先行研究に基づき、ギルクリストの経歴について、時系列に沿って以下のように述べ る。
ギルクリストは、1759年6月19日にエディンバラに生まれた。彼は、父ウォルター (Walter)、母ヘンリエッタ(Henrietta)、姉ヘレン(Helen)との 4 人家族であったが、ギ ルクリストが生まれたその年に父は家族を捨ててアメリカへ渡ってしまった。ギルクリ ストが10歳位の時に母が父を探しに北アメリカへと渡ったが、父を見つけることが出 来ずニューファンドランド(Newfoundland)に移住してしまった。母を追って大西洋を 渡った姉も、後に現地で結婚した。ギルクリストはこうした家庭環境にいたことから、
10 歳になると、エディンバラの孤児や父親のいない子供のための慈善組織ジョージ・
ヘリオッツ病院(George Heriot’s Hospital)での教育を受けた。具体的な時期については 不明であるが、ギルクリストは、インドへ来る以前に、西インド諸島で藍の栽培や藍製 品作りの手法を習得していた。1780 年代までに、ギルクリストは外科医としての訓練 を終えないまま英国海軍(Royal Navy)の軍医補に雇われた。1782年2月には、彼は、
ベンガル政府(Bengal establishment)の軍医補に任命されている〔Jones 2007, pp.64-67〕。その後、彼は、1783年4月3日にカルカッタに到着した〔Vārṣṇeya 1947, p.204〕。
ギルクリストは、インドに到着してすぐ、外科医としての務めを果たす上でインド人兵 士の話す言葉を習得する必要があると感じ、ヒンドゥスターニー語を学び始めた〔Jones
2007, p.68〕。当時EICは、行政用の言語としてペルシア語を採用していた。しかし、
ギルクリストは、デリーのムガル宮廷の衰退と共に、ペルシア語に代わってヒンドゥス
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ターニー語が使用されつつあることに気付いた。会社の任務を上手く行うためには、官 吏がヒンドゥスターニー語を習得することが非常に重要であった。〔Vārṣṇeya 1947, p.3〕。彼が外科医の仕事をいつ辞めたのかは不明だが、彼は、こうしたことから外科医 を辞めてヒンドゥスターニー語研究を行うようになった。
研究活動を続けヒンドゥスターニー語の語学書作りに熱心に取り組んだギルクリス トであったが、天災や体調不良により、彼の著作・出版活動はしばしば困難に直面した。
1783年11月1日に、彼の所属する分遣隊がウッタル・プラデーシュのファルルカー バード(Farrukhabad)へと駐屯した。彼は、自分で使用するのを主たる目的として、ヒ ンドゥスターニー語の文法書や辞書を作った。1785年1月2日に彼は、インド監督局 に対して1年間の休暇とその期間分の給与と手当を申請した。EICは、1年間の休暇を 許可した。彼はラクナウ(Lucknow)、ファイザーバード、アラハバード(Allahabad)、ジ ャオンプル(Jaunpur)、ベナレス等を旅した〔Kidwai 1972, pp.38-39〕。彼は、ファイ ザーバードにいた際に洪水に遭い、そこを去らざるを得なくなった。また、設定した出 版物の価格があまりに安く、原稿の締め切り期限の設定も甘かった。遠くの地域からイ ンド人を招くための費用もかさんだ。こうしたことで、出版活動は成り立たなくなった。
1787 年にギルクリストは、ベナレス近郊のガーズィプル(Ghazipur)で藍作りを行うこ とを許されて120、1795 年に健康を害してガーズィープルを去るまで藍作りを続けた
〔Jones 2007, pp.75-78〕。この滞在期間に、ギルクリストは、砂糖の取引も行った
〔Siddiqi 1979, p.53〕。こうした活動が出版活動を成り立たせることが目的であったこ とは、以下の1787年6月4日付のコーンウォリス総督への手紙から明らかである。
「さきの3年間私は辞書の編纂に尽力し、第1巻の稿本を作成し終えました。第2巻 と第3巻の編纂を行うようご命令ください。」
「研究の支援を受けるために、私は、ベナレスのザミーンダールやアワドのスーバー
121の土地に行くようご命令頂けることを望みます。」
「この国では、印刷に多くの費用がかかるとの懸念から、利益は望めません。このた め私は、藍栽培を行う許可を頂きたく思います。西インド諸島に数年住んでいたので私
