第 4 章 高碕、國司、中島の企業家活動にみる成功の要因
第 1 節 5 つの共通項にみる成功要因分析
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の 2 つの側面からのアプローチを意図している。社会的環境下における主体性の発揮 と貫徹を浮き彫りにし、三者三様の企業家活動の比較検討からより普遍的な成功要因 を導こうとするものである。その上であらためて3人の成功までの道筋をまとめ直し、
3人を成功にまで駆り立てた企業に対する思いれの強さ、企業にかける行動力を生む精 神的支柱がどこにあるのかを探り、創業企業家としての成功の要因を導くものとする。
2. 水産講習所 2-1. 成功の因子
3人が水産講習所に入学したのは、国策としての水産業振興が展開される中、私立の 水産伝習所が官立となってわずか数年後のことであった。水産講習所設立後しばらくは 水産調査所長が所長を兼任しており、初代専任所長の松原が就任したのは 1903 年、3 人が入学する数年前のことである。このころは第1部第2章第3節で考察したとおり、
人材速成を期して実学中心の教育を行いつつ、学理へのシフトを指向し始めた時期であ る。松原は学校改革に果敢に挑むが、その効果が出るまでにしばらく年月を要したと考 えると、3人の在学中は水産専門学校としての完成度はまだ低かったものと考えられる。
高碕は教育程度の低さに落胆したと述懐しており、他の卒業生の中にも同様の思いを 抱いていた者がいる。ただし、松原はじめ水産講習所の教職員たちの水産教育にかける 意気込みは並々ならぬものであった。事実、國司から水産講習所進学を検討するに際し 相談を受けた鮎川は、松原の熱意に動かされて水産業への見方を180度転換させその重 要性を認識するようになった。
松原は水産講習所の前身である水産伝習所の設立を実現させた当事者の一人であり、
水産専門教育機関の創設は松原なしに実現しなかったといい得るほどの働きをした。松 原の水産講習所における人材に対する考え方の一端は、水産講習所の実習船雲鷹丸が最 初の実習航海に出る際の訓示に見ることができる。それによれば、松原は生徒を「国家 的見地よりすれば水産界に於ける尤も有用の人」と捉え、実習船の任務を漁業の練習、
水産調査と並んで「事業に關し世界的の人物を作るを以て目的とす」としている。さら に、実習船が贅沢であるとの世評に対し「本所は從來經費の許す限り凡ての方面に於て 完備を期し、完全なる設備を以て完全なる人物を作るを大方針とす、盡し完全に養成せ られたる人物にして始て不充分なる境遇に立て錯誤なきことを得ればなり」としている
(注289)。世界に比肩する人材を輩出するために、道義心と矜持に基づく高い人格形成を 望む強い気持ちを垣間見ることができる。
こうした指導体制の下で教職員、生徒共に水産業をして国に奉仕すべく気概や志は高 揚し、第1部第2章第5節にみたとおり学生気質はナショナリズムと企業家精神に満ち あふれ、自主独立と連帯の気風が培われた。加えて官立となって授業料は無料となり、
生徒たちは国費で専門教育を受けることの意味を深く受け止めていた。3 人が水産講習 所で学んだのは、日露戦争後の露領権益の獲得を機に遠洋漁業の伸長とともに水産業の 近代化がまさに図られんとする時期である。水産界の先導者育成機関としての役割を担 うことを前面に打ち出し始めた水産講習所の生徒たちの士気は、いやが上にも国益への
(注289)大日本水産會(1892、P.P.9-10)
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貢献を見据えることにつながったものと考えられる。
第1部第3章第3節で考察したとおり、伊谷は生徒取締主任として生徒の指導に熱心 に当たり、教え子を惜しみなく支援をした。学生寮と同じ敷地内の官舎を住居とし、寮 生活を送っていた生徒たちとは寝食を共にしないまでもそれに近い立場で接し、伊谷の 人格に触れた生徒たちは精神面において強く影響を受けた。それは伊谷死去の折に発行 された『缶詰時報』や『水産界』などの伊谷追悼号に寄せられた追悼文からも明らかで ある。伊谷はオルガナイザーとして人と人をつなぎ、それが水産講習所を軸とした人的 ネットワークとなり、また、伊谷の民間に対する技術支援を通じて人的ネットワークは さらに強化された。それが水産界で活躍する卒業生たちにとって大いなる力となった。
2-2. 成功の因子へのアプローチ
高碕は胸膨らませて入学した水産講習所の教育レベルの低さに落胆したが、独自で専 門家の下に通って専門知識を深め、後に缶詰製造に携わる際の学術的基礎とした。それ は高碕の向上心の表れと捉えることができ、高碕は水産講習所の教育レベルの低さを自 身の研究熱に転換させたといえる。向上心は高碕が就職して以降、起業後にあっても、
あるいは政治活動に身を投じた以降も引き継がれる。さらに高碕が水産講習所で得た何 よりの収穫は、実習の延長で軍納缶詰製造に従事して国家貢献への喜びを実感したこと、
