FWC における教育は、主にインド諸語科目に重点が置かれていた。ここで、FWC で教育 対象とされた言語に対して、FWC内外で持たれていた認識について述べる。FWCの開講言 語科目は、科目によって重視される程度が異なっていた。
5-2-1 ヒンディー・ヒンドゥスターニー・ウルドゥー
まず初めに、当時の言語状況を知る上で一助となることから、「ヒンディー」、「ヒンドゥスター ニー」、「ウルドゥー」について、FWCにおいてなされていた定義について述べる。
FWC が機能していた頃は、統治のためにインド諸語の現状を把握しようと試みられて間も ない時期で、各言語に対する定義も社員や学者達によって多様であった。
100 language-teaching centres established in Bombay and at St. George。既述の通り、セント・ジョ ージ(マドラス)にはFWCと同様のカレッジ(Fort St. George College)が設立されたが、ボンベイには 設立されなかった。従って、セント・ジョージの言語教育センターは、フォート・セント・ジョージ・カ レッジと同一の組織である可能性も考えられるが、実際のところは不明である。
98
当時のイギリス人官吏は、ヒンドゥスターニー語を最も有用な言語であると見なした。しかし、
実際のところ、ギルクリストらは、現代のウルドゥー語にあたる言語に対してヒンドゥスターニーと いう名称を使用していた〔Das 1978, p.42〕。
ギルクリストは、ヒンディー語に対してもヒンドゥスターニー語という名称を使用した。
ギルクリストは、「ヒンディー」と発音の似ている「ヒンダヴィー」や「ヒンドゥイー」とを区別するた めに、「ヒンディー」と同じく「インドの」という意味を持つ「ヒンドゥスターニー」を、言語名称とし て好んで使用した。彼はインドに広まっている言語を、(1)宮廷の、つまりペルシア語、(2)ヒン ドゥスターニー語、(3)ヒンダヴィー語、の 3 つに分類している。彼は、「ヒンダヴィー語+アラビ ア語+ペルシア語=ヒンドゥスターニー語」という公式も示している。しかしその後、ギルクリスト の後任のプライスは、「ヒンドゥスターニー」ではなく「ヒンディー」を使用した〔Vārṣṇeya 1947, pp.168-169〕。
その後 FWC にプライス(William Price)101が在職していた頃に、ヒンディーという言葉が FWC の書簡の中で使用されるようになった。FWC のヒンドゥスターニー語科は、「ヒンディー 語科」もしくは「ヒンディー・ヒンドゥスターニー語科」、プライスは、「ヒンディー語教授」又は「ヒン ディー・ヒンドゥスターニー語教授」と呼ばれるようになった〔Vārṣṇeya 1971, pp.356-357〕。
ヒンドゥスターニー語科の名称が変更されたのは、ギルクリストと後任の語科長の「ヒンディー 語」や「ヒンドゥスターニー語」の定義についての見解が異なっていたことが関係していると考え られる。ギルクリストは、現代のヒンディー語とウルドゥー語にあたる言語の両方に対して、「ヒン ドゥスターニー」という名称を使用した。しかし、プライスは、ヒンドゥスターニー語とウルドゥー語 を同一のものと捉え、ヒンディー語をヒンドゥスターニー語とは別の言語であると見なした。プラ イスがヒンディー語をヒンドゥスターニー語と別の言語と見なした理由は、恐らく両者に見られる 使用文字と語彙系統における相違が 1 つの言語として扱うには大き過ぎるということが、ヒンド ゥスターニー語の教育や研究が進む中で明らかとなったためと考えられる。何故ヒンドゥスター ニー語科の改編後の名称が「ヒンディー・ウルドゥー語科」とされなかったのか、あるいは「ヒン ディー語科」と「ウルドゥー語科」に分けられなかったのかについては資料が見つからないため 定かではないが、「ヒンドゥスターニー語」という名称を語科名から完全に消すことで、混乱を招 く恐れがあったためではないかと考えられる。しかし、それでも言語名に生じた混乱は、収まら なかった。ダースによると、ヒンディー語とヒンドゥスターニー語はしばしば混同され、両者の区