120 ギルクリストは、枢密院から藍作りを行う許可を得た。彼は、当時EICの統治下に置かれていたベ ナレス藩王国から、藍作りに使用する土地を手に入れた〔Siddiqi 1979, p.53〕。ギルクリストが枢密院か らの許可を得なければならなかったのは、ベナレス藩王国がインドの統治下にあったことが関係していた と考えられる。
121 スーベーダールのこと。(1)州知事;州長官、(2)(ムガル朝時代の)州長官、(3)英印軍の(特務)中 尉、といった意味を持つ語である〔古賀勝郎・高橋明 2006, p.1373〕。
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はこれを熟知しており、自分の収入を藍栽培から捻出したいと強く希望します。」
総督は、彼にベナレス(Benares)で藍栽培を行う許可を与えたが、彼は、アワドで藍 栽培を行う許可を下す権限は持っていなかった。ギルクリストは、ベナレスへ行き、藍 栽培の他にアヘンに関わる仕事もした。彼は、1791年1月6日付で、ガーズィープル からインド監督局に印刷の不手際を謝罪する手紙を送っていることから、ギルクリスト は、少なくとも1791年にはガーズィープルにいたと判明している。その後、彼がガーズ ィープルを去ったのは、体調不良になったことに加えて、借金が増えた、あるいは藍栽 培やアヘンの仕事での利益が出なくなったためではないかと考えられる〔Vārṣṇeya 1947, pp.3-5〕。
ギルクリストは、当初、1797年1月までに帰国しようと決意を固めていた。しかし、
彼は、『東洋言語学者』への支援を政府に求め、出国の日を 1799年1 月まで引き延ば している〔Kidwai 1972, p.45〕。
その後、ウェルズリー総督からオリエンタル学校、次いでFWCに招かれたことによ り、ギルクリストは1799年1月以降もインドに留まることとなる。
1798年12月24日付でベンガル政府次官ダンカン・キャンベル(Duncan Campbell) がギルクリストに対して送った手紙では、ギルクリストがヒンドゥスターニー語とペル シア語をインド派遣書記に教えると決定した旨が記されている。また、同日付でベンガ ル政府長官バーロウは、ギルクリストへ任命書を送っている。翌日付の手紙で、ギルク リストは任命を受諾している。ギルクリストは、オリエンタル学校開校後、報告業務を 怠らなかった。1799年1月29日付の手紙と共に31人の官吏を学生とする通知を受け 取ると、その日からオリエンタル学校が廃校となるまで、彼は報告書を書き続けた
〔Vārṣṇeya 1947, pp.7-8〕。ギルクリストは、1799年2月にオリエンタル学校の教壇に 立ち始めた〔Kidwai 1972, p.46〕。オリエンタル学校の詳細については、既に述べた通 りである。
ギルクリストは、1800年8月18日付でFWCに雇用された〔Begum 1983, p.58〕。 彼は、1800 年 11 月 1 日に、FWC のヒンドゥスターニー語科長兼教授に任命された
〔Vedālaṇkārā 1969, p. 41〕。その後、彼は、1804年2月23日付で健康上の理由を述 べ、FWCを辞職した。しかし、彼は、それ以前にも2度帰国を決意している。1度目 の時には、彼は、オリエンタル学校の監督者(superintendent)への任命を受けざるを得 なかったため、帰国することが出来なかった。2度目は1803年で、彼は、FWC評議員
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会長官に、ヨーロッパへ戻りたいと考えていることをFWC評議員会に伝えてくれるよ う頼んでいる122。しかし、この時には、ウェルズリーが説得したことで彼は思いとどま った〔Kidwai 1972, pp.54-55〕。
彼の辞職願の一部内容を、以下に引用する。
「突然の重い病気によってやむを得ず、船でヨーロッパへ戻るために総督か ら許可を得なければなりませんでした。私は、その許可を得ました。今私は、
総督の好意により任じられていたヒンドゥスターニー語科の教授という責任 ある職を辞任するつもりです。カルカッタ号の船の乗車券も購入済です。私の 辞表を受理してください。」
〔Samīʿullāh 1989, pp.52-53〕
