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水産業振興活動

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 79-84)

第 3 章 水産講習所第 3 代専任所長・伊谷以知二郎の教育理念

第 2 節 水産業振興活動

1. 露領における紅鮭缶詰製造事業化支援

日露戦争で勝利を手中にした日本は、日露講和条約によって露領の漁業権を獲得した。

しかし国内需要になじまない紅鮭の漁獲が多く、当時の日本人は紅鮭を加工する術を持 たなかった。伊谷はその状況を打開するため調査を行い、原料および労働力の安い日本 で紅鮭缶詰の製造ができれば米国産を圧倒できると考えた。

1907年に北海道の漁業家・藤野辰次郎らがカムチャツカ沿岸の漁業視察より帰京し、

現地の魚族を標本にして水産講習所に寄贈した。その中に紅鮭があるのを発見した伊谷 は、養殖部の日暮忠、丸川久俊両技師に海外産紅鮭との比較調査を依頼し、遜色なしと の結論を得た。カムチャツカで獲れた紅鮭を原料とした缶詰製造を研究し、1909 年の アラスカ・ユーコン太平洋博覧会に出品して大賞牌を獲得した。

それより先の 1908 年の冬、伊谷は堤清六(注102よりカムチャツカ産紅鮭缶詰製造の 事業化について指導要請を受けた。さらに郡司成忠大尉(注103を組合長とする露領沿海 州水産組合は、政府の補助金を受けてカムチャツカの現地漁場を水産講習所の実習地と

(注101)井舟(1937、P.335)

(注102)堤清六は日魯漁業の礎を築いた企業家。1907年に堤商会を開設し、ウスチ・カ ムチャツカで邦人漁業家として初めて缶詰生産に着手

(注103)郡司成忠は元海軍大尉で、自ら退役し北洋の警備と開拓に従事。北千島占守島 の農業や漁業開発などを行った

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表 8 露領における邦人缶詰製造家と製造数量

して提供し、缶詰製造の実地研究を申し出た。カムチャツカにおける紅鮭缶詰事業化へ の動きが活発化する兆候を感じ取った伊谷は鍋島態道らに視察を命じ、鍋島の調査報告 を受けて紅鮭缶詰製造の有望性を確信した。1910 年、鍋島は菅宮清吉、海老澤光治両 技術者と十数名の職工を同道し、ウスチ・カムチャツカの堤の漁場で露領における日本 人最初の缶詰製造に着手した。約700函の缶詰を製造し、堤と取引のあったフレーザー 商会を介して海外市場に出荷した。

堤商会の缶詰製造の成功を見た伊谷は露領における邦人缶詰製造を活性化させたい と考え、若菜商店で缶詰の売買をしていた中島董一郎にカムチャツカでの紅鮭缶詰製造 を勧めた。表8は露領における邦人缶詰製造家と製造数量の推移をまとめたものである。

伊谷の働き掛けが一つのきっかけとなり、同地において邦人製造家が次々に出現し、製 造数量を伸ばしていったことが分かる。なお、1911年度に初出の若菜熊次郎は若菜商店 の店主で、1911‐1912年度は中島董一郎が製造の実務を取り仕切った。

堤商会は伊谷の指導を通じ、鍋島らの協力を得て紅鮭缶詰事業化に成功したものの、

事業環境は厳しく、ロシア側は北洋(注104の覇権掌握を狙っていた。かつ函館の一井組

(注104)本研究における北洋の定義は、露領漁業・沖取漁業・北千島漁業を包括するも のとするものとする

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が北洋缶詰製造に乗り出してロンドン市場において堤商会と競合するなど、日本企業同 士の競合状態を招く状況にもなった。伊谷は日本企業の共倒れ、あるいは品質の不統一 による国際市場における日本製品の信用失墜を憂慮し、高橋熊三と相談して北洋漁業の 統制が必要であるとの結論に達した。伊谷と高橋、鍋島は漁業会社の設立案を作成し、

松原新之助の支持を得た。さらに松原を通じて村田保、松方正義の協力を取り付け、資 本金25万円の輸出食品会社を1912年5月に設立した。経営の実権は高橋と鍋島が握り、

工場数、漁場ともに次々と増やして高配当を維持する会社に成長させた。

ちょうどそのころから、高碕、中島は海外留学に出る。高碕は1915年に帰国すると、

1917 年に製缶専業企業、東洋製罐を立ち上げる。缶詰製造と製缶の完全分離を意図し た高碕の起業は、伊谷の北洋を中心とした缶詰産業進展の思いを汲んだものであった。

一方の中島は1916年に帰国し、1918年に罐詰仲次業中島商店を起ち上げ、かつ翌年に 缶詰の打検検査業務を手掛ける開進組の設立に携わった。中島商店は北洋で製造される 缶詰の販売を手掛けて販路を拡大し、開進組は缶詰の品質向上と輸出拡大に貢献した。

