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7-2 ベンガル語、サンスクリット語、マラーティー語教育―ウイ リアム・ケアリー

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何度も出かけた。彼は、1809年頃にイギリスに帰国し、1815年2月9日にハートフォ ードシア(Heartfordshire)で死去した〔Pearson 2010, pp.181-438〕

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自然科学、神学143も学んでいた〔Das 1978, p.14〕。ケアリーは、成人してからも言語習得に 対して強い意志を持ち続けた。ユースタス・ケアリーによると、ある人がケアリーにオランダ語の

本を 70~90 巻程贈ったところ、ケアリーはオランダ語の文法を習得しただけでなく、入手した

オランダ語の小冊子を翻訳して別の人に贈った〔Carey 2010, p.32〕。また、ケアリーは、イン ドへ向かう船の中でベンガル語を学び始めた途端にマスターし、インド到着後にはサンスクリッ ト 語 も マ ス タ ー し た 。 オ リ ヤ ー 語 、 マ ラ ー テ ィ ー 語 、 パ ン ジ ャ ー ビ ー 語 も 学 ん だ

[Mukhopadhayay 1993, p.194]。ケアリーは、ディナージプル(Dinajpoor)144に住んだ最初 の7年間、1日の労働時間の3分の1をサンスクリット語の学習に費やしていた。キリスト教宣 教の講話に出かける時を除いて、午後にサンスクリット語の読み書きや学習を行い、夜には聖 書をインド諸語に翻訳していた〔Smith 1885, pp.219-220〕。彼は、自身の子供に対して、1 人にサンスクリット語、もう1人にペルシア語の言語教育を幼児期から行っていた〔Carey 2010, p.50〕。ケアリーの子供達は、ベンガル語をベンガル人並に話すことが出来るようになっ たため、ケアリーは、彼らからベンガル語の正確な語彙を聞き取った〔Arangaden 1993, p.177〕。

ケアリーは、長女と共にハックルトンで熱病にかかったが、一命をとりとめた。その後、ケアリ ー一家は、ピディントンへ移住している。ケアリーは、庭の近くに湿地帯があり、霧が立ってい ることが、悪寒の治まらない一因であると考えた。また、壊血病による症状もまだ残り、短時間 でも日光に当たると症状が出た。しかし、インドで暮らすようになってからはそうした症状は治ま った〔Carey 2010, pp.15-16〕。体調を崩し数年でイギリスに帰国したギルクリストに対して、

ケアリーは、赤痢にかかる等の体験を経てもインドで暮らし続けたという点で対照的である。

どういった経緯でインドへと渡ることになったのかは不明であるが、ケアリーは、1793 年 11 月11日にカルカッタに到着した〔Mukhopadhayay 1993, p.193〕。彼は、現地で宣教活動 を行うために各地を回った〔Carey 2010, pp.93-131〕が、生活に必要な費用を捻出すること は困難であった。ケアリーは、藍の事業で 3,000 ルピーの負債を抱えた。また、セランポール に移住する際には、4 年間家を借りるよりも家を購入してしまう方が安かったため、6,000 ルピ ー費やして家を購入した。さらに翻訳した聖書を印刷する際には、4,000 ルピーを費やした。

ケアリーは宣教師仲間に、資金を募るために手紙を送っている〔Carey 2010, pp.149-171〕。

143 因みに兄弟子の1人が英国国教反対者であり、ケアリーはしばしば意見を交わし論争を行った

〔Carey 2010, p.14〕。その後、ケアリーは18歳の時にバプテスト派に改宗している〔Jeyasekaran 1993, p.215〕

144 現バングラデシュ北西部の都市。

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多くの負債を抱えながらも、彼は、キリスト教の布教活動や聖書のインド諸語への翻訳活動、

FWC等における教育・研究活動を推し進めた。

ケアリーは、1801年にFWCのベンガル語、サンスクリット語、マラーティー語の講師、1807 年1月には教授に任命された。彼は、1830年までFWCに所属した〔Das 1978, p.123〕が、

その間にも様々な活動に加わった。彼は、FWC においてインド諸語の語学書や辞書を制作 し、物語文学の翻訳も行った。また、FWC に所属していたインド人ムンシーらの助けを借り、

