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本節では、FWC の在学年限、学期制、受け入れ対象、学位制度、そして学生の卒業後の

66 進路について、詳しく取り上げる。

4-2-1 在学年限

FWCの在学年限は、当初3年と定められていた。3年と規定された理由は定かではない。

しかし開講された科目の量を考えると、習得に3年間は要するだけの科目が開講されていた。

「FWC設立法9」では、以下のように定められていた。

(1)今後ベンガル管区に任命される可能性のある全ての文官は、ベンガルに到着後の最初の 3年間FWCに配属され、その期間はFWCでの学習が唯一の公務となる。

(2)現在ベンガル管区に在職し、ベンガル在住期間が 3 年を超えない全ての文官は、この法 の施行日から3年間FWCに配属される。 〔P.P. 1812-13, p.21〕72 その後会社官吏養成の役割は、次第に FWC からヘイリーベリー・カレッジ(又はイーストイ ンディア・カレッジ、以下 HC とする)へと移行された。この在学年限に関する規定は、そうした ことに伴って変化していった。

FWCの役割は、取締役会からの命令を受けてHCに移譲されたものの、FWCとHCの両 方に在学するのが望ましいとする方針は、かなり後の時期まで続いた。

1830年頃になると、HCの卒業生には、FWCにおいて1年間の在学期間が与えられた。

HC の卒業生ではない者には、1 年半の在学期間が与えられた。学生は、月 30 ルピーで証 明書付きのムンシーの手助けを受けた。在学期間を終えても合格できない者には、取締役会 の命令に従って、在学期間を3ケ月延長することができた。それでもうまくいかない場合には、

政府官吏としての能力がないとして、イギリスへと送り返された〔Vārṣṇeya 1947, p.137〕。

しかし、この規定にも変更がなされることとなる。学生の習熟度に適した在学期間が、教育 方法と共に模索された。これには、FWCが縮小され続けた結果、十分な教育活動が行われな くなったことが関係していた。

1850年頃になると、FWCの在学期間が見直され、最大1年9ケ月にまで変更されたもの の、それでも学生の状況に改善は見られなかった。このためベンガル総督代理は、FWCの在 学年限を短縮し、毎月の試験で良い結果が出せない場合には、学生に厳しい罰則を加える

72 後に挙げる<FWC月別入学者数(1801-28年)>では、1801年の入学者数が他の年よりも多くなっ ている。この1801年の入学者数には、上記(1)と(2)の両方の人数が含まれると考えられる。従って 翌年以降の人数が(1)のみの人数であったとすると、(2)に当たる者の人数は、おおよそ70~80人程 度であったと考えられる。

67 べきとの考えを示した〔Vārṣṇeya 1947, p.153〕。

4-2-2 学期制度

FWCの学期区分は、数回にわたり変更されていった。

学期制度に関する最初の規定は、「FWC設立法9」によって以下のようになされた。

(1)学期は2ヶ月を1学期とし、年4学期制とする。

(2)休暇は年4回、それぞれ1ヶ月とする。

〔P.P. 1812-13, p.21〕

その後、1801年4月10日付の「FWC法」によって、以下のような規定がなされた。

1学期:2月6日~3月31日、 2学期:5月4日~6月30日、

3学期:8月1日~9月30日、 4学期:11月1日~12月31日

〔P.P. 1812-13, p.23〕

上述の通り、学期の数え方については、4 月から翌年 3 月までを一区切りとする「年度」とい う概念ではなく、1月から12月までを一区切りとする「年」という概念が採用されていた。

また、学生の入学時期が不定期であったため、学期途中に入学しても授業を受けやすいよう、

FWC では学期を細分化していたと考えられる。以下に挙げる FWC 入学生の人数について の表からも、学生の入学時期が不定期であったことが読み取れる。

<FWC月別入学者数(1801-1828年)>

68

〔Das 1978, pp.128-148 を基に作成〕

その後、学期に関するこうした取り決めは、変更されていくこととなる。

各学期の間に設けられていた休暇は、1806 年の「FWC 法」により廃止された[Ranking 1921a, p.14]。さらに、1814年7月1日付の「FWC法」では、4学期制から2学期制へと変 更され、1学期は1月1日から5月31日、2学期は7月1日から11月30日までと定めら れた。以前学期間に設けられていた休暇も、再び設けられることとなった[Ranking 1911, p.18: Ranking 1921a, p.14]。

