第 2 章 水産講習所が水産業に及ぼした影響
第 2 節 行政との協調体制による学校運営
2. 水産伝習所の発展過程 2-1. 水産伝習所設立
明治維新期に水産業発展に身を投じた人々は、幕藩時代の士族や上層教育を受けた知 的庶民層出身者が少なくなかった。水産講習所の歴代所長の多くも旧藩出身の士族で、
政治や行政に携わる官吏の立場から水産業を盛り立てた。水産伝習所は歴代所長の手腕 に支えられ発展の道を歩んだ。
『東京水産大学七十年史』には水産伝習所の誕生について、多くの人々の長い年月の 努力の蓄積と日本を取り巻く内外の情勢が辛うじて設立を可能にしたとしながらも、
「骨子となり中核となつて進展結実させた源泉は、明治一三年における村田・松原両人 のベルリン会談に端を発しその後も続いた協力があつたからだと思われる。即ち当時両 人はドイツの水産業の状態を視察し、官民一体となつて斯業を推進している組織、機構 などを知り、いたく心を打たれ、我が国でもこのような体制を取入れる必要を強く感じ、
互に共鳴し、帰国の上は力を合わせて水産業発展のため努力しようと、深い感激のうち に約束した。これが萠芽となつて今日隆盛の実を結んだものと見てよかろう。その後両 人共強い決意を以つて帰国し、大日本水産会の設立に努め、水産開発のための基本調査 を行い、さらに水産伝習所の創設に全力を尽し、遂に現在まで発展する基盤をきずいた」
(注44)とあり、両者の個人的思惑と尽力が水産伝習所設立には欠かせなかったことを表
している。官吏であった2人が法律および生物学の専門家としての職務から転換し、水
(注44)東京水産大学創立七十周年記念会(1961、P.23)
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産人として水産教育を含め水産業振興に身を賭することになったことの意義は大きか ったということである。
2-2. 初代所長・関沢明清の時代
初代所長・関沢明清は1843(天保14)年加賀藩に生まれ、江戸および長崎で蘭学を 学んだ。江戸時代末期に国禁を破ってイギリスに3年余り滞在し見聞を広めたという経 歴を持ち、1873(明治6)年のウィーン万国博覧会においてヨーロッパの先進の漁業法 や漁業制度を目の当たりし、大きな衝撃を受けた。1877 年に内務省の水産掛の初代掛 長となり、その後駒場農学校の校長も兼務した。1885 年には水産局魚政課長と試業課 長を兼任し、さらに水産局次長心得になり、農商務省三等技師となる。
関沢の時代は、立ち上げ時ならではの経済的苦難への対応と教育内容の見直しに終始 した。水産伝習所設立のための寄付金は、目標の1万円に対して1888年末までにおお
よそ2,000円しか集まらなかった。設立当初から財政的に困難を極め、校舎の購入によ
って赤字経営に陥った。設立後しばらくは農商務省所管の厚生館や北海道庁の建物を借 り受けていたが、都合により借り受けできないこととなり、芝区三田四国町にある建物 を購入することになったのである。水産局の廃止に伴ってそれまでの協力が得られなく なるなどの要因も重なり、1890年末には早くも存廃について協議がなされた。
そうした状況を受け、下および会計主任であった清水善五郎による節約実施提案を採 用することで継続が決定された。提案内容は教官手当ての削減を含む厳しいものであっ たが、それだけでは赤字は解消できず、大日本水産会より補てんすることで急場をしの いだ。ちなみに当時の学費は年額30円で、相当高いものであった(注45)。
水産伝習所は第1回入学生として、募集人員80名に対し63名の人員を受け入れた。
生徒の学力はまちまちであり、年齢も17歳から30歳近くまでとかなりの開きがあった。
第1回の入学生を1889年1月に受け入れ、その結果を受けて同年11月に早くも1回 目の規定改正を行い、予科を設けて在学期間を1年半とした。入学生のうち学力不足の 者に予科においてまず基礎科目を履修させ、学力の是正を図ったものである。また、本 科修了後にさらに専門学力を補うため、現業専科も設けられた。この年、地方県庁から の依頼により入学問題を地方に送って試験を実施し、答案を返送してもらって採点の上 合否を決定する措置も取られた。いずれも門戸を広げるための工夫であったと考えられ る。続けてその翌月、地方実業者の子弟がより入学しやすくなるよう入学試験の程度を 低くした(注46)。
度重なる改正を行った理由としては、水産学術を専門に教える教育機関は日本に一つ であったのみならず、欧米諸国にも参考にするような機関がなかったこと、海洋におい て行う水産事業についての伝習を東京市中において履行することの困難があった(注47)。 表1は水産伝習所の入学生数および卒業生数をまとめたものであるが、さまざまな工夫 を重ねながらも入学生数は思うように伸びず、設立当初は生徒の募集に苦労したことが
(注45)同上(P.55)
(注46)大日本水産會水産傳習所(1897、P.P.22-23)
