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教職者の立場を堅持

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 87-93)

第 3 章 水産講習所第 3 代専任所長・伊谷以知二郎の教育理念

第 3 節 水産業振興活動を支えた思考と行動

4. 教職者の立場を堅持

伊谷は民間の水産会社や企業家個人に対して惜しみない支援を行ったが、その全ては 教職者としての立場からの活動であった。水産企業や個人経営の商店などと特殊な関係 は一切持たなかった。技術者として、あるいは経営者としての素養は十分に持ち合わせ

(注116)深作(1937、P.83)

(注117)杉浦保吉は1906年に水産講習所漁撈科を卒業し、1932~46(昭和7~21)年 に第6代水産講習所専任所長を務めた

(注118)井舟(1937、P.P.228-229)

(注119)小安(1937、P.71)

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ていたはずであるが、その力を民間に在籍して発揮することは一度もなかった。伊谷に 経営参画を依頼する企業は少なくなかったが、伊谷は一顧だにしなかった。「私は、各 水産會社の綜顧問のつもりでゐるのですから、用事があれば何時でも話に來て下さい。

いくらでも相談にのりますからね。今更、一會社に顧問といふ名を出すのも變ですから ねえ」(注120。そう言って都度断っていたという。伊谷はあくまで教職者としての立場を 堅持したのである。その一方で水産関係団体からの要請があれば、役職に就くことを快 く引き受けた。

伊谷のそうした姿勢について松崎壽三は「氏が實業教育者として自ら任じ、終始一貫 したことも賢明の致すところである。他の人ならば別の説もあり得るであらうが、伊谷 氏は若し意志あらば何時にても、特に其退官後に於ては、實業方面に於て爭うて迎へん とするところであつたが、氏は之等には見向きもせず、同窓のリーダーと、水産界全般 の指導とを任としてゐた」(注121と言っている。

教職者の立場を堅持した理由の一端は、水産業振興のベースは業界の先導者育成にあ りとの考えを貫き、養成した人材が随所で力を発揮することで水産業振興に寄与しよう と考えていたからではないだろうか。大正初期ごろ、ある水産企業設立に関して指導し ていたとき、共に仕事をしていた古参助手が「講習所は會社をつくるのに骨折つたり、

製品の指導に浮身をやつし、大會社になつても講習所の方は一向に利益にも預からねば、

重役にもして呉れませんからね」と冗談半分に口にすると間髪容れずに「馬鹿野郎!

ここはどこだと思ふ、馬鹿!!」と怒鳴ったという(注122。水産講習所という公的教育 機関が民間支援することの意義を、私心をはさまず、純粋に水産業振興、ひいては国益 に資することに置いていたことの表れであろう。水産事業を、資金、人材、技術など各 方面からオルガナイザーとしてバックアップするには、教職者という中立の立場が最も 適していたと考えていたものと思われる。かつ、最も効果的に支援するには、伊谷自身 がオルガナイザーとしての信頼を備え、公平中立を維持する必要があった。それがどの 企業にも属さず、人材養成に直接携わることのできる教職者の立場にこだわった理由で あったと考える。

5. 政治的活動の展開

伊谷の水産業振興活動の特徴として、政治的配慮と行動力に優れていたという点にも 着目するべきであろう。それは山本達雄農相の言葉に最も端的に表れている。「水産講 習所長の伊谷君は当代稀に見る偉材である。若し彼にして政治家たりせば既に一流の大 政治家となり得たであらう。大臣の任に在つても猶ほその重責を辱しめない底の大人物 である」(注123。山本農相はかねて伊谷の才覚を買っていた。水産講習所内容充実案が審 議されていたとき、山本農相は伊谷の情熱と行動を目の当たりにしており、伊谷への信 頼感を厚くしていたとされる(注124。それ以前にも山本農相と伊谷は接触があった。大

(注120)井舟(1937、P.267)

(注121)同上(P.262)

(注122)同上(P.P.167-8)

(注123)鈴木(1937、P.174)

(注124)同上(P.175)

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正初期に水産局廃止問題が浮上したとき、山本農相は水産局廃止に反対の立場を取った が、その意は届かず廃止が決定された。しかし伊谷はじめ水産同窓会諸氏が一致団結し て反対の意向を声高に訴え、伊谷は最終手段として山本権兵衛総理に直訴することを決 め、山本総理とつながりのあった中村嘉壽を動かして廃局を思いとどまらせた。伊谷は その後も山本農相と密な接触を続け、水産貿易論を提示したりなど、水産に関する問題 を度々上訴する努力を怠らなかった。そうした行動が伊谷の政治力、行動力、情熱を認 めさせることになったのではないかと推察される。