こうした学期制変更には、当時の教員の意見が反映された。例えば1814年にベンガ 月

年 計

0 0 0 17 45 1 2 19 2 10 0 1 97

0 3 0 0 0 0 8 8 3 1 0 0 23

0 1 0 0 1 0 8 3 12 0 0 3 28

0 1 0 2 0 0 0 5 2 2 0 7 19

0 1 0 0 0 0 0 4 10 0 0 3 18

0 0 0 4 5 3 6 0 1 0 3 4 26

0 1 0 2 0 1 1 7 1 1 2 3 19

0 0 2 0 1 0 0 9 3 1 7 1 24

0 0 0 0 1 0 4 0 0 6 1 0 12

0 0 0 0 0 0 1 2 1 10 0 11 25

0 1 0 0 0 0 0 4 0 6 3 3 17

1 0 0 0 0 0 0 14 1 0 2 0 18

1 2 0 0 0 0 0 3 1 3 12 5 27

0 0 0 0 0 0 0 5 0 8 1 12 26

1 0 0 0 0 0 0 3 1 3 1 1 10

1 0 0 0 0 0 1 3 14 0 1 0 20

1 0 2 1 1 0 2 1 5 1 0 0 14

1 6 3 2 1 0 0 2 5 1 0 1 22

3 0 0 0 0 4 1 3 7 0 1 0 19

0 0 0 0 0 7 1 0 5 0 2 0 15

1 2 1 0 2 0 3 0 0 5 6 0 20

2 0 0 0 0 2 3 5 0 1 0 1 14

3 1 0 0 1 0 0 0 0 6 1 0 12

0 0 0 0 5 3 0 1 0 8 5 0 22

0 0 0 1 3 2 0 1 2 5 3 0 17

1 1 1 0 3 4 2 0 3 4 0 6 25

7 1 0 1 8 14 2 2 2 6 0 4 47

7 3 0 1 2 6 0 0 0 0 0 0 19

30 24 9 31 79 47 45 104 81 88 51 66 655 1825

1826 1827 1819 1820 1821 1822 1823 1824 1802 1803 1804 1805

1818 1807 1808 1809 1810 1811 1812 1813 1814 1815 1816 1817

1828 計

11 12

1 2 3 4 5 6

1806

7 8 9 10 1801

69

ル語、マラーティー語、サンスクリット語教員のケアリー(William Carey)、ペルシア語 教員ラムスデン、ヒンドゥスターニー語教員テイラー(John William Taylor)は、評議員 会に「FWC法」改正案を提出し、1806年の「FWC法」で廃止されていた休暇を復活 させ、年に1ヶ月ずつ2回の休暇を設けるよう請願した〔Ranking 1921a, pp.13-14〕。

学期制が度々変更された理由については、定かではない。しかし、当初の4学期制で は休暇が多過ぎるとして1806年に一旦休暇が廃止されたものの、今度は休暇が無くな ってしまったために教職員や学生への負担が増え、そのために1814年に教職員によっ て再度休暇を設定すべきとの意見が出されたものと考えられる。1814 年に決定された 2学期制とその間の休暇の設定は、教職員や学生の視点から見て、適切な期間設定であ ったと考えられる。