両者の企業家活動は伊谷の北洋漁業開拓と水産物輸出拡大の志に同調したものであっ た。

2. 北洋漁業開拓

輸出食品会社設立の翌1913年、伊谷は露領カムチャツカおよび沿海州に視察に赴き、

北洋漁業の無限の可能性を確信した。当時、鮭・鱒、蟹、鰊を中心に北洋漁業は発展の 途上にあったが、伊谷は底魚の豊富なことに着目した。伊谷は北洋から1億円の生産を 揚げたいというのが口癖であったが、このときにその意を固めたのではないかとされる

(注105

伊谷は北洋の底魚漁業に関する調査研究を開始し、漁労部の小瀬次郎技師と協力して

1915~26 年にわたって水産講習所練習船・雲鷹丸によるオホーツク海の漁場調査を行

った。その結果、オホーツク海、ベーリング海における漁場の有効性を確認した。一方、

底魚の経済上最も有効な利用法についても研究を行った。そして欧米において需要があ ること、その残滓を活用して製造するフィッシュ・ミールも国内外の需要が高いとの結 論を得た。

そうした調査・研究を総合的に勘案し、伊谷はフィッシュ・ミール製造をメイン事業 に、魚油の製造をサブ事業に、さらに優良魚族については食用に生鮮のまま冷凍して配 給するという事業計画案を立てた。それを杉山茂丸(注106に託そうと協力を求め、杉山 はそれを了承した。そのときの伊谷の北洋漁業開拓への並々ならぬ思いは以下の言葉に 表れている。

「自分は杉山氏に北洋開発計画の大綱を説明し、結論を与へて次の如く云つた。我国家 の現状を視るに人口食料問題と云ふ当面の大問題があり、財政経済も亦頗る楽観を許さ ざる状態で憂国の士の真に焦慮すべき秋である。国民に新活動の機会を与へ、食料品を

(注105)鈴木(1969、P.192)

(注106)杉山茂丸は明治~昭和初期に影ながら政財界を動かした国士であり、政界のフ ィクサー的存在とされた

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増し、国富を増進する途があるならば進んでこれを拓かねばならぬ。北洋開発の如きは 真に国力進展の方法であり、国富増進の手段であるから、漁業上には卓越した技倆を有 する我国民としては、是非この秋に於て本計画を実行せねばならぬと痛感する、と。こ れに対して、氏(筆者注:杉山茂丸)の洗練された経験智識は直ちに本事業の全般を理 解され、国策としてこれを重視し、資本を聚め国家的事業として是非共これが実現を期 せねばならぬと積極的に同意された」(注107

正式に会社を設立することとなり、紆余曲折の末に1929年8月、国際工船漁業株式 会社が設立された。国際工船はカムチャツカ東海岸の東オゼルナイに漁場を確保して第 十国際丸を出漁させたが、結果として事業は失敗に終わった。

3. 缶詰品質検査体制の確立

日露戦争を契機とした軍納缶詰製造品目数と生産量の増加に伴い、缶詰輸出量も増加 の一途をたどった。蟹缶詰についても製造業者が続出し、アメリカへの輸出数量を伸ば しつつあった。それに伴い品質低下問題に直面し、1909 年にサンフランシスコ駐在領 事から品質改善するよう警告が寄せられ、横浜の商会からは検査および製品監督の必要 を説いた意見書が提出された。農商務省はこの状況を重く見、当該地方官庁や生産販売 業者に改良を促した。現地調査を実施し、組合を設けて品質向上および販売統制を図り、

学術的な援助を行うなど積極的に介入し、官民共に品質向上に対する機運が高まった。

伊谷も品質低下が輸出伸長の妨げになることに危機感を抱き、製品改良の研究を進め て指導した。同時に農商務省や輸出業者等を巻き込んで蟹缶詰輸出検査実施に漕ぎ着け、

1912 年より東京洋酒缶詰同業組合と横浜海産乾物同業組合が蟹缶詰の輸出検査を開始 した。続けて神戸、大阪、さらに根室や樺太においても蟹缶詰検査体制が確立した。

伊谷は製品検査とともに販売統制にも心を砕いた。無統制による同業者同士の競争激 化と自滅が産業後退を招くとして、同業組合結成による共同販売、会社合併や企業合同 による販売統制などの指導を行った。事業者間統制の推進については、高碕や國司も企 業家活動の一環として力を入れた。

4. 水産物輸出拡大の提唱

伊谷は 1915年に「水産物輸出貿易拡大方針」において水産物輸出1億円計画を立案 した。農商務省、各府県・地方などが一体となって人材・組織増強などにより水産物輸 出奨励に注力すること、輸出製造品奨励のための奨励金支給、海外調査研究、試売品に 関する優遇措置、輸出品製造を妨害する者に対する規制、同業組合の監視および保護、

金融の円滑化など、多岐にわたる提言をしている。

伊谷の水産物輸出拡大に対する熱意は格別であった。伊谷は輸出1億円実現案を携え て中村嘉壽と共に総理の私邸を訪ね、水産業奨励について迫ったという(注108。図5 お よび図 6 に水産物輸出額の推移をまとめた。それによれば、1915 年当時の水産物輸出 額は、内地のみで2,000万円に満たなかった。その時点で1億円を目指そうとの目標を

(注107)鈴木(1969、P.P.196-197)

(注108)井舟(1937、P.279)/中村(1937、P.27)

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 79-84)