伊谷の熱意と行動力は、以下のエピソードからも見受けられる。伊谷が水産講習所を 辞して後の1927 年、水産講習所拡張計画が一時中止されるとの話がもたらされた。伊 谷は「教育を度外視して何の水産國策がありますか、じつとして居れませぬ、さァ共に 行きませう」(注125と言って農林政務次官砂田重政家を訪れ直訴した。伊谷は砂田に水 産講習所の歴史を語った後、水産試験機関を水産講習所から中央の試験機関に独立させ るべきこと、水産単科大学が必要であることを熱弁し、すぐに働ける人材養成のために 地方の水産学校の教育水準を高めることも重要であるとした。そして水産講習所の拡張 は是が非でも実現すべきこと、世界の水産界を指導することは水産国・日本の義務であ ることを説き、「それには、至公至平に論議すべきで、些些たる自我の意見を挟む秋で はありますまい」(注126と付け加えた。そのとき伊谷はポケットに水産講習所生徒の血 判書を忍ばせていた。大正初期に水産講習所の拡張問題が論議されたときのものであっ た。砂田の了解を得て部屋を出るとポケットから血判書を取り出し、涙を流して「講習 所はね、血と涙で守つて來たものだからなあ」と口にしたという(注127。血潮をかけて 育てた多くの教え子を送りだした水産講習所、その伝統を守ろうという生徒や同窓生た ちと同じ思いを、第1回目の卒業生として、教職者として、心に秘めていたことが分か る。伊谷の政治交渉力は、水産講習所同窓生、教職者としての誇りを原動力としていた と考えられる。

おわりに~オルガナイザーとして水産業振興に寄与

伊谷は水産伝習所を卒業すると大日本水産会の録事を経て水産伝習所および水産講 習所で教鞭を執り、水産講習所に籍を置きつつ大日本水産会をはじめ業界団体の要職に 就き、生涯を通じて水産業振興に努めた。伊谷は水産講習所の拡充・発展に務め、企業 家および民間の事業化を個別具体的に支援する傍らで、水産関連技術研究や水産物輸出 増進、水産金融など業界全体を見通した公的活動にも力を注いだ。

伊谷は保身とは無縁の人物であり、純粋に水産業界にとって最良の選択は何であるか を見通し、かつ自身が直接手を下すのではなく、人と人とをつなげ、機会を提供し、人 的・技術的・資金的援助の方策を提示するなど、オルガナイザー的役割に徹した。そう した伊谷の活動は、教職者としての立場を崩さなかったこと、実業への直結を常に念頭 に置いていたことに大きな特徴がある。伊谷が教職者としての立場を崩さなかったこと

(注125)井舟(1937、P.299)

(注126)同上(P.P.300-301)

(注127)同上(P.166)

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は、伊谷の中立性を担保するものであった。それが伊谷の活動を実効的かつ有意義なも のとし、高い人格と相まって伊谷が業界の重鎮として認められるようになったものと考 える。

伊谷が常に実業に直結することに重きを置いたことは企業家精神を裏付けるもので あるが、オルガナイザー的活動を主体としたという点で企業家活動とは異なる特徴を見 いだせる。企業家活動は一般的に革新、組織の維持・拡大を見据えているのに対し、伊 谷はより大局的視点に立ち、企業間、あるいは企業家間の人的・物的・資金的支援を促 し、業界全体の活性化を図った。

伊谷がオルガナイザーとしての役割に徹したことは、水産講習所が水産実業従事者の 育成を大きな柱としていたこと、水産業振興を企図する官吏たちに四六時中囲まれてい たという伊谷の職務環境を考慮すれば当然の帰結といえる。とはいえ本人の高い志、強 い意志がなければでき得ないことであろう。伊谷が高い志を持つようになったのは岡本 柳之助からの影響が大であったと推察するが、より具体的な要因は日清戦争時における 軍納缶詰製造の指導体験をきっかけとして、国事意識を増進させたことにあったと考え る。その後さらに日露戦争における軍納缶詰製造、およびセントルイス博覧会とアメリ カ視察を機に、水産物輸出拡大に心血を注ごうと決心したことにあったと考える。

こうした環境要因が重なり、伊谷は比較的早い段階からオルガナイザー的役割を果た し続けることになったのではないだろうか。もちろん年を経て経験や実績を積むととも に業界における存在感を高め、それにより業界への影響力や求心力も強くなっていった であろう。それは伊谷の水産業振興活動の成果に大きな影響を与えたと考えられる。一 方で、政財界含め業界のさまざまな個人や組織とのつながりを早い段階から身近に持つ ことができたこと、そうしたつながりの中で信頼を獲得すると同時に自ら積極的に活用 したことが、伊谷のオルガナイザー的活動を早くから確立させ、機能させたものと考え る。

教職者という立場でオルガナイザー的役割を果たしたのは、私心をはさまず純粋に業 界のことを考えて惜しみなく力を投入しようという姿勢、人材養成に直に注力しようと の意志からからくるものであったと考えられることは先述のとおりである。併せてそこ に企業家精神を伴っていたことにより具体的な事業化の可能性を広げ、伊谷への信頼感 を高めることにつながった。それが結果としてオルガナイザーとしての役割に人々が協 力し、より大きな効果と影響を発揮するに至り、水産業振興の功労者として後世にまで 語られる存在になったものと考える。

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 87-93)