4-2-3 受け入れ対象の学生

「FWC設立法9」には、以下のような記述がある。

(1)インドにいる3管区の会社の若手文官(junior civil servants)は全員、総督の命 令によってFWCへの入学を許される。

(2)インドにいる3管区の会社の若手軍官(junior military servants)は全員、総督 の命令によってFWCへの入学を許される。

〔P.P. 1812-13, p.21〕

ベンガルだけでなく、マドラスやボンベイの軍官を含めた官吏も、総督の許可があれば FWCで教育を受けることができた〔Vārṣṇeya 1947, p.14〕。

これらの記述によると、FWC は当初、インドに派遣される若手文官だけではなく、若手軍官 の養成も目指していたことになる。当時インドに派遣される官吏は EICの取締役による推薦を 必要としていたが、文官のみでなく軍官にも、FWC 入学への門戸は開かれていた。軍官にと ってもインド諸言語に精通していた方が、部下のインド兵を含む現地のインド人と意思疎通を 行ないやすくなるため有利であったはずである。このことから、FWCはEICのインドへの軍事 的支配を円滑に行えるようにするという役割も担っていたのではないかと考えられる。但し、文 官と比べて軍官の方が、FWCに在籍するのは困難なことであった。ピアソンによると、FWCで 学ぶことを許されたのは、ライター全員に加え、教養があり、強い推薦 を受けた 一部の士官

70

候補生(cadets)であったという〔Pearson 2010, p.123〕。1808年12月に入学した士官候補 生 W.Nisbet〔Das 1978, p.137〕が、その例である。「FWC 設立法 9」では文官と軍官の入 学基準は平等であると定められていたが、実際の入学基準とこれとは異なっていた73

それでも、軍官学生の人数は決して少なくはなく、むしろ多くいた。軍官学生の在籍人数の 推移は不明であるが、ヴァルシュネーヤによると、少なくとも1813年には20 人の軍官学生が 在籍し、30 人在籍していた年もあった。総督は、軍官学生の定員を 10 人とし、在学年数を 1 年と定めた〔Vārṣṇeya 1947, p.90〕。1814年にネパールとの戦争が起こると、FWCの軍官 学 生 は 現 役 武 官 と し て 戦 争 に 参 加 し 、 そ れ に 伴 い 数 人 の イ ン ド 人 教 員 も 解 雇 さ れ た

〔Vārṣṇeya 1947, pp.119-120〕。ネパールとの戦争は1817年まで続いたが、それ以降の軍 官学生の在籍人数については不明である。

FWCにはインド人の学生は在籍していなかったが、FWCが生み出した散文作品、辞書や 語学書は、インド諸語教育の普及に貢献した。

4-2-4 学位制度

FWC においても卒業した学生には学位(degree)が授与されていたが、単位に基づいた授 与が行われていた訳ではなかった。「FWC設立法9」では、学位制度や学生の卒業後につい て、以下のように記されている。

(1)〔FWC には〕学位制度が設けられ、この学位を取得することによって、学生はベンガル、セ

ント・ジョージ74、ボンベイの役所で業務に従事する資格を与えられる。

(2)〔FWCでは〕3年間在籍しなければ、卒業することはできない。3年を修了すると、FWC評

議員会から成績証明書を授与される。この証明書の写しが、監督者の元へと送られる。東 洋 言 語(Oriental languages)、 イ ス ラ ー ム 法 、 ヒ ン ド ゥ ー 法 、 東 洋 文 学(Oriental literature)に特に秀でた者は、名誉学位が正式に認められる。

73 他方、軍官学生にインド諸語教育を行うことが認められたのは、1813年になってからのことであった とする見解〔D.P.Sinha 1964, p.17〕も存在する。

74 インド南部のタミル・ナードゥ州北端部に位置する。1639年にEICは、コロマンデル海岸における根 拠地マスリパタムがゴールコンダ王国に脅かされるに至ったため、同地に代わる新たな根拠地としてマ ドラサパトナムを取得。1654年に、セント・ジョージ要塞が完成した。17世紀末には、マドラスは要 塞内の白人居住地区ホワイト・タウン、その北方のインド人居住地区ブラック・タウンの2つからなっ た。しかし18世紀中頃からマドラスは、ポンディシェリーを根拠地とするフランス、またマイソール のハイダル・アリーの軍勢によりしばしば攻撃され、1746年にはフランス軍に占領されたこともあっ た。現在もセント・ジョージ要塞は、州庁舎として行政中心の役割を果たしている〔応地 2006, pp.692-693〕