第 3 節 企業家活動と業績
1. 東洋製罐を設立
高碕は製缶専業会社を立ち上げるべく大阪で準備に取り掛かった。メキシコやアメリ カでの経験を基に確信を得た、缶詰製造業と製缶業の分離独立のシステムを日本で確立 することを決意したのである。
缶詰製造業と製缶業の分離構想に基づく東洋製罐設立は高碕の発案ではないとする 資料も少なからずある。鍋島態道は「製罐会社をつくろうといって合併前に私の輸出食 品と堤の堤商会が争ったことがある。あれは大正四年から五年頃だったと思う。 当時 大阪の罐詰問屋で祭原、北村、徳田、木村という連中がいたが、この連中を相手にして 私は固定資産はオレ方が出すから運転資金を君等の方で出してくれないかと折衝した。
(注137)『缶詰時報』(第3巻7号、P.P.4-9)
(注138)高碕(1960、P.235)
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一方、堤の方では全部オレがやるといい出したが、大阪側では名前だけ連ねるのでは困 るといって、結局私の方でやることにした。これが東洋製罐が出来る最初である…(中 略)…高碕達之助はすぐにはならなかったが間もなく支配人となった。 いい出しッぺ は私だが、実際に今日の姿に築き上げたのは、この高碕だ」(注139)としている。高碕自 身もアメリカで缶詰製造と製缶の分離の必要性を感じたものの、帰国当時ははっきりと 何をするかは決めていなかったことを記している(注140)。帰国後はとりあえず輸出食品 に身を寄せ、カムチャツカで缶詰製造を手伝ったが、そのときの空き缶は堤商会がアメ リカン・キャン社から購入した機械で製造したものであり、製缶事業への夢をかき立て られたとしている。
阿部三虎(注141)は「最初、堤商会としては空缶を輸送する船腹をセーブするために、
製缶機械を漁場に設置して見たものの…(中略)…製缶機械を大正四年に根拠地の函館 へ移すことになった。 業界の空気、時代の流れは空缶事業を独立させる情勢に向いつ つあつたが、各工場としては製缶の設備はもとより、多数熟練職工を抱擁しているので、
直にサニタリー缶に乗換えるには人事問題やら情勢に対する思いやりやらの悩みがあ り、またサニタリー缶に対する不安もあった。…(中略)…内地市場に出廻っているサ ニタリー缶の多くは輸出不能の二等品の鮭缶詰であったので、サニタリー缶の信用は零 であった。それ故に、サニタリー缶を最初に売込むには巻締上の責任を負うのは無論の こと、その製品の販売まで世話する覚悟が必要であるが、そこまでふみ込むつもりがあ るなれば、この際関西へ製缶工場を設置すべきであるとの提案に対して、堤氏は大賛成 で直に機械をアメリカへ発注したのである。 ある日、鍋島氏から書面が来た。改って 何事であろうかと開封して見ると「このたび関西の業者を株主とする製缶会社を設立す るから君も参加せぬか」との勧誘状であった。時代の動きなるものは、誰の目にもかく も同様に映ずるものかと驚かされた。…(中略)…当時、堤商会と輸出食品会社との間 柄は幾分対抗的な処があったが、現場においてはそれ程でもなかった。…(中略)…実 際において日本人の漁場が片端からロシア人に取られていたので、このような空気のな かで、内地において両者が製缶事業の面で競り合うようなことがあっては国際的に非常 に不利を来すであろうと、冷静に考えられて来た――。…(中略)…堤商会では関西に おける空缶販売事業の担当者について物色したが、漁場の勇士は多士済々で如何なる難 局をも打破し得る陣容を整えていたが、北海製罐のような鮭缶の臍緒のついた経営とは 違い、関西人を向に廻して算盤をはぢいての真剣勝負に、われこそはと名乗を挙げて罷 り出る程の自信を持った種類の人物は見当たらなかった。却て下馬評に上がったのは、
