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開発援助哲学の変遷とパラダイムの転換

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第Ⅴ章  予防開発のための紛争要因分析論[大平剛]

1.  紛争予防と開発援助

1.1  開発援助哲学の変遷とパラダイムの転換

  冷戦構造の崩壊は、開発援助分野にも多大な影響を及ぼした。世界秩序が変容するなか で、新たな課題が現れ、それらへの対処から従来とは異なる要素が開発援助に取り入れら れるに至ったのである。本節では、援助の歴史を簡単に振り返ることで、冷戦期と冷戦崩 壊以後とで開発援助がどのように変容したのかを概説し、そこに認められる政治化という 現象から、21 世紀に模索されている援助の実態を明らかにする。 

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1.1.1  経済成長戦略から人間開発戦略へ 

  開発援助の歴史を振り返ってみると、その歴史は 60 年ほどでしかなく、援助あるいは資 源の移転によって他国に介入するという行為は、近代的な国家が出来て以降の歴史だけを 捉えても極めて新しい行為だと言わざるを得ない。佐藤寛(2006)は、開発援助を「社会 の発展を目指して行われる、外部からの資源投入」であると定義するとともに1、それは人 類にとって極めて新しい異文化間資源移転の形態であると述べている2。ここで重要なのは、

社会の発展というものをどのように捉えるかであり、それを巡って繰り広げられてきた援 助する側とされる側の認識のズレであろう。 

  仮に「社会の発展」が重要だとしても、「発展」(development)という言葉をどのよう に捉えればよいのであろうか?  筆者がこの言葉の定義にこだわるのは、この言葉に対す る考え方が 1990 年代までとそれ以降とでは大きく異なるからであり、そこにパラダイムシ フトが生じたからである。そのことを明らかにして、1990 年代以降の開発援助の基本指針 がいかにそれまでのものと比べて異質なものであるのかを明確化するために、まずは開発 援助の歴史を簡単に振り返っておきたい。 

  本格的な開発援助が開始されるようになったのは 1960 年代である。「アフリカの年」と 呼ばれた 1960 年にはアフリカ大陸の 17 カ国が政治的な独立を達成した。このことは、そ れまで植民地として宗主国の一部であった地域が国際社会の一員となり、それらの新興独 立国家の抱える経済的問題が宗主国の国内管轄事項から一気に国際関心事になったことを 意味した。すなわち、それまでにも宗主国と植民地の間に存在していた格差、すなわち南 北問題が、一国の国内問題からはずれて外部化あるいは顕在化し、国際社会の共通関心事 項となったのである。 

  このような状況に対して、国際社会、特に国際連合(以下、国連)を中心として援助体 制が構築されていった。たとえば、1960 年には第二世銀と呼ばれる国際開発公社(IDA)

が、1966 年にはそれまであった二つの機関を統合して国連開発計画(UNDP)が設立され た3。1950 年代にすでに米国を中心として行われていた二国間援助だけでなく、多国間援助 組織もその体制を整えていったのである。 

  基本的に、この時期以降現在に至るまで、開発援助が目指してきたものは近代化である。

1960 年代にはトリクル・ダウン仮説が信奉され、それを推進する基盤となった W.W.ロス

1  佐藤寛(2006)『開発援助の社会学』世界思想社、52 頁。 

2  同上書、3 頁。 

3  二つの機関とは拡大技術援助計画(EPTA)と特別基金(Special Fund)である。 

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トウ(Walt W. Rostow)の『経済発展の諸段階』は、米国という大量消費社会を発展の最 終段階モデルとして掲げ、その段階に向けての単線的な発展段階論を展開したのであった。

1970 年代になると、トリクル・ダウン仮説が疑問視されるようになり、国家を単位とする マクロ経済成長を目指すのではなく、人々の基本的なニーズ(BHN)を満たして貧困問題 を解決する方向へと舵が切られることとなった。しかしながら、この BHN 戦略にしても、

そこには労働者の生活改善を通じた生産性の向上が目指されており、経済成長すなわち近 代化が前提としてあったのである。次の 1980 年代はそれまでの 20 年間とは異質で、国際 政治経済状況の悪化という世界経済の枠組み自体の問題によって援助戦略は変容すること となった。いわゆる構造調整である。しかしながら、構造調整政策においても、いかに国 家の運営を健全なものとするかが問われ、近代的国家の建設が求められてきたのである。 