聖書を多くのインド諸語に翻訳した。そうした活動については、以降の項で後述する。

ケアリーは、その後も宣教師として布教活動を続け、1807 年にはブラウン大学から神学博 士の学位を授与されている。また、彼は、1820年9月14日にカルカッタにインド農園芸学協 会を設立し、1823年にはイギリスリンネ協会、イギリス地質学協会、イギリス園芸学協会の会員 と な っ た 。 特 に イ ン ド 農 園 芸 学 協 会 に 関 し て は 、 彼 は 、1824 年 に 会 長 に 就 任 し た

[J.T.K.Daniel, R.E.Hedlund 1993, pp.362-363]。

7-2-2 FWC における活動

ケアリーは、以下のような経緯で、FWCに雇われることとなった。

1800 年1 月10 日にセランポール使節団が設立されると、EIC は、支配領域内で使節団 が布教活動を行うことを禁止した。しかし、セランポール使節団は、EIC の司祭であったブラウ ン(David Brown)やブキャナンとの親交を深めていった。FWCでは、適任のベンガル語学者 を見つけることが出来ずにいた。ウェルズリーは、ブラウンとブキャナンから、ケアリーが新約聖 書をベンガル語に翻訳したことを知る。その後指示を受けたブキャナンは、1800 年 11 月 23 日にバラックポール(Barrackpore)でケアリーと会い、月 500 ルピー145の給与でベンガル語 科の教師として FWC に加わるよう説得した。ケアリーはその時、自分が大人に教えた経験が ないこと、政府が行ってきた業務の内容を知らないこと、ベンガル語をまだ学習していることか ら承諾をためらった〔Chatterjee 1993, pp.230-231〕。しかし、結局、ケアリーは、ウェルズリ ーの申し出を承諾した。彼は、1801 年にベンガリー語、マラーティー語、サンスクリット語の教 師に任命された〔Das 1978, p.123〕。その後、1807年1月1日には、総督から上記3言語 の教授に任命された。この時に、給与が月 500 ルピーから 1,000 ルピーへと上がっている

145 年間で750ポンドに相当した〔Smith 1885, p.216〕。従って、当時の物価レートは1ルピー≒1.5 ンドであったと考えられる。

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〔Carey 2010, pp.196-213〕146。彼は、1830年まで教授を務めた〔Das 1978, p.123〕。

7-2-2-1 執筆・翻訳活動 7-2-2-1-1 執筆活動

ここで、ケアリーが制作に携わったとされる刊行物について、それらの情報を挙げる

147。ケアリーが学生のために多くのインド諸語の語学書を出版したことは、以下の一覧 で示す通りである。

(1)A Collection of Original Letters in the Murhatta Language(1816) マラーティー語の手紙集。FWCの学生用としてカルカッタで出版。

(2)A Grammar of the Bengalee Language (1801)

第1版はカルカッタで出版、第4版は1818年に会話編を付け加えてセランポールの使節 団印刷所で出版。

(3)A Grammar of the Kurnataka Language (1817) セランポールの使節団印刷所より出版。

(4)A Grammar of the Murhatta Language (1805) FWCの学生の演習用に会話編を付け加えて作られた

文法書で、1805年にセランポール使節団印刷所、1810年にカルカッタで出版。

(5)A Grammar of the Panjabi Language (1812) セランポールの使節団印刷所より出版。

(6)A Grammar of the Sanskrit Language (1806)

FWCの学生の演習のための例や語根の一覧表が加えられ、セランポールの使節団印刷 所より出版。

146 ケアリーがFWCで活動を行なうようになると、総督ウェルズリーは使節団と親しくなり、イギリス の支配領域において使節団が活動を広げるのを許すようになった〔Jeyasekaran 1993, p.217〕

147 ここで挙げている作品は全て出版に至ったものであるが、これら以外に、出版されなかった作品も存 在している。ムコーパディヤイによると、ケアリーはサンスクリット語辞書を編纂したものの、その辞書 が印刷されることはなかった。その辞書は6巻もので、原稿はセランポール・カレッジのケアリー図書館 に保管された。また、数ヶ国語対訳の語彙集も印刷されることはなく、その原稿も同じくケアリー図書館 で保管された〔Mukhopadhayay 1993, p.196〕

172 (7)A Grammar of the Tilungu Language (1814)

セランポールの使節団印刷所より出版。

(8)Dialogues Intended to Facilitate the acquiring of the Bengalee Language (1801)