そして学業が実業に結び付く道筋を見いだし、かつ、実業は国益志向であるべきとの確 信を得たことであった。もとより水産講習所で缶詰製造を主導し外貨獲得産業として缶 詰製造の重要性を主張していた伊谷に信頼を寄せていた高碕は、伊谷の勧めで缶詰製造 会社に就職する。また主に伊谷を主軸とした水産講習所の人脈が、東洋製罐の設立と事 業運営に大きく寄与することになる。東洋製罐設立時に直接関わった鍋島態道はもとよ り、伊谷に露領における紅鮭缶詰製造の指導を仰いだ堤清六、あるいは平塚常次郎など、
競合関係となる人材との交流も共に缶詰産業を活性化していく上で欠くべからず重要 な存在であった。水産講習所を介した人的ネットワークを事業展開における資源として 大いに活用したということである。
國司は水産講習所の実習でトロール漁業に従事し、後にそのときのトロール漁業がい かに幼稚であったかを実感したとしている。水産講習所は政府の遠洋漁業奨励策と歩を 一にして遠洋漁業者育成に力を入れており、それを受けて國司は漁労科から遠洋漁業科 に進み、トロール漁業を学ぶべくイギリスに留学を果たす。國司が水産講習所について 自ら語っている資料はあまりないため推測の域を出ないが、水産講習所での実習経験が トロール事業へと進む発端になり、國司とトロール漁業を結び付けたのではないかと考 える。また林田甚八、岩本千代馬、植木憲吉、蓑田静男、飯山太平ら、水産講習所出身 者の多くが後に共同漁業に入社して経営を担い、國司は有能な人材に支えられて事業展 開する。國司も高碕と同様に水産講習所で自らの進路の方向性を定め、水産講習所で得 た人的ネットワークを事業展開上で活用したのである。
中島が水産講習所に入学したのは水泳が好きであるというのが理由であったと本人 が言っており、中島に関しては高碕や國司のように水産業を発展させて国家に尽くすと いった積極的な理由は見当たらない。在学中は水泳と船の腕を磨き、水産業界で活躍す ることになる逸材たちとの交流を深めた。後の缶詰品質向上活動においてはサニタリー
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缶の普及を軸に高碕と志を一にし、経営難に陥ったときには金銭的支援も受けた。また 水産業に携わることになる若菜商店就職時には伊谷を介して星野佐紀の斡旋を受け、中 島商店設立に際しての資金は伊谷を介して中村嘉壽の支援を得た。堤商会と共同で立ち 上げた開進組は水産講習所出身の中島吉十郎に託し、また旗道園はやはり水産講習所出 身の廿日出要之進に委ねた。水産講習所を軸にした人的ネットワークは高碕や國司同様、
事業経営の上でさまざまな形で中島を支えることになった。また伊谷の助力があって就 職した若菜商店での経験を通し、国産缶詰の品質にこだわる姿勢を形づくった。その背 景には伊谷の北洋漁業開拓への強い思いがあり、それが中島のナショナリズム実現の発 端になった。伊谷からの影響を強く受けて進んだ缶詰産業への道であったが、中島は缶 詰卸商の仕事に能動的に意義を見いだした。同じく伊谷の勧めで北洋缶詰製造に携わっ た経験を、独立後に缶詰製造、ひいてはマヨネーズ製造に参入する下地とした。
気概が先行する形で生徒たちのナショナリズムと企業家精神が助長された水産講習 所で3人は水産に従事する者としての責任を自覚し、水産講習所で進むべき方向を定め、
卒業後に国益を強く意識した事業展開を行った。また高碕と國司は実理中心の教育方針 の下での実習経験から、企業の可能性を何らか感じ取っている。水産講習所で築いた人 的ネットワークを事業経営に生かしたことも、3人に共通する点である。特に高碕と中 島は独立起業に際して水産講習所の人脈による支援を大きく受けた。人的資源に恵まれ たのは伊谷の助力のたまものであり、水産講習所の同窓生同士の強い結び付きに支えら れたものであったが、3人が水産企業家として協力するにふさわしいと認められた結果 であったともいうことができる。
3. 海外留学 3-1. 成功の因子
明治期の富国・勧業政策は欧米へのキャッチアップが合言葉となり、海外へのアクセ スの障壁を下げることにつながった。海外からの先進技術や設備の移入、海外視察や留 学も国が推進することにより道が開かれた。海外留学は企業家にグローバルな視点、グ ローバルな事業展開の機会を提供した。海外の先進技術やノウハウを日本に適合させる ことにより、日本独自の事業モデルの創出が活発化した。
欧米諸国へのキャッチアップは日本の国力増強を目的としたものであり、企業家は海 外を見聞することによって日本の後進性を自覚し、一層ナショナリズムを高揚させられ たと考えられる。
3-2. 成功の因子へのアプローチ
高碕は伊谷の斡旋でメキシコの会社に就職し、缶詰工場の設営から運営までを手掛け た。メキシコは事業を行う土壌が整っているとはいえず、ほとんど無に近い状態から生 産工場を立ち上げ、事業の実務を重ねた。高碕はこの経験を起業時、あるいは経営実務 面で生かしたものと考えられる。そのほか、やはり伊谷の助力の下で邦人事業家と共に 事業展開したり、あるいは日本の水産事業に結び付けるための現地調査を実施した。そ の根底には日本の水産業発展につなげようとの意識が常にあった。メキシコ革命を機に アメリカに渡った際に出会ったハーバート・フーバーからは、高碕の事業観を強く規定