三菱二十一号館に入居 できたのは、三菱商事の取り計らいであった。

3-4. 大口優良取引先の確保

セール・フレーザー商会よりグルセッキー製ピンク缶詰の売買を大量に任されたのは、

(注275)三菱商事編(?、P.29)

(注276)三菱商事(1986a、p.226)

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 158-168)