101 1813年から1830年に在職〔Das, p.124〕。1823年11月20日から1831年まで教授を務めた〔Begum 1983, p.59〕。
99
別に関しては19世紀の間中議論が重ねられた〔Das 1978, p.43〕。
5-2-2 各言語科目の開講状況
5-2-2-1 ペルシア語とヒンドゥスターニー語及び西部ヒンディー方
言
後述の通り、FWC で特に受講者の多い言語科目がペルシア語とヒンドゥスターニー語であ った〔S.K.Chatterjee, p.234〕ことから、まずはこれらの言語について述べる。
ペルシア語は、1837 年まで会社が採用した言語であり、習得している官吏は優遇を受けた。
ペルシア語は、FWC における必須科目とされていた。一方、ヒンドゥスターニー語やその方言 であるブラジ・バーシャー102とプールヴィー・バーシャーは、会社のほとんどの兵士や官吏が 業務を行うインドの全領域において話され理解されていた〔Vārṣṇeya 1947,pp.2-115〕。さら に、FWC においてアッサム語、オリヤー語、グジャラーティー語、スィンディー語を教えること に関する規定は定められておらず、ヒンドゥスターニー語の知識は、これらの不開講の言語を 話す人々と意思疎通を行なうのに十分なものと見なされていた〔Das 1978, p.37〕。アラビア 語とサンスクリット語の学習には多くの時間がかかったため、FWC の学生は、たいていペルシ ア語とヒンドゥスターニー語とベンガル語を学びたがっていた〔Vārṣṇeya 1947, p.80〕。
このように、インド統治における需要や学生側の都合により、各インド諸語のFWCにおける 重要性は左右された。
5-2-2-2 アラビア語
アラビア語は、FWC が設立当初は重視されていた103が、その後ペルシア語科に統合され ることになる。
102 インド人兵士の多くが彼らの母語であるブラジ・バーシャーを使用していたことから、FWCでは主に 軍官学生を対象としてブラジ・バーシャーが教えられた。1819年9月6日付のプライスによる報告書に は、ブラジ・バーシャーの教育が実施されていたことが記されている〔Vārṣṇeya 1947, pp.82-83〕。
103 チャトルジーは、1799年1月にウェルズリーがEICの若手文官に、ギルクリストの下でアラビア語 とペルシア語を学ぶよう指示を出したと述べている〔S.K.Chatterjee 1993, p.229〕。しかし、以前の節 で述べた通り、これはアラビア語とペルシア語ではなく、ヒンドゥスターニー語とペルシア語の誤りであ る。
100
FWC創設者達104は、(1)アラビア語の文法知識がペルシア語を学ぶ上で不可欠であり、(2) アラビア語はイスラーム法の原文に使用されている言語である、という 2つの理由により、設立 当初はアラビア語を重視した。しかし設立後、経費削減の決定によって、アラビア語科はペル シア語科に統合されることとなった。当時教授の職にあったベイリー(John Bailley)105は、この 決定に反対した。また、ペルシア語科の中にもラムスデン(M.Lumsden)106のように、アラビア 語科を発展させていこうとする教授もいた。しかし、ペルシア語教員の多くは、彼のような熱意 を持たず、学生も影響を受けることはほとんどなかった〔Das 1978, pp.40-49〕。
5-2-2-3 ベンガル語
FWC においてベンガル語は、当初軽視されていた。しかし、受講者数の多さや教職員の
働きかけによって、次第に重視されるようになった。
FWC においては、必須科目のペルシア語以外にも、学生はインド諸語を他に 1 言語選択 履修する必要があった。ペルシア語と共通した語彙を持つヒンドゥスターニー語を学習する方 が能率的との見解から、FWC ではペルシア語とヒンドゥスターニー語を学ぶ傾向にあった
〔Vārṣṇeya 1947, p.115〕。