当時輸出食品の席にあった、中村鉱太、荻野演一氏などであった。その時たまたま、高 碕達之助氏の話が出て、なる程、これこそは誰が見ても最適任であろうと、忽ち衆議が 一致したのであった」(注142)としている。しかも東洋製罐に最初に導入した機械につい て、高碕が「最初のものは函館の堤商会が、第二のものを大阪につくる予定だったうち
(注139)鍋島(1962、(13))
(注140)高碕達之助集刊行委員会(1965、上、P.P.110-111)
(注141)阿部三虎は横浜の貿易商セール・フレーザー商会でカムチャツカの鮭缶詰事業 などに関与。缶詰普及協会を設立して缶詰品質の向上と普及に注力した
(注142)阿部(1956、P.P.179-181)
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の工場にということで話し合った」(注143)としていることから、堤商会と輸出食品との 話し合いの末に、堤商会の了解を得て東洋製罐が設立されたということになる。
さらに渋川(1966、P.97)は平塚常次郎(注144)の大正5年の思い出ばなしとして、以 下を引用している。「高碕君は製罐業と罐詰業の分業を早くから唱え、胸中ひそかに製 罐会社の設立を描いていた。ところが、私たちも傍系の輸出食品会社の手で、関西に製 罐工場建設の計画を進めていた。すでにアメリカのアメリカン・キャン会社の製罐機械 の注文を発していた。したがって高碕君の計画と、計らずも競合することになった。と いっても、われわれの計画が、一歩先んじていたのだが。われわれの計画を知った高碕 君は、われわれの本拠地である函館にやってきた。そして発注ずみのアメリカン・キャ ンの製罐機械を譲渡してくれ、と、熱心に説いた…」。これによれば高碕は堤商会とも 輸出食品とも関係のないところで製缶専業企業設立を構想しており、しかも輸出食品に よる計画が履行されると高碕の計画は実現しないことから、発注済みの機械をそのまま 譲渡してほしいとの、いわば虫のいい話を高碕が平塚に持ち掛けたということになる。
それでも高碕の依頼が受け入れられたとし、その理由として「高碕は会社設立に先だつ 一年余り前に、平塚常次郎と肝胆相照す仲になっていた。両人が函館で合ったときは、
平塚は35歳、高碕は31歳であった。会見の席には平塚の義兄・堤清六も同席していた。
高碕の持論である製罐業と罐詰業の分業論には、心から賛同していた。日本の罐詰業の 将来の在り方として、当然、高碕のいう形によることは想像されるが、問題は、どのよ うに進めていくかにあった。 小野金六が東洋製罐の社長になることによって、製罐機 械の譲渡問題も自然に解決することになったが、堤、平塚の承諾なくしては、この問題 は解決しなかった。高碕の人柄に惚れ、ともに相携えて、業界の発展を誓いあった仲で あったことが、問題解決のカギとなったのだ」(注145)としている。
以上のことから推察されるのは、阿部のいうように「時代の流れは空缶事業を独立さ せる情勢に向いつつ」あり、堤も鍋島も共に伊谷の指導を受けていたこと、さらに高碕 がメキシコやアメリカの情報を伊谷に報告していたことを考え合わせると、かなり早い 時期から伊谷を取り巻く人々の間に製缶業分離独立の考えが浮上していたということ である。一連の事実関係は筆者の手元にある資料からは解明し切れていない。
いずれにしても高碕(1965、上、P.111)によれば、高碕は製缶事業計画を伊谷およ び輸出食品社長の小野金六に相談して了承を得、いよいよ具体的に資金集めに動き出す ことになった。小野は出資を承諾すると同時に、小林一三を紹介した。高碕は早々に小 林を訪ね、小野の代理人として小林の協力を取り付けた。このとき小林と高碕は初対面 であったが、短時間の間にお互いを認め合い、その後長く交流することになる。高碕は 小林の公私混同しない姿勢に敬服している。「小林さんという人は、公私を混淆しない 人だった。私は、この点、よく学ばなければならないことだと思った」(注146)とし、池 田成彬氏に頼まれて東電の社長になった小林が、公私の別をはっきりして一文もなおざ
