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ここでまず、当時の北インドの言語事情を知るために、いくつかの主要な言語名称に ついて簡単に整理をしておくこととする。

(1)カリー・ボーリー、ヒンディー

「ヒンディー」(Hindi)という語は、古代ペルシア人がインドという一つの文化的にま とまりのある地域を指すために使用した、「ヒンド」(Hind)という呼称に由来する。こ のように、「ヒンディー」は、元々、特定の言語の名称ではなく、「インドの」、「北イン ドに関連する」といった広い意味を持つ形容詞でもあった。

11 世紀になると、「ヒンディー」(Hindui, Hindavi, Hindvi, Hindvee, Hindwi, Hindwee, Hindovi, Hindowi, Hindowee31)は、「インド人」、「インド人の言葉」という 意味でも使用されるようになった。ただし、ここで言う「インド人の言葉」とは、ブラ ジ・バーシャーに代表される当時の北インド各地の代表的な複数の言語(方言群)を指 していた。

16 世紀以降には、それらの方言の内、デリーやメーラト近辺で話されていたヒンデ ィー語西部方言カリー・ボーリー(Kha ṛ i Boli) なども、カビールの宗教詩等の媒体と して用いられ始めていた。しかし、文学のための言語としては、カリー・ボーリーより も、ブラジ・バーシャーやアワディー32等の方が好んで使用される時代が長く続いた。

このカリー・ボーリーの新たな可能性が広く認識されるようになったのは、18 世紀後 半になってからのことであった。この時期から、カリー・ボーリー散文体の使用が、ブ

31 括弧内に上げた様々な呼称についてはウルドゥー文字による表記で、یدنہとیودنہを挙げることができ る。

32 ちなみに、当時のブラジ・バーシャーとアワディーが写本として書き記される場合には、デーヴァナー ガリー文字ではなく、ペルシア・アラビア文字を使用することがほとんどであった。

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ラジ・バーシャーに代わって、頻繁に見られるようになった。それ以前から、カリー・

ボーリー方言には、ペルシア語やアラビア語からの借用語が盛んに取り入れられ、次第 に北インド以外の地域でも使用されるようになっていたことから、当時インド統治を拡 大していた EIC は、ペルシア語よりも現実的な統治の言語としての、カリー・ボーリ ーの重要性を認識するようになっていった。カリー・ボーリーの名称自体は、FWCに 雇用されたインド人ムンシー、ラッルーラールによって、彼の散文作品『プレームサー

ガル』(Prem Sagar)において初めて用いられたが、やがて現在のヒンディー語を指すも

う一つの呼称として定着するようになっていった。こうして、カリー・ボーリーは、19 世紀半ば以降には、教育の普及と、社会的・文化的意識や愛国心の高まりの中で、文学 活動や民衆の意思疎通の中心的な媒体の一つとなるとともに、やがてその呼称は「ヒン ディー語」という言語名称に吸収されていった。

(2) ヒンドゥスターニー、ウルドゥー

「ヒンドスターン」(Hindostan)という名称そのものは、ヴィンディア山脈以北、よ り厳密にはガンジス、ヤムナー両河の流域としての北インド地域を指して、ヨーロッパ の地理学者が使用したものである。この語の派生語としての「ヒンドゥスターニー」

(Hindustani) も、ヒンディーの語と同様に、当初は言語名称として用いられてはいな

かった。

「ヒンドゥスターニー」が言語名として用いられるようになったのは、16 世紀以降 になってからのことであり、広義では「全インド亜大陸で通用する共通語」、狭義では

「北インドの共通語」という意味を持った。一方、「ウルドゥー」(Urdu) という名称は、

「幕営・軍営」を指すトルコ語起源の「ウルドゥー」という語にちなんで付けられたも のである。この名称は、デリーのシャージャハーナバード界隈の幕営を指す地名として 知られていた。ウルドゥー語は、アラビア語、ペルシア語、トルコ語の語彙を多用した、

独特な語り口の言語とされた〔山根 2007, pp.23-25〕。

現代においても、ヒンドゥスターニー語の定義は様々になされることがあるものの、

一般的には、ペルシア・アラビア語からの借用語が多いスタイルの言語をウルドゥー語、

それと対照的にサンスクリット語からの借用語を多用するスタイルをヒンディー語と 称すると考えて大きな誤りはない。前者は、ペルシア・アラビア文字を使用し、後者は

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デーヴァナーガリー文字を使用する。どちらかの語彙群にも極端に偏ることのない、平 易な共通語彙の使用を旨とするスタイル、いわば民衆の生活のレベルで使用されている スタイルを特にヒンドゥスターニー語と呼び、この種のスタイルの普及が推奨されるこ ともあったが、現在ではそのような動きはほとんど見られなくなっている。その意味で、

