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事業領域の拡大 3-1. 全国的事業展開

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 107-111)

第 3 節 企業家活動と業績

3. 事業領域の拡大 3-1. 全国的事業展開

高品質で低価格な東洋製罐のサニタリー缶が次第に評価されるようになり、1919(大

正 8)年に函館工場を操業するに至った。当時函館では日魯漁業と輸出食品がそれぞれ

大規模な製缶工場を稼働させていた。高碕は両社に缶詰製造業と製缶業の完全分離を提 案し、東洋製罐が両社へ一手に缶を供給する条件で両社の製缶工場を譲り受けて函館工 場とした。その後両社の事業が小樽に及ぶと、1921 年に東洋製罐も小樽に工場を設置 した。その折、輸出食品と勘察加漁業株式会社が日魯漁業に合併して日魯漁業株式会社 となり、それを機に東洋製罐は北海道から手を引き、北海道の製缶事業を日魯漁業に譲 渡することを決めた。日魯漁業は北海製罐倉庫株式会社(現・北海製罐株式会社)を設 立したが、間もなく北洋漁業の著しい発展に伴って製缶需要が増大し、1925 年に地元 業者の共同出資を東洋製罐と北海製罐倉庫が援助する形で日本製罐株式会社を設立し た。

1920年に東京工場を設置し、さらに翌1921年、当時軍用缶詰の主要生産地であった 広島に地元資本の缶詰会社と折半で広島製罐株式会社を設立した。両工場は「サニタリ ー式罐詰用空罐製作ノ事業ハ前期末に引續キ各方面ノ注文杜絶スルコトナク操業ヲ連 續セリ、罐詰一般ノ市況ハ前期末に比シ益々好況ヲ呈シタ」結果、「茲ニ於テ當社ハ東 京及廣島方面ノ空罐需要家ノ希望ヲ充ス爲此方面ニ於テ分工場ヲ設置スルノ必要ヲ感 ジ再三調査ノ上」(注158設置したものである。さらに1922年に台湾製罐株式会社を設立

(注157)東洋製罐第弐拾参回営業報告書(昭和3年度下半期、P.4)

(注158)東洋製罐第五回営業報告書(大正8年度下半期、P.P.2-3)

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図 7 東洋製罐収益と全国缶壜詰生産高推移

(1925年に合併)、1923年に名古屋製罐倉庫株式会社を設立、1926年に仙台に工場を 設置した。名古屋製罐倉庫設立は、それまで大阪工場で対応していた名古屋市近辺の需 要家より「空罐ノ供給ヲ圓滑ナラシムルタメ名古屋製罐倉庫株式会社創立ノ希望アリシ カバ當會社ハ之レヲ慫慂シ當社モ其一部分ノ株主トナ」(注159ったものである。また仙 台工場は「近年同地方ニ於ケル水産物罐詰業ノ急速發達ニ鑑ミ」(注160て設置したもの である。その前段として1923年3月に仙台に東北出張所を設け、目的を「東北地方ニ 於ケル空罐需要ヲ喚起セシメ配給ノ圓滑ヲ司リ賣掛金ノ回収等ノ便ヲ圖ル」(注161とし ており、需要喚起を明言している。その後も 1929年に日本水産と共同出資で戸畑製罐 株式会社を設立、1937年に清水工場を設置、1939年には大連に満州製罐株式会社を設 立するなど、逐次事業を拡大していった。

東洋製罐の売上は大正13年度(1923年12月1日~1924年11月30日)に急増した

(図 7 参照)。前年の関東大震災を機として缶詰の消費量が増え、生活必需品として認 識され始めたことが大きな理由であった。関東大震災を契機とした缶詰の国内需要の伸 びはいわば偶発的な追い風である。震災の影響を除いて考えても缶詰産業の1920 年代 から 30 年代にかけての成長には目を見張るものがあり、国内消費量の増加以上に輸出 量が急伸した。特に1930 年代は円為替暴落を追い風に輸出量は大きく伸長し、缶詰市 場拡大に寄与した。こうした事業環境を勘案しつつ注目すべきは、東洋製罐が関東大震 災以前、すなわち創業の1917年から矢継ぎ早に拠点を拡大していったことである。

(注159)東洋製罐第拾弐回営業報告書(大正12年度上半期、P.4)

(注160)東洋製罐第拾八回営業報告書(大正15年度上半期、P.4)

(注161)東洋製罐第拾弐回営業報告書(大正12年度上半期、P.5)

