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oye と「ねぇ」 、 「よ」

ドキュメント内 著者 野村 明衣 (ページ 193-197)

7. oye、mira、fíjate、verás

7.3. oye と「ねぇ」 、 「よ」

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このように、文末のoyeは話し手の驚きや苛立ち、遺憾さなどの発話態度を表すこ とが確認できた。文頭の位置で考察したように、oye はそれが持つ語彙的意味から聞 き手に発話への注意喚起を求めることを中心的機能として持つ。しかし、先行する発 話内容に対する話し手の態度を表す文末の位置に現れると、Fuentes(1990: 180)や Martín Zorraquino y Portolés(1999: 4183)の指摘や、母語話者の回答からもわか るように、話し手の発話態度を表すのである。

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7.3.2. 文末の oye と「よ」

大倉(1994: 136)は、情報伝達を中心的機能として持つoye と「よ」がどちらも 情報中心であるという点で一致していると述べている。この「よ」の機能を文末のoye に当てはめることによって、より明確な規定をすることができるのではないだろうか。

中﨑(2005: 79,80)は「よ」について、「残念に思っている」「遺憾に思っている」

「快く思っている」という当該事態に対する話し手の心的態度(propositional

attitude)を表すと述べている。「よ」を用いることによって、話し手は発話内容に対

する心的態度の存在を顕在化させている、というのである。

(39)‟(この間受けた模試試験の結果が返ってきてそのことについて話し合う生徒たち)

男子生徒A: どうだった、統一模試。

男子生徒B: だめだめ。ランキングにかすりもしないよー。

男子生徒C: 俺もだよー。

(中﨑 2005: 80)

これらの発話は、発話内容のみを伝達するのではなく、「自分がランキングにかす りもしない事実を遺憾(不快)に思っている」という話し手の心的態度の存在までを 含めて伝達することを目的としているという。「よ」の使用は義務的ではないが、「よ」

の存在によってより明確に話し手の心的態度を含んでいることを表すのである。

さらに、「よ」は言外の意味を持つ発話に共起する場合がある(中﨑 2005: 83)。

(37)‟(妻の反対をよそに市長選に立候補する芳彦)

房子: やめてください。あなたは大学の先生ですよ。

(中﨑 2005: 82)

この発話では、「よ」を付加しなければ不自然であり、上昇イントネーションを帯 びるという。このような「よ」を伴った場合、発話を「字義通りの意味だけでなくあ る種の言外の意味を推論によって導き出し発話を解釈しなければならない」という。

つまり、この例では「大学の先生である者が、市長選挙などに立候補するべきではな い」という解釈をしなければならないということである。このように、「よ」の存在 によって、発話に言外の意味を含んでいることを示す。

また、松岡(2003: 58)は次のような例を挙げている。

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(38)‟ 重大な話って何なの{φ/ よ}?

(松岡 2003: 62)

ゼロ形式が選択された場合、話し手は単に「重大な話とは何か」を聞き手に訊ねて いるのに対して、「よ」が付加された場合には、「その答えを教えなさい」という促し の意味が付随するという。

これらの「よ」に関する記述をoyeの機能と比べてみよう。

(202)‟ ¡Qué pena de ver esto así, oye!

ここでのoyeは、残念だという話し手の気持ちを表すものであった。(201)も話し手 の驚きを表明するものであり、これは「残念に思っている」「遺憾に思っている」「快 く思っている」という発話に対する話し手の心的態度を示す「よ」と共通している。

次の例も見てみよう。

(203)‟ Deja de molestar, oye.

(208)‟ Anda, pues no sé, oye.

これらの例も先の場合と同様に、話し手の苛立ちや驚きなどを表す点において「よ」

との共通性が窺える。翻訳する場合にも「放っておいてよ」「知らなかったよ」のよ うに「よ」を用いるのが自然だろう。

では、次の疑問の例はどうだろうか。

(209)‟ ¿Me estás escuchando?, oye.

