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明確な目的の下で設立され、インド諸語の教育、研究、出版等において功績を残した FWC であるが、EIC の取締役会等からの反対を受け、廃止されるに至った。この節では、

FWCがそうした反対を受け続けた過程について述べる。

4-3-1 廃止に至るまでの FWC の変遷

FWC の設立は、取締役会の許可を得る前になされた。しかし、FWC を縮小・廃止する決 定権は、取締役会にあった。このため、FWC は、設立時から廃止時まで、取締役会から何度 も縮小や廃止の命令を受けた。この項では、主に FWC の縮小・廃止に向けて取締役会等と の間で送受された文書の内容を取り上げ、FWCが廃止に至るまでの出来事を辿る。

当時、FWCの設立や存続に対しては、以下のように賛成意見も出されていた。

ウェルズリーは、イギリスの内閣やインド統治関係者に、自身の覚書や法規などを配り、

FWC設立に賛成する人々を募った。キリスト教布教者も、宗教を広めるべく、彼の計画を賞賛 している〔Vārṣṇeya 1947, p.29〕。後でも述べるが、ピット首相やインド監督局は、FWCの設 立に賛成していた。これは、ウェルズリーのこうした働きかけによるものと考えられる。

ウェルズリーの計画に賛成した者のうち、ヘースティングズ元総督は、以下のように意見を述 べた。

78 尚、FWCで授与された学位が学生の配属先の決定にどこまで関わっていたのかについては、本論文 中で言及出来ていない。

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「3年程前、私はオックスフォード大学でペルシア語教育を行うことについて1つの 提案をし、印刷物を会社の取締役会に送りました。しかし支援は受けられず、その意 見は却下されてしまいました。私は、ウェルズリー総督と完全に同じ意見を持ってい る訳ではありませんが、理論としては同じであったと証明できます。私は、採用された ライターは、ヨーロッパの学問を、またオックスフォード大学でペルシア語を学ぶため に、一定の期間彼らを留めるべきだと助言しました。ウェルズリー氏は大規模な計画 を提案し、ベンガルをその中心地としました。これは一層望ましいことです。何故なら、

若い年齢の方が、学生は職員の完全な監督下に置かれ、気候に慣れ、社会の慣習 を知ることができ、発音を学んだり考えを理解したり記憶したりすることが容易であり、

すぐに習得することができるからです。」 〔Vārṣṇeya 1947, p.28〕

同じベンガル総督を経験し、会社官吏への現地語教育の必要性に気付いていたヘース ティングズは、ウェルズリーの良き理解者であった。

しかし、これまでにも述べた通り、取締役会は、FWCの存続に一貫して反対した。その反対 理由は、以下のようなものであった。

取締役会のグラントらは、FWC が政治的効果だけでなく宗教的・倫理的効果をもたらすと 信じていた。しかし、グラントは、FWC の3 つの欠点に気付いていた。それは、EIC に及ぶと 予想される経済的負担、カレッジの機能が広範に渡り過ぎていたこと、カレッジの教育計画目 標が高度過ぎたこと、であった。また、グラントは、インドへ派遣される官吏がインドの思考様式 に染まってしまうことを恐れていた〔Das 1978, p.28〕。

ダースの研究書の中では、「政治的効果」や「宗教的・倫理的効果」が具体的に何を示すの かについて言及されていない。文脈からは、「政治的効果」はFWCが行政に携わる官吏を多 く輩出したという点でインド行政に影響力を持ったこと、「宗教的・倫理的効果」は、官吏が FWC での教育を受ける中でキリスト教に基づく道徳観を養ったことを指していると読み取れる。

しかし、こうした効果が期待されても、FWC が EIC にもたらすと考えられる損害は、看過でき ないものであった。

また、1802年1月27日付の取締役会からベンガル政府に宛てられた書簡の以下の内容 からは、ウェルズリー総督の FWC 設立計画が、取締役会側が予想していたものと異なってい たことが窺える。

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「FWC を設立することに関して、私達はウェルズリーの計画や理由について考え ました。もっとも私達はウェルズリーの計画の価値を認めています。しかし、会社の現 状においては、インドにおいて彼は多くの借金を作り、現地がかつてないほどの資金 不足に陥っており、その結果会社の名誉は打撃を受け、多くの任務が存続の危機に あります。私達は、自らの務めに注意を向けながら、良いと思う部分があろうとも、一 つの組織を直ちに設立したことを受け入れることはできません。組織の設立によって、