(注143)東洋製罐(1997、P.14)
(注144)沿海州アムール河のほとりで堤清六と出会ったことを契機として、堤商会を設 立。堤とともに北洋漁業開拓に尽力し日魯漁業の基礎を築く
(注145)渋川(1966、P.98)
(注146)高碕(1959、P.70)
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りにせず、「濁は絶対に許さぬ」という姿勢を貫き、阪急の経営に当たっても社員にデ パートの割引購入はさせず、阪急の電車に社員はただで乗車するとの理由で絶対に座っ てはならないとしたことを高く評価している。また高碕は小林をフーバーと同様、「清 濁合わせのむ」ことのできない人柄と評している。小林には「実業家であって、清濁合 せ呑む親分の下には、濁だけが残って、清は去るのである」(注147)との持論があり、高 碕は小林から企業家としての倫理観の一端を教えられたものと考えられる。
小野および小林の協力が得られると、高碕は資本金集めに奔走した。高碕に用意でき る資本はなく、大阪の缶詰業者と缶詰問屋に依頼することとした。缶詰製造業と製缶業 の分離という新たな構想を説明し、それによって缶詰業界全体を活性化することが自分 の使命であるとの決意を述べて説得を行った。その熱意が伝わり、天満の問屋・徳田政 十郎、イカリソースの木村幸次郎、笠屋町の井上吉松、祭原商店の祭原彌三郎、天満の 乾物屋・北村芳三郎、松下商店の岩井支配人らが出資をすることになり、同時に発起人 も引き受けた。不足分は輸出食品が出資することになった。高碕はこのときの資金集め の苦しさを永久に忘れることができないとしている。
高碕の出資交渉は鍋島のいう「当時大阪の罐詰問屋で祭原、北村、徳田、木村という 連中がいたが、この連中を相手にして私は固定資産はオレ方が出すから運転資金を君等 の方で出してくれないかと折衝した」ことと重なっている。何が事実であったかに疑問 は残るが、東洋製罐の経営実務の一切を高碕が取り仕切ったということは間違いない。
高碕が伊谷、あるいは堤商会と輸出食品会社の協力を得、実務の全てを動かすことにな ったものと推察する。支配人として事業運営のみならず経営全般を任された高碕を設立 者と称することの可否は検討の余地はあると考えるが、『東洋製罐50年の歩み』では高 碕を「創設者」あるいは「創立者」としており、『東洋製罐八十年の歩み』には歴代代 表者の筆頭に高碕が掲載されている。高碕が多数の援助者の協力を得ながら東洋製罐の 創設に尽力し、草創期の経営の全責任を負っていたことは事実であるため、本研究では 高碕を創業企業家と捉える。
1917(大正6)年6月25日に東洋製罐株式会社の創立総会を開催した。取締役会長
に小野金六、取締役に鍋島態道、小林一三ら6名、監査役に高橋熊三ら3名、高碕は支 配人に就任した。工場は大阪市北区の元小学校を払い下げてもらった。
ところが第一次世界大戦の影響でアメリカからの機械の到着が遅れた。製缶事業に着 手できず、高碕は考えあぐねた末にアメリカから石油の古缶を買い入れて再生し、日本 で売って糊口こ こ うをしのいだ。またペイント業者と提携してブリキ板や薄鉄板の供給を受け てペイント缶を製作したり、陸軍に乾燥野菜や甘味品、塩乾魚などの容器を納入したり、
大小さまざまな依頼に応じて仕事を確保し、何とか配当を捻出した。その際、各国機械 のカタログを見ながら独自でハンドシーマー(缶にふたを巻き締める装置)を製作して 使用し、また水産講習所にあった自動製缶機を借用して生産に利用した。苦境の中にあ って高碕は仕事をかき集め、設立間もない東洋製罐の黒字を確保した。
(注147)高碕(1961、P.105)