1804 年2 月23 日付でギルクリストが評議員会長官ロスマンに宛てて送付したこの 辞職願は、3 日後の26 日の評議員会で議題に取り上げられた。辞職願の中でギルクリ ストは、体調不良の他に、出版にかかる資金の不足も辞職の理由として述べている。ま た、同辞職願には、FWCの教科書の売上に関する会計、印刷機や印刷所の管理の引き 継ぎを行った旨も記されている〔Vārṣṇeya 1947, pp.62-63〕。キドウィはギルクリス トが1804年に辞職した原因を、同年9月20日に行なわれた第3回公開演習討議の論 題が、「サンスクリット語はインドの言語の源である」へと総督の指示で変更されたこ とに怒ったためであるとも説明している〔Kidwai 1972, p.56〕。当初ギルクリストが FWC のヒンドゥスターニー語科の演習討議の論題としようとしたテーマは、「ヒンド ゥスタンの人々が宗教本によってキリスト教の教義との比較を行えば、彼らはキリスト 教を受け入れるであろう」であった。政府が演習討議の議題を変更するようにと干渉し てきたために、ギルクリストは、辞職してイギリスへ帰国した〔Samīʿullāh 1989, pp.54-55〕。
イギリスに帰国してから数年間、ギルクリストは、ヒンドゥスターニー語の講義を無
122 ギルクリストは1803年4月11日に評議員会長官へ手紙を書き、ヨーロッパへ帰国したいと申し出 ている。この手紙は同年5月2日の会合で取り上げられたが、承認されなかった〔Samīʿullāh 1989, p.52〕。
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償で行ない、新しい作品の編集や過去の作品の改訂に献身し、また事業を起こしたり政 治に関わったりと、様々な活動を行った。最初、彼は、エディンバラで過ごし、1804年 10 月 30 日にはエディンバラ大学から法学博士の名誉学位を授与されている〔Kidwai 1972, p.57〕。その後、1806年2月12日から5月19日までの間、開講前のHCで臨時 の教授を務めた。彼は、ヒンドゥスターニー語、ヒンディー語、ペルシア語を教えた
〔Vedalankar 1969, pp.35-36〕。1806 年には、『大英帝国インドの監督者』(British Indian Monitor)第1 巻を出版し、1808年には第2 巻も出版している〔Jones 2007, p.83〕。
ギルクリストは、HCを2、3ヶ月で退職した後、1806年にエディンバラへと引っ越 し、友人ジェームズ・イングリス(James Inglis)と共に銀行の経営に着手した。1808年 には、メアリー・アン・コヴェントリー(Mary Ann Coentry)と結婚している〔Jones 2007,
p.84〕。1809 年 1 月 6 日に、彼は、EIC を辞職し、29 年間の職務に終止符を打った
〔Kidwai 1972, p.57〕。その後、彼は、政治に関わるようになる。ギルクリストは、下 院議員であるジョセフ・ヒューム(Joseph Hume)と親しく、1815年には政治に関する 著作『憲法に関する議会の改革』(Parliamentary Reform on Constitutional Principles) を出版した〔Jones 2007, p.84〕。彼は、イングリスと共にイギリスに会社も設立してい る。ギルクリストが銀行を設立した動機は、自身の研究活動の資金を調達するためでも あった。しかし、こうした事業は失敗に終わった〔Kidwai 1972, pp.57-58〕。1816年に はロンドンへ移り、彼は、EIC社員のために自宅に学校を設立し、再び教鞭を取った。
1818 年にこの「オリエンタル・インスティテューション」は、レスター広場へと移転 され、EICの支援を受けた。1826年に彼は、『東洋・西洋教育の先駆者』(The Orienti-Occidental Tuitionary Pioneer)というタイトルで、言語学についての著書を出版して いる。彼は、1826年まで学校経営を続けたが、アルノット(Sanford Arnot) とフォーブ ズ(Duncan Forbes)という人物に学校を明け渡した。この学校が閉校になった原因は、
授業で学生に自分の本を買うことを強制したことと、彼の教育方針が批判されたことで あった〔Jones 2007, p.85-87〕。さらに、1828年にギルクリストは、その学校の近くに 新たな学校を設立し、先の 2 人からの反感を買うこととなった。その後ギルクリスト は、1841年1月9日にパリで没した〔Kidwai 1972, p.58〕。病気の治療のためにフラ ンス旅行に来ていた時のことであった〔Muhammad 1977, p.25〕。