第Ⅳ章 紛争管理のためのガバナンス論
2. 平和構築と民主主義:理論と経験[水田慎一]
2.3 具体的事例の検証−カンボジアとエルサルバドル
2.3.1 カンボジア
(1)カンボジア和平合意と民主化方針
1991 年 10 月 23 日、カンボジア及び 18 の諸外国27は、カンボジア紛争の包括的政治解
27 オーストラリア、ブルネイ、カナダ、中国、フランス、インド、インドネシア、日本、ラオ ス、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ソビエト連邦、英国、米国、ベトナム、ユ ーゴスラビア(非同盟運動(Non-Aligned Movement: NAM)代表)の 18 カ国。
第Ⅳ章 紛争管理のためのガバナンス論(平和構築と民主主義・水田) 101
決に関 する 諸合意 (Agreements on a Comprehensive Political Settlements of the Cambodia Conflict)に署名した28。この合意はカンボジアを取り巻く国際情勢の変化と国 際社会による仲介努力が結実したものであった。パリ和平合意では、カンボジアに平和を 実現するために民主化を進めることが合意された。カンボジアに民主化を実現するという 目標とプロセスは、パリ和平合意諸文書のうち、「カンボジア紛争の包括的政治的解決に関 する合意(Agreement on a Comprehensive Political Settlement of the Cambodia Conflict)」(以下、政治解決合意と呼ぶ)に定められた29。
まず、政治解決合意の前文では、「カンボジアにおける平和の回復と維持を切望し、民族 和解を促進し、自由かつ公平な選挙を通じた自決権の行使を確保する」と述べられ、自由 かつ公平な選挙の実施が目標として定められた。
つづいて、政治解決合意の第 1 条では、移行期間における流れとして、「国連によって組 織され確証された自由かつ公平な選挙を通じて憲法制定議会が選出され、憲法を制定し、
同議会は立法議会に改編され、その後に新政府が定められる」と規定された。
一方、このプロセスを支援するために、政治解決合意の第 2 条は、国連安全保障理事会に 対し、国連カンボジア暫定統治機構(United Nations Transitional Authority in Cambodia:
UNTAC)の設立を求めた。さらに、政治解決合意は、第 1 条で定めた民主化プロセスを実 現するために UNTAC に対して積極的な役割を求めた。
さらに、政治解決合意第 6 条は、「自由かつ公平な選挙に適した(conductive)中立的政 治環境(neutral political environment)を確保する」ため、選挙結果に影響を与えうる行 政機関及び関連組織・事務所を国連による「直接の監督又は管理の下に置く」と定めた。
同条は、また、外交、国防、財政、公安、広報には特別の注意が向けられる必要があると し、UNTAC は、「これらに責任を持つ行政府の厳格な中立性が確保されるよう必要なコン トロールを行使する必要がある」と定めた。
28 同諸合意は、①カンボジアに関するパリ和平会議にかかる最終合意、②包括的政治解決に関 する合意及び附属書(附属書1:国連カンボジア暫定統治機構(United Nations Transitional Authority in Cambodia: UNTAC)の権限、附属書2:撤退、停戦及び関連措置、附属書3:
選挙、附属書4:カンボジア難民・避難民の帰還、附属書5:カンボジアの新憲法に関する原則)、
③カンボジアの主権、独立、領土的一体性・不可侵性、中立性及び民族一体性に関する合意、④ カンボジアの復旧・復興に関する宣言、から構成される(United Nations, 1992, Agreements on a Comprehensive Political Settlement of the Cambodia Conflict, New York: United Nations Department of Public Information, United Nations)。
29 United Nations 1992, Chapter 2
102 第Ⅳ章 紛争管理のためのガバナンス論(平和構築と民主主義・水田)
(2)カンボジアにおける民主化プロセスの到達点
1993 年 5 月 23 日から 28 日にかけてカンボジアでは憲法制定議会(constituent assembly)選挙が実施された。選挙前のカンボジアの政治環境は決して好ましいものでは なかった。ベトナム系住民の虐殺、国連部隊及び文民職員に対する攻撃、相対立する政治 政党間の嫌がらせや武力衝突などが起こっていた30。このような中、選挙の実施は危ぶまれ たが、結果として選挙は実施された。この選挙については予定通りに実施されたことをも って“成功”31と呼ぶ意見がある一方で、“事実上の戦争(virtually state of war)”が発生して いる中立的な政治環境が“完全に不在(entirely absent)”の中で実施されたという批判もな されている32。