  30 年にも及ぶそれまでの開発援助活動が貧困問題の解決に結びついてこなかったことを 受 け て 、 新 た な パ ー ス ペ ク テ ィ ブ と し て 打 ち 出 さ れ た の が 「 人 間 開 発 」( Human  Development)という概念である。A.セン(Amartya K. Sen)の唱えたこの概念は、人間 一人ひとりの潜在能力(ケイパビリティ)強化に重点を置くものであり、これまでの国家 を単位とする考え方とは趣を異にする。すなわち、それまでの「発展」は経済成長を軸に 考えられてきたのであるが、この人間開発という概念の登場によって、経済成長神話と決 別することとなったのである。とは言っても、経済成長と人間開発とが相容れない性格の ものだと言うわけではない。『人間開発報告書  1996』でも述べられているように、人間開 発を達成するためには、経済成長の果実の公平な分配が必要で、経済成長自体の重要性は 変わらない4。変わったのは「発展」そのものの目的であり、人間の能力を高めることが「発 展」の目的となったのである。 

  また、センや M.ヌスバウム(Martha C. Nussbaum)は J.ロールズ(John Rawls)の正 義論の影響を受けており、これまでの功利主義的な開発観とは異なる開発哲学を提示した。

「最大多数の最大幸福」という言葉に代表される功利主義では、往々にして少数者の不利 益よりも多数者の利益が優先されることになるが、このような考え方がダム建設などの大 型開発を擁護する規範として用いられてきたと言える。しかしながら、ロールズの正義の 原理に則るならば、個々人の自由が優先されるとともに、最も不遇な状態にある人に不利 益とならないように基本財は配分されることになる。正義の概念が開発哲学に組み込まれ ることで、開発におけるパラダイムシフトが生じたのである。それはつまり、正義と開発 は不可分であるとの新たな思考様式が認められ、「社会開発」という名の下で 1990 年代半 ば以降、従来の「経済開発」路線とは異なる開発指針が提示されたと捉えられるというこ とである。 

     

4  UNDP『人間開発報告書  1996』国際協力出版会、1996 年。 

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1.1.2  「開発の政治化」現象とその深化 

このようなパラダイムの変化は、政治体制と開発とのつながりについても変更を迫るこ ととなった。これまでの開発援助の歴史では、近代化を目標とする経済成長が目指されて きた結果、それをもたらすのであれば、どのような政治体制であっても許容されるという のが援助供与国の姿勢であった。なかでもアジアでは、インドネシアやフィリピンといっ た権威主義体制国家への援助供与が突出していた。これには、これらの国々を反共産主義 の防波堤とするために援助を行うといった国際政治上の要因も根強かった。また、開発援 助を通して当該国の政治にあからさまに介入することは、内政不干渉原則に違反する行為 であるとの共通の認識があり、マクロの視点で経済成長に資するならば、仮に内政におい て人権の抑圧などの問題があったとしても開発援助は行われてきたのである。 

また、経済成長を重視するという立場からは、権威主義体制の方が民主主義体制よりも 効率的であるという論調もあった。すなわち、民主主義体制のもとでは多様な意見や利害 の調整に手間取るが故に非効率的にならざるを得ないが、権威主義体制であれば、迅速に しかも強引に開発主義を押し進めることが出来、国家を単位とするマクロ経済成長を可能 にすると考えられたからである。その点で、権威主義体制は容認されていたのである。 

このような状況に変化をもたらしたのが冷戦構造の崩壊であり、人間開発および社会開 発という概念の登場であった。人間開発概念の登場によって、個々の人間の潜在能力の強 化が目指されることとなったが、潜在能力は様々な機能から成り立つ概念であり、「できる こと=doing」や「であること=being」の集合体である。その考えに基づけば、政治的な決 定に参加することも「できること」であり、ここに民主主義の基本である政治的参加の実 現が問われることになるのである。ここには個々人の自由を重視し、正義を実現すること が公正であるとの考え方が影響している。 

折しも援助供与機関は、冷戦終結後の世界における新たな方向性を模索しており、とり わけ二国間援助機関では反共に代わる新たな援助指針が求められていた。1980 年代の構造 調整政策において、援助供与機関はガヴァナンスという用語を用いて健全な国家運営を途 上国に求めたが、そこには貿易の自由化、規制緩和といった「経済的コンディショナリテ ィ」が課せられていた。構造調整政策は、その意味で、内政不干渉原則を踏み越えたもの であった。そのような援助供与側の一線を踏み越える態度変化は、経済的な側面だけでな く政治的な側面にまで要求を突きつけるという段階にまで発展していった。すなわち、「デ モクラティック・ガヴァナンス」として民主的体制を求める「政治的コンディショナリテ ィ」である。以上のことからわかるように、1990 年代以降の援助指針に含まれる政治的要 求は唐突に現出してきたものではなく、1980 年代の構造調整の経験の延長線上にあるもの

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