この発話は、話を聞いていない聞き手に対する非難を含んで「話をちゃんと聞け」

という、修辞疑問としての用例であった。これは(38)の「重大な話って何なのよ?」

という発話が「その答えを教えなさい」という含みを持つ例と同様であり、「聞いて るのかよ」と「よ」を用いて訳すことができる。さらに、次の例においても「よ」の 機能と共通する点がある。

(207)‟ A: Yo creo que tal persona va a venir mañana.

B: Pues yo creo que no va a venir, oye.

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「問題の人物が翌日に来ないことをBがあらかじめ聞いている場合にoyeを伴う」

という母語話者の指摘は、「来ないと思うよ」という主張に含まれる感情を示すこと によって、強調的意味での説得をしていると考えられる。

では、oye と「よ」はなぜここまで共通しているのだろうか。それは、どちらも注 意喚起という機能を持っていることによるのではないだろうか。oyeは、動詞oír の 語彙的意味から、そしてそれが命令であることから、聞き手に情報を聞くよう求める ものである。従って、文頭で現れた場合にはそれが聞き手に向けられていることを示 すので、聞き手の注意喚起として機能する。しかし、文末は発話内容を伝達した後な ので、文末のoyeは聞き手に対してではなく発話内容に対して注意喚起すると考えら れる。このことが様々な意味をもたらしていると考えられる。

例えば次の発話を見ると、同じ注意喚起でも文頭と文末で全く異なって機能してい るのがわかる。

(210) Raimunda: Oye, ¿estás herida?

(Volver: 54)

この例は、仕事から帰ったRaimundaの怪我をしている娘に対する発話である。oye が文頭に位置する場合は聞き手への注意喚起であり、発話内容そのものには関わらな いので、この発話は当然聞き手に対する質問と解釈できる。

では、このoyeを文末に置くとどうだろうか。

(211) ¿Estás herida?, oye.

母語話者は oye が文末に置かれると、「娘が怪我していることに対する話し手の驚 きや、『一体何があったのか?』という気持ちが現れる」と回答している。つまり先

の(209)の場合と同様に、文末にoyeが置かれると話し手の発話態度が現れる。これを

先行する発話内容への注意喚起という点から見ると、あえて伝達後にoyeを置くこと によって、先行する質問に注意喚起し、発話を再確認するよう求めるほどに話し手が 驚いていることを表すと考えられるのではないだろうか。日本語において、「よ」が つくことで心的態度が顕在化されるのと同様に、スペイン語でも文末のoyeの使用に よって話し手が注意喚起するほどに驚いている、残念に思っているなどの発話態度が 明示される。そのように考えるとFuentes(1990: 180)の「前方照忚としての注意喚 起」によって発話を再確認し(Briz 1998: 228)、toma notaやdate cuentaという含 意を持つ(Martín Zorraquino y Portolés 1999: 4186)という指摘も頷ける。

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では、この視点からもう1度母語話者の作例を見てみよう。(202)では、話し手の感 嘆の内容に対して注意を喚起し、「残念だ」という気持ちを表現している。また、(203) のような何度注意してもやめようとしない聞き手への命令の場合、今言った命令を確 認するよう注意喚起して、話し手が苛立っていることを表していると考えられる。

(207)でも、話し手Bは問題の人物が翌日に来ないことを確認するよう注意喚起して、

聞き手を説得しようとしていると考えられる。

しかし、「よ」とoyeには異なる点もある。中﨑(2005: 80)は「よ」が「と思う」

テスト94でも確認できるように、聞き手のいない独話でも用いられると指摘している のに対して、oye の場合は独話では現れないと考えられる95。これは母語話者による アンケートでも明らかになっており、その理由はoyeが2人称túに対する命令法で あることによると推測される。

ドキュメント内 著者 野村 明衣 (ページ 193-197)