ベンガル語会話集。カルカッタで出版。

(9)A Dictionary of the Bengalee Language(1815) 第1巻。セランポール使節団印刷所より出版。

(10)A Dictionary of the Murhatta Language(1805)

辞書。1805年にカルカッタで、1810年にセランポール使節団印刷所より出版 (11) A Universal Dictionary of the Oriental Languages(1811) 148

ケアリーの代表的著作。

7-2-2-1-2 翻訳活動

まず、刊行された物語文学の翻訳作品について、以下に示す。

(1)Itihasamala(1812) 物語・逸話集

(2)TheRamayana(1806)

第2巻1808年、第3巻1810年。マーシュマンとの共著。サンスクリット語原文に、散文訳 と注釈が付けられている。セランポール使節団印刷所より出版。第 4 巻は出版所の事務所 が1813年に火災に遭ったため、出版されなかった。

(3)Adi Granth

シク教聖典。最初の92聖歌の内容を要約。

また、ケアリーは、聖書を多くのインド諸語に翻訳した。

ケアリーは、1800 年にベンガル語の福音書を出版したが、それまでベンガル語の綴り (spelling)、書体(writing)、印刷(printing)等が定められていなかったため、イギリスで出版

148 この作品はスミスの文献に記されているが、ここで挙げている(1)~(11)のうち、この作品のみ、

FWCの活動の中で著されたという言及がなされていない。

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するよりも労力を要した〔Smith 1885, p.208〕。しかし、その後もケアリーは、聖書翻訳を続け た。彼は、マ タイ の福音書のサ ンスク リッ ト語版を 、ヴィディヤ ーラ ンカ ーラ(Mrtunjaya Vidyalankara)の助けを借りてギリシア語の原文から翻訳した。また、ケアリーは、旧約聖書の 多 く の 箇 所 も 、 ヤ テ ー シ ュ(Yates)149の 助 け を 借 り て サ ン ス ク リ ッ ト 語 に 翻 訳 し た

〔Mukhopadhayay 1993, p.198〕。

また、聖書をマラーティー語に翻訳する時やマラーティー語の辞書や文法書を編纂する際 には、FWC のマラーティー語教師ヴァイディヤナート(Vaidyanath)の助けを借りている。ダ ースによると、ヴァイディヤナートは、ベンガル語とヒンディー語にも精通し、サンスクリット語の 知識も持っていた〔Das 1978, p.56〕。

また、ベンガル語とオリヤー語の両方に精通したパンディト長ヴィディヤーランカーラが、ベ ンガル語版聖書をオリヤー語に翻訳した。その校正は、ケアリーがギリシア語原稿と対照して 行った。オリヤー語版の新約聖書は1811年、旧約聖書は1819年に完成した〔Smith 1885, p.257〕。

チャトルジーは、以下のような方法で聖書翻訳が行なわれていたと述べている。

最初に、英語で書かれた聖書の各節をヨーロッパ人らが読み、それを別の 1 人がヒンドゥス ターニー語に訳して唱える。その後その1 人を囲んで座っているインド人パンディトらが、おの おのの母語に翻訳する。ケアリーや他の宣教師らが、それを校正した〔Catterjee 1993, p.163〕。

ラーエによると、ケアリーは聖書を、部分翻訳分を含めて計 29 のインド方言(Indian dialects)に翻訳した〔N.R.Ray 1993, p.154〕。一方、チャトルジーによると、ケアリーの尽力 によって、聖書の翻訳言語数が18 世紀初頭に30 言語であったのが、19 世紀の初めの30 年程で倍増した〔Chatterjee 1993, p.162〕。チャトルジーは、ケアリーが翻訳した言語を以 下のように挙げている150

(1)ケアリーによって旧約・新約ともに全訳された聖書

149 William Yates。1792年生まれ。若い頃靴職人であった。ケアリーが所属した、ハーヴィー・レーン

教会のメンバーであった。彼はベンガリー語とサンスクリット語版の聖書を翻訳した〔Smith 1885,

pp.251-252〕。彼は、FWCの教職員であったとは確認されないため、FWCの外部でケアリーに協力した

人物であると考えられる。

150 但し、ここで挙げられている名称は、言語名と方言名が混在している。また、どの地域の言語か確認 できないものも含まれており、インド以外の地域の言語や方言が含まれている可能性もある。次に挙げて いるスミスの一覧についても同様。