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水産行政の展開過程

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 31-37)

第 2 章 水産講習所が水産業に及ぼした影響

第 1 節 明治・大正時代の水産事情

1. 水産行政の展開過程

1-1. 明治期の勧業政策と水産業振興の遅れ

日本は明治新政府の下で富国強兵、殖産興業を合言葉に、近代国家建設と国力増強に 乗り出した。殖産興業は産業発展による富国と国際的地位向上を目指したもので、さま ざまな勧業政策を展開した。明治初期の勧業政策は工部省と内務省を中心に行われ、行 政面における水産業振興は工業・農業と比べて大きく出遅れた。

農商務省の統計表に漁獲高の統計数字が示されたのは1894(明治27)年であるが、

以降1909 年ごろまでは横ばいを続けていた(図1 参照)。二野瓶(1979、P.467)は、

「いつごろから漁業生産がこのような伸び悩み状態に入ったかを、数量的に確定しうる 手段はない」とした上で、「全国総量でいえば、おそらく明治期における漁業生産は当 初から停滞していたとみてよいだろうし、結果的にみればそれを打ち破るために、ほと んど明治全期を費さなければならなかった」としている。

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図 1 明治期の漁獲高推移

水産業振興が工業や農業に比べて遅れた理由は何であろうか。山口(1948、P.9)は

「漁場は原始時代を除けば、田畑ほど重要な生産手段でなかつたことである。言うまで もなく、農業生産は原始社會及び資本主義社會を除く各時代に於ける最大の生産であり、

貴族國家又は封建的支配者の主要な財源であつたが故に、田畑は勿論、山野も主要な部 分は支配者の所有するところであつた。これに反し、漁場は全軆として農業ほど重要な 生産でなかつたがため、地付漁場の所有如何は土地のそれほど重要な社會的意義をもた ず、従つてそれに對する支配者の關心も比較的薄かつたかに思われる」としており、重 農政策の下での歴史的な水産業への関心の低さを指摘している。また桑田(1942、

P.P.13-14)は、「徳川幕府二百年に亙る鎖國令に妨げられて、海外に雄飛する機會を失 ひ、空しく昔ながらの沿岸漁業を營むの外なかつた日本の水産業は、明治維新の暁鐘を 聞いても、なほ當分は起ち上る機會に恵まれなかつたのである」とし、鎖国による水産 業の遅れの影響を指摘している。かつ「地形的には、本来海洋國である日本に住みなが ら、南方の人は北邊の水族を知らず、北方の人は南海の魚を味はずといふ、今日から考 へれば、まことに夢のやうな狀態であつた。何しろ、明治十年までは、一體日本でどの 位水産物が獲れるのか、それさへ判然としなかつたのである」としており、殊漁業に関 しては旧藩体制を長く引きずっていたために国家を挙げての水産業勃興には程遠い状 態であったことが分かる。

明治政府が漁業において旧藩の境界を基準とする封建的な領有体制を海面官有に変 えたのは、1875 年のことである。それでも政府は依然として各地の漁業を実態的に掌 握することはできず、翌年には府県税の賦課や漁業取締などを適宜地方に委任し、実質 的に地方ごとの旧来慣習を認めることとなった。こうした状況は旧漁業法(注20)制定ま

(注20)二野瓶(1979、P.509)は1901年公布の旧漁業法について「いまでは明治旧漁

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で続くこととなり、水産業近代化の遅れにつながった。

明治政府の省庁内に水産専門部局が設置されたのは 1877年のことであり、内務省勧 農局に水産行政を司る水産掛が新設された。その契機は、後に水産伝習所初代所長とな る関沢明清が、時の内務卿・大久保利通に水産業振興の重要性を説いたことであった。

関沢は 1873 年にウィーンで開催された万国博覧会、および 1876年にフィラデルフィ アで開催された万国博覧会で世界各国の先進漁業技術と水産業発達の現状に触れ、日本 の水産業の遅れを実感した。それが水産部局独立の建議につながり、自ら初代水産掛長 に就任することになった。そして水産掛は 1880年に水産課に昇格し、調整・漁撈・採 藻・蕃殖の4掛が置かれた。

翌1881 年の農商務省の新設に伴い内務省勧農局の事務は農商務省に引き継がれ、同 省農務局の分課として水産課が設置された。水産課には調整・漁撈・採藻・蕃殖・試製 の 5 掛が置かれた。政府は折からの財政悪化の立て直しの一環として「官業払下規則」

を公布して国内産業育成政策の大転換を行うとともに、各省管掌事務の見直しも行って 農商務省の新設につながったものである。ここにようやく水産行政は本格化した。さら に 1885年に農務局水産課が廃止となり、代わって水産局が新設された。局内の分課と して漁労、試業、庶務の3課と水産陳列所が設置され、水産行政体制はさらに整備・拡 充された。

ところで上山(1975、P.P.49-50)は、内務省は勧業政策を官営模範施設、補助金貸付 金、府県勧業、直輸出などによって展開した結果、「実業者は伝習施設を通じて、ある いは模範的な施設を見聞してそれを取り入れるといった受動的立場においてのみ勧業 行政に参加するにとどめられていた」などの問題点が生じたため、農事会や農談会、共 進会を奨励して「人民ノ自為独立」、「競進ノ気勢」を創出し、実業者自身が殖産興業の 担い手になって富国を達成する方向へと政策転換しつつあり、それが農商務省設立の一 要因となったと指摘している。農商務省設立以降に勧業政策が推進された水産業におい ては、結果としてより効率的な政策展開が図られることになったとの見方もできる。