ベンガル語学者ら(Bengali scholars)も、サンスクリット語に傾倒し過ぎていた。しかし、そう した中で、ケアリーは、FWCでベンガル語を教え、同僚達からの反対に遭いながらもベンガル 語の重要性が認識されるように働きかけた〔Das 1978, pp.45-46〕。ケアリーは、1803年にカ ルカッタで、『パンチャタントラ』(Pañcatantra)のベンガル語版を出版する107〔McGregor 1974, p.67〕等の活動を行った。
しかし、それでも、ベンガル語科も他の語科と同じく、設立後間もない時期から取締役会か らの圧力に屈せざるを得なかった。
ベンガル語科も経費削減の対象となり、さらに 1805年 6月24 日付の評議員会の決定に
104 引用文献中では「FWC創設者(the founders of the Fort William)」が具体的に誰を指すのか説明さ れていないが、FWCの運営において権限を持っていた評議員会の、初代メンバーを務めた教職員のこと ではないかと考えられる。
105 1801年にFWCのアラビア語教授に就任〔Das 1978, p.123〕。
106 1801年にFWCのペルシア語教師に就任、1807年からは教授となる。1823年に定年退官〔Das 1978, p.123〕。
107 その後、1809年にナーラーヤナ(Nārāyaṇa)の『ヒトーパデーシャ』(Hitopadeśa)のブラジ・バーシ ャー版『ラージニーティ(Rājnīti)』を出版した。ラッルーラールは、『ヒトーパデーシャ』と『パンチャ タントラ』等を基に、著作を行った〔McGregor 1974, p.67〕。
101
より、ベンガル語科はサンスクリット語科やマラーティー語科と統合された〔Vārṣṇeya 1947, p.66〕。
ベンガル語圏に立地していた FWC でベンガル語が軽視されたのは、先にも述べた通り、
ペルシア語が行政業務を行う上で多く使用され、ヒンドゥスターニー語がインド、特にインド人 兵士の間で広く使用されていたためであった。しかし、ベンガル語の受講者数は当初から多く、
このため FWC の教職員らはベンガル語教育を軽視し続けることは出来なかったと考えられる。
また、のちの章でも取り上げるケアリーを初めとする教員の活動は、ベンガル語の重要性を認 識させただけでなく、FWC でのベンガル語作品の翻訳活動を促進するという役割も果たした。
5-2-2-4 サンスクリット語
サンスクリット語は、FWC ではほとんど学ばれていなかった〔Das 1978, p.46〕。しかし、後 述する作品一覧からも明らかなように、FWC で著された作品の中には、サンスクリット語に関 するものが多く含まれている。また、サンスクリット語の重要性については、FWC 公開演習討 議の議題とされることもあった。サンスクリット語は、インドの古典について知る上で不可欠な言 語であるとFWC内で認識されていた。
FWC 設立以前には、ウイリアム・ジョーンズ卿がサンスクリット語とギリシア語やラテン語との 関連性を主張したことをきっかけに、1775年から1800年にかけての時期にサンスクリット語の 重要性が認識されるようになった。その後、FWCがサンスクリット語の価値を認識した理由は、
主に以下の3 つであった。1 つ目は、アラビア語がイスラーム法の研究にとって必要な言語で あったのと同様に、サンスクリット語がヒンドゥー法の研究に役立つ言語であったことである108。 次に、サンスクリット語がヒンドゥー教の思想を探ることの出来る言語であったことも挙げられる。
また、サンスクリット語が当時のインド・アーリア語の研究にとって重要な言語であったことも理 由の1つであった〔Das 1978, p.42〕。
サンスクリット語で書かれた作品は、インドの伝統的な思想を学ぶ上で重要な資料であり、イ ンド統治を行なうために現地の人々の文化や思考様式を把握する上で必要とされていた。従 って、当時のFWCにおいてサンスクリット語は実用的な言語とは言えなかったけれども、こうし
108 1802年8月5日付でウェルズリーがEICの取締役会議長(chairman)に宛てた手紙の中でも、サンス クリット語はヒンドゥー法の知識を得る上で不可欠であり、マドラスやボンベイの文官にとっても必要で ある、と述べられている〔IOR/H/487, pp.326-327〕。