(注47)同上(P.22)
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分かる。科目内容の見直しを行い、修養年限を延長し、殊に地方漁業者の子弟が入学し やすい環境を作り出すなどの努力の効果が徐々に表れ、ようやくある程度の人数が集ま るようになった。
2-3. 第2代所長・村田保の時代
村田は1842(天保13)年に大阪に生まれた。考試に合格して法律を究め、太政官大 書記官兼内務大書記官、取調局長などを経て貴族院議員を務めた。法典研究を行い、刑 法、民法の制定の携わり、法律取調委員となった。法律取り調べのためにドイツを訪れ た際、水産業の重要性を心に刻み、日本の水産業振興に力を尽くす決意をする。
村田は1893(明治26)年、関沢の後を継いで第2代所長に就任した。水産教育の必 要性を農商務省に訴え続け、水産伝習所は生徒養成費として年額6,500円の補助金が支 給されることになった。これにより財政面における危機を乗り越えるめどがついた。設 立当初は生徒からの月謝が収入の大半で、収支表を見ると、設立から補助金支給の前年 までは支出を抑えて何とか黒字経営をしており、緊縮財政が展開されていた様子がうか がえる。それ以降は補助金支給に加えて生徒数の増加による収入増が実現し、財政的に 余裕が出てきたことが分かる。
農商務省からの補助金支給によって経営難を脱すると、村田は講義内容の拡充に力を 注ぎ、かつ生徒の礼儀と品位を高めるべく改革を次々と行った。実習科を発足して専門 化を図り、漁撈科卒業生の東京商船学校分校への無試験入学を可能にし、遠洋船船長・
表 1 水産伝習所入学生・卒業生数推移
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運転手の資格取得の道を開いた。
そうした動きと前後し、日清戦争が勃発した 1894年、文部省告示で水産伝習所は官 公立尋常中学校と同等以上であると認められた。これによって在学生は徴兵猶予、卒業 生は一年志願兵の出願ができることになった。また 1896年に文部省より教員養成を委 託され、年額 1,800 円が支給された。影山(1990、P.19)は村田の功績について、「所 長在任中の4年間に水産法制の整備に尽力し、水産伝習所規則の改正や校舎の新築、修 業年限延長及び実習科の発足、水産教員の養成等でも実績を挙げ、あわせ水産伝習所を 官公立の中学校の学科程度と同等以上であると文部省に認定させる等、初代所長の関沢 明清が培った基盤をさらに固めて、その後の実習中心の水産教育発展への方向をより確 かなものとしていった」としており、関沢の後を継いだ村田も実理重視の教育方針を展 開したとしている。
村田の功績はそれにとどまらず、水産局の再設置にも力を尽くし、1897 年にようや く実現する。村田は水産教育拡張についても農商務省に上申し、それを受けて水産調査 会は水産教育機関の官設・私設各々について比較、検討を行った。その結果官設が妥当 であるとの結論を得、農商務省所管の水産講習所設立が決定した。水産伝習所は 1897 年、第10回卒業式をもって閉所され、在学生は水産講習所に引き継がれた。
3. 水産講習所の発展過程 3-1. 水産講習所の設立
水産講習所は農商務省の所管となり、1897(明治30)年3月の水産講習所設置の官 制公布をもって官立の水産学校として新たに出発した。官制第一条には、「水産講習所 ハ水産調査所ニ附設シ水産ノ傳習及試驗ニ關スル事務ヲ掌ル」とあり、水産教育と同時 に試験機関としての役割が課せられた。
水産調査所は村田の尽力により、廃止が決定した水産局に代わって 1893年に開設さ れた。ところが 1898年に水産調査所と水産調査会が廃止となり、調査事務は水産局調 査課に、試験研究は水産講習所試験部に移植されることになった。それに伴い、官制第 一条は「水産講習所ハ農商務大臣ノ管理ニ屬シ水産ノ傳習及試驗ニ關スル事務ヲ掌ル」
に改められた。同年に出された庶務規定(農商務省訓令第40号)によれば、伝習部(1919 年に講習部に改称)では漁撈、製造、養殖に関する学理及び技術を伝習すること、試験 部においては漁撈製造および養殖に関する試験を行うことが規定されており、引き続き 実業従事者育成とともに水産試験を通して水産業発展に寄与すべしとされていたこと が分かる。
水産講習所は 1901年に小田原製造実習場が設置となり、最初の練習船・快鷹丸が進 水するなど、技術習得の環境が整えられた。さらに 1902年に深川越中島に新校舎が完 成した。海岸に校舎を設立したいとのかねての要望が実現したもので、元陸軍越中島調 練場跡地に商船学校と並んで建設された。
3-2. 初代専任所長・松原新之助の時代
設立時の水産講習所の所長は水産調査所長の兼任であり、次いで水産局長兼任となっ た。専任所長となったのは1903(明治36)年のことであり、初代専任所長に松原新之