1886 年、農商務省は漁場占有利用関係の統轄と漁業調整の円滑化を企図して漁業組 合準則を公布した。当時は町村が漁業者の強力な共同体であり、町村間における紛争の 解決や調整は大きな課題であった。漁業組合準則の公布により、漁業者は適宜区画を定 めて組合を設立し、漁場区域や捕魚採藻の季節、漁具漁法や採藻の制限などを含む規約 を作成して管轄庁認可を得ることになった。同準則は町村間の調整および各府県の漁業 取締の基礎となり、江戸時代からの慣習を打破する糸口になった。

1-2. 水産行政の後退と発展的展開

大日本水産会は1889(明治22)年に水産伝習所の開設に漕ぎ着けたが、翌1890年6 月、農商務省官制改正によりに水産局が廃止となり、水産関係は農務局水産課の管轄と なった。活発化の兆しを見せていた水産行政が再び後退の憂き目を見たのである。その 背景には、不況に伴う世情不安定と緊縮財政があった。それに不満を持った水産業界は 大日本水産会を中心に水産局の復活を要望したが、既に決定したことであり容易に覆す 業法というべきかも知れない」としているが、本論文では「旧漁業法」で統一する

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ことはできなかった。その後も繰り返し復活の要望をした結果、水産局に代わる水産調 査所の新設計画が俎上に上った。紆余曲折があったものの1893 年に水産調査所が開設 となり、調査と試験に関する審議機関として水産調査委員会が水産調査所に付設された。

1897 年を境に水産行政は大きな転換期を迎えた。この年水産局が復活して漁撈と水 産の2課が設けられ、かつ遠洋漁業奨励法および旧漁業法が成立となった。

遠洋漁業奨励法は 1897年に公布、翌年施行された。同法の目的は日本近海に進出し てきた外国船への対抗であり、また、古来の沿海漁業にとどまらず、遠洋漁業推進によ る水産業発展を企図したものであった。同法成立により特定事業者に奨励金が交付され たが、奨励金交付対象漁船を小型化することによる遠洋漁業の拡充を狙い、度々改正さ れた。

旧漁業法は漁民の利益保護と資源繁殖、国際的に太刀打ちできる水産業振興のため、

旧態依然の体制を改める必要性の高まりから制定された。二野瓶(1979、P.P.499-500)

によれば、旧漁業法制定の必要性は主に3点であった。1つは漁業生産が停滞する中で の漁業資源保護と漁場占有利用を巡る紛争の解決・調整の必要性、2つ目は 1889 年の 帝国憲法の発布と民法制定に向けての動きの下での近代法体制整備の必要性、3 つ目は 同じく1889年の市制・町村制施行に伴う旧来共同体との調整の必要性である。

旧漁業法制定への動きは10年前にさかのぼり、1891年に農商務大臣の陸奥宗光が水 産者会合の席上で「漁業上立法の要旨」と題する草稿を秘書官に代読させたのが漁業法 制定に関する最も早い政府見解とされる(注21)。続いて1893年に村田保がわが国最初の 漁業法案を帝国議会貴族院に上程したのを機に幾度もの審議・修正を繰り返し、1901 年に旧漁業法が公布、翌年に施行された。ここにようやく全国統一的な法制度が敷かれ た。

旧漁業法は1910 年に改正され、漁業権を物件とみなして土地と同様担保に供するこ と、組合における経済事業運営が可能となり、さらに漁業取締が強化された。そのほか 従来法の不備を補充し、資本主義経済と水産業発達に沿うものとなった。

大正期には法的整備がさらに進んで遠洋漁業が盛んになり、大資本による漁業会社が 設立されるなど日本の水産業は大きく発展した。1919 年より水産局は年に一度の水産 協議会を開催した。メンバーは地方庁の水産主任、水産講習所長、試験場長で、水産関 連問題について諮問を行った。そうした会合はそれまでも存在していたが、これを機に 行政上の事務的打ち合わせ会議として制度化されたとされる(注22)。政府は生産量促進策 を展開すると同時に、乱獲の防止や流通の拡充などにも力を入れた。1923(大正 12)

年に水産冷蔵奨励規則が公布となり、大型冷蔵運搬船や冷蔵庫、貯氷庫の建設が奨励さ れ、需要と供給の調整が図られた。その結果、沿岸・沖合漁業の急速な発展に加えて遠 洋漁業も活性化し、1910年に100万トン以下であった漁獲量は1926年にほぼ300万 トン台にまでなった(注23)。1923 年末現在、水産会社数は漁労、採藻、養殖関連が 230 社、缶詰、製造、販売関連が285社に上り、資本総額は前者が約8,501万円、後者が約

(注21)二野瓶(1979、P.498)

(注22)高山/日本農業研究所『農林水産省百年史』編纂委員会編(1980、P. P.499-500)

(注23)同上(P.490)

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 31-37)