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図 7 によれば、広島工場設置までの期間においては全国壜缶詰生産高は一進一退を繰り 返し、東洋製罐が需要拡大に伴って拠点を設置したというより、需要拡大を見越し、あ るいは需要喚起するための拠点設置を行い、それに従って収益を伸ばしたように推察さ れる。なお1922年の売上高の急落は北海道からの撤退によるもので、1924年の急拡大 は関東大震災による需要増が影響したものである。営業報告書にあるように、缶詰生産 技術の高度化や新商品開発・事業化を背景に各地方の需要家からの要請が増加傾向にあ り、かつその要望に応え迅速に供給することを目的に設置したとの記載に偽りはないに せよ、創業 2 年目より間断なく拠点を増やしているのは、市場開拓およびサニタリー缶 の普及による需要喚起の目的の方が大きかったのではないかと考える。また清水工場設 置に際して高碕は「静岡県の缶詰が年間八十万個になったら清水に工場を作ろう」と常々 業者に言っていた旨の記載がある(注162ことから、地域の缶詰業者と共に業界および地 域の活性化を図ろうとの意識を持っていたことが分かる。

3-2. 東洋鋼鈑設立

高碕が東洋製罐において缶型規格の統一に悩ませられたと同様、今一つの大きな問題 が原料であるブリキの安定供給であった。当時ブリキ原料はほとんど輸入で賄われてお り、国際経済の動向による購入単価の変動に対処しなければならなかった。もっとも会 社設立当初は、製缶価格の安定化のために変動の激しいブリキについては需要家から供 給を受けて一定の工賃で生産する方針をとった。しかし持ち込まれるブリキの品質が一 定ではなく品質面で支障を来したため、1921 年から缶詰業者の代理として東洋製罐が 一括してアメリカに発注し、相場変動リスクは缶詰業者が負うという方策をとった。以 降、缶詰業者のリスク低減のために、ブリキ供給および価格の安定化に一層力を注ぐこ とになる。

関東大震災で缶詰の需要が急激に高まりブリキ不足に直面すると、「農商務省水産局 ならびに大阪府当局者の援助を得て、地方産業保護ならびに物価調節の目的の下に陸軍 当局者に出願して陸軍貯蔵のブリキ板の臨時貸下を出願し、11月になって許可・指令を 得ることができたので、原料ブリキの不足をきたすことなく需要のすべてに答えること ができた。しかも他の鉄製品は 2~5 割の暴騰となったが、ブリキ板だけは市価を変動 させることなく震災前と同じ価格の空缶を需要者に供給することができた」(注163。さら に高碕は翌年渡米し、ユナイテッド・スチール・コーポレーションの協力を取り付けた。

あらかじめ一定量のブリキを納入してもらい、うち使用した分のみの支払いを行うこと、

価格変動があった場合には価格を低下するという条件で提携を行うことができた。

1930 年に高碕は欧米各国を歴訪してブリキについて調査を行った。ブリキ自給計画 のための調査であったとされるが、そのころは世界恐慌による各国の関税引き上げなど の問題が表出しており、輸入に頼らざるを得ないブリキの安定確保のための方策を求め たもの、あるいは後述の缶詰輸出をめぐる状況調査のためのものでもあった。翌 1931

(注162) 清水食品株式会社社史編集委員(1980、P.66)

(注163)『東洋製罐第拾参回営業報告書』(大正12年下期、P.P.2-3)

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図 8 東洋製罐販売収入と東洋鋼鈑ブリキ生産高推移

年も進藤義輔(注164を欧米に派遣し、混沌とするブリキ市況と品質に関する調査を行っ た。このころよりブリキ価格は概ね高騰傾向を示したため、1932 年にはやむを得ず値 上げの措置をとった。

そうした中、ブリキの自給について検討を始め、1929~31 年にかけてブリキ製造技 術習得のため従業員 4 人を八幡製鉄所に派遣した。その後計画は一時中断したが1933 年より進藤の下で再度計画を推進し、1934年に東洋鋼鈑を設立した。資本金は 500万 円、工場は広島の下松に設置し、高碕は代表取締役専務に、進藤は代表取締役常務に就 任した。主要機械類はアメリカより最新のものを購入して取りそろえ、電動機やガス発 生炉、ボイラーなどは国産一流メーカーのものを採用、加熱炉や焼鈍炉は自社製作した。

技術指導のためにアメリカより技師を招へいし、1935 年5 月に初出荷となった。そし て1937 年に低廉かつ品質の高いブリキの生産を可能とする最新のコールドミルの購入 を決定し、翌年9月に試運転、1939年5月に安定運用に漕ぎ着けた。

東洋製罐におけるブリキ需要の半量を東洋鋼鈑で製造することを目標としつつ、その 一方「東洋鋼鈑は試産を開始したが、欧米各国の関税政策は互恵や物々交換の様相もあ るので、社員を欧米に派遣して缶詰市況を調査させ、輸出缶詰に使用するブリキは相手 国より購入する原則の元にブリキ購入することにするなど、缶詰輸出増進に努め」(注165 たとあり、缶詰の輸出量確保を期して微妙な駆け引きを行っていたことがうかがえる。

(注164)進藤義輔は1917年に水産講習所製造科を卒業し、1919年に伊谷を介して東洋 製罐に入社。以降、高碕の右腕となる

(注165)『東洋製罐第参拾五回営業報告書』(昭和9年下期、P.4)

ドキュメント内 著者別名 SHIMAZU Atsuko (ページ 107-111)