会社がどれほどの浪費をするのか推測できません。」

「このような大きな任務を引き受ける前には、会計書を書くという決まりがあります。

この任務を行うために、私達がその費用を正確に計算する時間は十分ありました。」

「私達は、通知なしに FWC を設立したことに対して総督が示した理由を、慎重に 考慮しました。しかし、設立方法を無視することは決して出来ません。インド統治政府 の権限を脅かすことになります。何故なら、一度業務が始まってしまえば、政府が信 用していようと多くの費用がかけられようと、インドを統治する政府の権力が弱まった

と見なされてしまうからです。」

〔Vārṣṇeya 1947, p.30-31〕

「1800年5月7日付の書簡で、ギルクリストの組織を大規模化したいという総督の 意向を確かに受け入れました。しかし、同年 8 月の覚書で示されているような、あまり にも大規模な組織を総督が計画していたとは知りませんでした。ギルクリストの学校 はヒンドゥスターニー語とペルシア語の一般的な知識を習得するためのものでしたが、

総督は法律も学べる学校を目指していることも判明しました。」

〔IOR/H/487, pp.250-251〕

この書簡は、オリエンタル学校を復活させるという形で、FWCの存続を命令している。

“We therefore direct that you take into consideration the reestablishment of this seminary which we think may be successfully conducted without any considerable expense to the Company.”

規模縮小に関する命令の具体的な内容は、FWC の開講科目数や運営にかかる経費を削 減するように、というものであった。その中では、取締役会が FWC の縮小を命令する理由とし て、FWCの設立については事前に提案を受けて1800年5月7日付で設立を許可する旨の 回答を送付していたが、総督が言語科目だけでなく法律科目も開講するような大規模な教育

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組織を設立するとは予想していなかった〔IOR/H/487, pp.245-251〕と述べられている。取締 役会は、FWCが大規模で莫大な費用を要することや教授の人数が多過ぎること、また、ヨーロ ッパの文学や古典よりも東洋の学問に特に力を注ぐ方が望ましいであろうことから、FWCの存 続に反対した〔Bowen 1955, p.109〕。

これらの記述から、取締役会は、FWC を、言語科目以外の科目を不開講とし、ギルクリスト の語学学校として縮小させた形で存続させようとしていたことが窺える。

ウェルズリーが決定を下さないうちに、FWCの学生の間には、FWC が廃止されるとの噂が 広まり、動揺が広まった。1802年6月14日に学長によって学生に通知79が出され、事態は収 束した〔Samīʿullāh 1989, p.39〕。

翌日の1802年6月15日には、ウェルズリーは取締役会からの手紙を受け取った〔Siddiqi

1979, p.119〕。この手紙は、FWCの廃止を命令する内容のもので、彼は自尊心を大きく傷つ

けられた〔Vārṣṇeya 1947, p.30〕。

1802年6月24日にウェルズリーはFWCの廃止に同意したが、1803年12月31日より も前に廃止とするのは、学生が在学しているので適切ではないとした〔Samīʿullāh 1989,

pp.37-38〕。同月にウェルズリーは、在籍している学生が学習を終えるまでは FWC を廃止す

べきではないとして、インド監督局長カッスルレー(Castlereagh)を説得した。カッスルレーは ウェルズリーを支持したが、取締役会から強い反対にあった〔Das 1978, pp.26-27〕。

1802年6月27日付のウェルズリー総督の報告書には、取締役会にFWCの廃止を1803 年 12 月 31 日まで延期してもらえるよう、会長に手紙を書くつもりであることが記されている

〔IOR/H/487, p.362〕。取締役会のみに対してではなく、ウェルズリーは数人の知人にも手紙 を送っている。例えば1802年8月5日には、ダートマス伯爵(earl of Dartmouth)という人物 に、FWC の計画への協力を求める手紙を、1804年6月19 日には帰国後にFWC の計画 を上院議会の議題にするつもりであるとの内容の手紙を送った80〔Vārṣṇeya 1947, pp.37-39〕。

FWC の存続について、取締役会とインド監督局は意見を対立させた。取締役会は直ちに FWCを廃止するべきとの意向であったが、インド監督局側は存続させるべきとの考えであった

79 この通知の内容については不明であるが、「直ちにFWCを廃止することはない」といった内容のもの と思われる。

80 1804619日付の手紙の宛先については、同文献中では「1人の友人」としか言及されておら ず、不明である。