パリ和平会議に参加したカンボジア 4 派のうち、唯一、ポル・ポト派(クメール・ルージ ュ)だけは選挙に参加しなかった。選挙に向けた政治プロセスの段階で、クメール・ルー ジュは UNTAC への協力を拒否し、UNTAC はクメール・ルージュを政治プロセスから除 外する決断を行ったからである33。したがって、1993 年 5 月の選挙は、主としてクメール・
ルージュを除く残りの 3 派によって争われた。まず、旧ヘン・サムリン政権の派閥は、フ ン・セン前首相を党首とするカンボジア人民党(Cambodian People’s Party: CPP)を立ち 上げて選挙戦に臨んだ。次に、旧シアヌーク派からは、シアヌークの息子のラナリッドが 党首をつとめるフンシンペック党(Front Uni National Pour Un Cambodge Independent, Neutre, Pacifique et Cooperatif: FUNCINPEC)が選挙に参加した。また、ソン・サンは 仏教自由民主党(Buddhist Liberal Democratic Party: BLDP)を立ち上げた。
これらの政党が選挙戦を戦った結果、フンシンペック党は 45.47%の得票率で 120 議席中 58 議席を獲得し第 1 党となり、CPP が 38.23%の得票率で 51 議席を獲得して第 2 党とな
30 Michael W. Doyle, 1995, UN Peacekeeping in Cambodia: UNTAC’s Civil Mandate, Boulder, Colo.: Lynne Rienner Publishers, p.13
31 Ibid.
32 Asia Watch, “Cambodia: human rights before and after the elections”, Asia Watch, vol. 5, no. 10 (May 1993), pp. 1, 8. cited in Trevor Findlay, 1995, Cambodia: The Legacy and Lessons of UNTAC – SIPRI Research Report No. 9 ,Stockholm: Stockholm International Peace Research Institute: SIPRI, p. 89
33 UNTAC 内部においては、武装解除を拒否するクメール・ルージュへの対応策として三つの選 択肢が考えられた。すなわち、①撤退する、②執行権限を行使する、③離脱した武装勢力(クメ ール・ルージュ)を無視し、民主化のモメンタムができるという希望の下で選挙に進む、という ものであった。このうち、UNTAC は③を選択した。(John Sanderson, 2001, “The Cambodian Experience: A Success Story Still?” In Thakur, Ramesh and Albrecht Schnabel eds. 2001, United Nations Peacekeeping Operations: Ad Hoc Missions, Permanent Engagement, Tokyo: United Nations University Press, p.161)
第Ⅳ章 紛争管理のためのガバナンス論(平和構築と民主主義・水田) 103
った34。このようにいずれの党も過半数が得られない中、当事者間の駆け引きを経て結果的 には、第 1 党であるフンシンペック党の党首ラナリッドを第 1 首相、CPP 党首のフン・セ ンを第2首相とする連立政権を樹立した。このような流れを受けて、UNTAC は 1993 年 9 月に任務を終了し撤退した。
以上のように、カンボジアにおいては、UNTAC の下で、自由かつ公平であったとはいえ ないまでも、一応予定していたとおりに選挙が実施され、選挙結果を尊重した形で新たな 政権が発足した。すなわち、UNTAC 撤退の時点まではパリ和平合意の目標であった“民主 化”が一定程度前進していたとみなすことができるが、その後のカンボジアの民主化状況は 芳しいものではない。その最たる例は、1997 年のフン・セン第二首相による政変である。
1997 年 7 月、フン・セン第二首相とラナリッド第一首相との間で武力衝突が発生し、結果 としてラナリッド第一首相派は敗北、フン・センが唯一の首相となった。すなわち、民主 主義国家としての証である自由かつ公平な選挙を経ずに政権交代が行われたのである。こ の政変に対しては、国際社会から厳しい批判がなされたが、そのような国際社会の批判と 圧力の下で、フン・セン首相が 1998 年に選挙の実施を約束したために事態は収拾した。
その後、カンボジアにおいては 1998 年、2003 年と 2 回の選挙が行われたが、いずれも“自 由かつ公平な選挙”であったとは評価されていない。例えば、Freedom House は、2003 年 の選挙をめぐっては、政府によって、選挙関連の殺人、脅迫、破壊行為、その他の威嚇行 為が野党勢力に対して実施され、その結果としてフン・セン率いる CPP の地滑り的勝利に つながったと述べている35。このような中で、カンボジアにおいては、民主主義の条件とさ れる政治的・市民的権利に対する自由も大幅に制限されていると評価され、Freedom House はカンボジアを“自由のない(Not Free)”国に分類している36。