このヒンドゥスターニーという言語名称は、現在ではヒンディー語、あるいはウルドゥ ー語という二つの言語名称に取って代わられているといっても過言ではない。

むしろ、本論との関連において興味深いのは、この本来は「ヒンディー」という語と 同じく広い意味合いを持っていた「ヒンドゥスターニー」の語が、イギリス統治の進展 に伴って、彼らイギリス人にとって、最も有用かつ有力であると見なされた一つの特定 の言語スタイル、すなわち現在のウルドゥー語という言語名称が意味するものと同じも のを指すとの理解が次第に広がっていった事実である。とはいえ、今で言うところのヒ ンディー語とウルドゥー語が言語としてはほぼ同一の基本的性質を備えながら、使用す る文字体系が明らかに別であることから、文字の違い、イコール言語の別を示すものと 考えられがちとなり、同じ一つのヒンドゥスターニーという名称が、果たして言語を指 すものなのか、それとも文字体系を指しているのかが、しばしば曖昧なものともなった。

同じことは、ヒンディーという語が指し示すものについても起こった。これが、当時の 言語の実態についての理解を妨げる混乱の因ともなっている。いずれにしても、FWC の存在した時期は、ヒンディー、カリー・ボーリー、ヒンドゥスターニー、ウルドゥー とさまざまな名前で呼ばれた、基本的には同じ一つの言語が、その内部にはらんでいた 将来の多様な言語スタイルの発展への可能性を模索していた時期であったと言える。

3-5-2 オリエンタル学校

先に述べた施策を実施すべく、ウェルズリー総督は、オリエンタル学校でのペルシア語とヒ ンドゥスターニー語の教育コースへインド派遣書記を派遣した。オリエンタル学校は、FWC の 原型とも言うべき組織であった。この学校が成果を上げたことで、ウェルズリー総督はFWC の 設立を構想するに至った。ここで、FWC 前史として、オリエンタル学校における教育内容につ いて述べる。

FWC は、ウェルズリー総督の主導で設立されたが、その前身であるオリエンタル学校に関 しては、ギルクリストからの提案を契機として設立がなされた。このことから、ギルクリストは、

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FWCの設立構想の段階から大きな影響力を及ぼした人物であったと言える。

当時はヒンドゥスターニー語やペルシア語の教育を行うために、インド人教師としてムンシー が雇われることが多かったが、彼らには、英語の知識が全くなかった。そこで 1799 年 2 月に は、幾人かの若手の文官達が、ギルクリストによるオリエンタル学校の教育コースに出席するよ うにとの指示を受けた。

ギルクリストは、インド人学者は英語を理解できず、イギリス人文官もインド諸語を知らないが、

イギリス人文官にインド諸語を教えれば彼らはインド人学者と話ができ、ペルシア語の習得が 容易になると考えた〔Samīʿullāh 1989, p.11〕。彼は、若手インド派遣書記がムンシーか らペルシア語を学び始める前に、ヒンドゥスターニー語と、初級のペルシア語文法を教 えてはどうかと提案した〔Vārṣṇeya 1947, p.6〕。ウェルズリーは、自身の官吏養成計 画にギルクリストが協力してくれることを希望した〔Vārṣṇeya 1947, p.6〕。

オリエンタル学校の運営は、FWCと比べて小規模であり、経費も多くかかってはいなかった。

のちに取締役会はFWCが大規模な組織だと思わなかったとしてFWCに反対することになる が、これは取締役会が、FWC の規模がオリエンタル学校と同じくらいの規模であると誤解して いたために起こったことである。ギルクリストが多くの報酬や経費を求めなかったことも、オリエ ンタル学校が小規模で済んだ理由の1つであった。1798年12 月15日付でベンガル政府 から宛てられた公文書33では、ギルクリストはヒンドゥスターニー語とペルシア語を教える際の報 酬について、それまでムンシーを雇うのに支払われていた金額以上のものは望まないと述べ ている34〔IOR/H/488, p.1〕。ウェルズリーは、官吏がムンシーを雇う費用を支給する制度 を廃止し、その代わりに官吏がインドに来て1年の間、ギルクリストに費用を支給する 制度を作った〔Vārṣṇeya 1947, p.6〕。

1798 年 12 月 24 日付で政府事務官からギルクリストへ雇用する旨の手紙が送られ

〔Samīʿullāh 1989, p.12〕、翌25日付で、ギルクリストは雇用された〔Begum 1983, p.30〕。

同日にギルクリストには、ライターズ・ビルディングズの一室が与えられた〔Samīʿullāh 1989, p.13〕。

ギルクリストは、1799年2月にオリエンタル学校の教壇に立ち始めた〔Kidwai 1972, p.46〕

33 内容から、取締役会に宛てたものと思われる。

34 但し、ギルクリストの監督者であったフランシス・グラッドウィン(Francis Gladwin)は、オリエンタ ル学校の財政支援を政府に求めている。政府は教科書を、116ルピーで200部学校用に購入した

〔Vārṣṇeya 1947, p.6〕